溥儀 | わが半生 「満州国」皇帝の自伝

初夏から梅雨にかけて

溥儀/ふぎの自伝「わが半生/我的前半生」を読んだ。

 

昨夏に記録映画「東京裁判」を観た際に、

法廷で証言をする溥儀に興味をもったことと、

ベルトルッチの映画「ラストエンペラー」を

再観したことが、きっかっけだった。

 

愛新覚羅・溥儀/1908‐67は

まさに歴史に翻弄された元皇帝だ。

ほんの2歳で清朝の第12第・皇帝に即位し、

辛亥革命による王朝の終焉とともに6歳で退位し、

5年後まぼろしのように再び数日間皇帝となり、

いつしか日本人と結託して満州国の皇帝となり、

敗戦とともに捕虜となって、のちに戦争犯罪人として、

のべ15年にわたる収容所生活を送り、

その間に大改造を遂げ人民として再生したという、

特異な運命を生き抜いた人物だ。

 

本書は、中国政府の管理する戦犯収容所にて

思想改造のために、自白と罪の自己認識を目的として

まとめられた回想録を原点としているという。

溥儀が口述したものを、

共に収容されていた弟・溥傑/ふけつが

文章化したものだったようだ。 

その記録が政府や関係者等に配布されて反響を呼び、

本格的に書籍化すべく書き改めるために

ライター・李文逹との共同作業が開始されたのは、

溥儀が特赦をうけて北京植物園に勤めはじめた1960年だったという。

膨大な歴史的資料を紐解きつつ、なんども練り直されて、

1964年に刊行されるとすぐに日本語にも翻訳されたようだ。

絶版と再販を重ね、今回は筑摩書房の叢書/1977年および

文庫/1992年に収録された版を読むことができた。

 

本書でおよそ年代順に語られる人生模様は、

個人史としても歴史としても実に興味深い。

皇帝というものがどのようにつくられるのか、

ひいては人間というものがどのようにつくられるのかを、

みているようでもあった。

およそ270年続いた清王朝

愛新覚羅/あいしんかくら一族としての家系や生い立ちから、

物心ついたばかりの頃の帝王生活につづく

革命後の廃帝生活は恐ろしいほど人間離れしているし、

一族の誇りをかけて再び皇帝になるという野心が

日本軍国主義の野望と奇妙な一致を遂げてゆく様は、

よく練られた悲劇の舞台をみているようだった。

今となっては傀儡国家と皮肉される満州国だけれど、

曲りなりにも14年間成立していたのだから、

よほど心血を注いでのことだったのだと思う。

日本は国土が小さく資源も少ないという認識のもと、

列強国と対等に渡り合うために

満州の資源豊かな荒野を開拓したけれど、

そもそもの焦りや劣等感が自存自衛という名分を得て

死に物狂いの大戦へとつながったのだと思うと、胸が痛む。

遡れば、江戸末期の開国時に交わされた

不平等条約にまで辿り着くようだし、また明治維新でさえ

背景にイギリスやフランスの援助と思惑があったというから、

国家というのは、なんとも込み入った世界情勢と

無縁ではいられないのだろう。

 

一転して感動的なのは、

戦犯・溥儀のメタモルフォーゼのドラマだ。

かつての皇帝は、掃除や洗濯は勿論、

身だしなみを整えることも、靴の紐を結ぶことも、

足を洗うことも、自分でドアを開けることも、

水道の蛇口を開閉することも、

しゃもじ・包丁・はさみ・針・糸・などを

さわったことも、なかったという。

侍従の者にかしずかれて、気位が高く、虚弱で、

ほとんど雲の上に生きていたような人を、

学習と労働による改造計画を通して導いたのは、 

毛沢東主席を筆頭とした中国共産党による新政府だ。

内乱や戦争に明け暮れた広大な中国をおおむね統一し、

ひとりひとりの人民が主人公となる新世界を実現した力は、

本物と思えた。

 

たまたま図書館で

VHS「ラストエンペラー溥儀 来日特集」上下巻を

みつけて観たが、1935年初来日時/29歳の若き皇帝が

ほとんど人身御供のようにみえたし、

その皇帝をなかば盲目的に崇拝する日本国民は

なにかのお芝居のようにみえたのだった。

 

盛夏をむかえ8月が近づいてくると

終戦日が思われるけれど、

今年も小林正樹監督の「東京裁判」を観ようと思う。

 

戦争という悲劇のなかに、

高貴な意図や高邁な理想が紛れ込んでいること、

それが野蛮な戦略に利用されることが、

なんとも気になるのだ。

 

砂の中の砂金のように。

茅の輪くぐり

夏日がつづいている関東地方、

2018年の梅雨は6月29日頃にあけたことを

山手線のトレインチャンネルで知った。

そろそろ夏も本番だ。

 

翌日、6月も最終日のよく晴れた空に、

太陽をぐるっとかこんだ虹のようなものが現れた。

 

ちょうどお昼頃だったので

太陽は真上に高く輝いていたが、

そのまわりにくっきりと、

フラフープのような虹色の輪がかかって、

とても美しかった。

 

調べてみるとそれは

暈/はろ、日暈/ひがさ、などと呼ばれる大気光学現象のようだ。

上空の高い場所で、雲を形成する氷の結晶が

プリズムとなって太陽光を屈折させることでおこるという。

 

折りしも6月30日は

夏越の祓の行事が各地で行われる日だ。

半年間の穢れを祓い、つづく半年間の安泰を祈願して

茅の輪をくぐるように、

空にかかった太陽のまわりの虹が

なんだか世界の茅の輪くぐりのようにみえたのだった。

 

2018年の上半期に感謝しつつ、

つづく下半期も充実したものとなりますように。

図書館

図書館がすきでよく利用する。

 

詳しく調べたい事柄があるときは

蔵書検索のデーターベースがとても便利だし、

区内に在庫がないときは

他区の図書館から取り寄せて借りることもできるし、

新しい世界を求めているとき、

あるいはなんとなく、

なにかと近所の区立図書館に足が向く。

 

時には書店へ行き、

最新の風にあたるのもわくわくするけれど、

特に大型の書店へゆくと眩暈がして、

気持ちわるくなくなってしまうことが時々ある。

すきな本に囲まれているのにうらはらだけれど、

エネルギッシュかつ圧倒的な情報量に、

キャパシティーオーバーになってしまうのかもしれない。

 

また古本屋さんでの

ランダムな本との出会い方や、

店主が采配をふるうユニークなレイアウトも楽しい。

 

本屋さんと図書館は本質的に異なるので、

くらべることはできないけれど、

わたしの場合、図書館へ行くと

たとえば家に帰ったように、なんともほっとするから不思議だ。

子どものころ、

近所に私設の「柿の木文庫」という

本を貸してくださる有志のお宅があって、

絵本を借りによく通ったことが思いだされるけれど、

わたしにとって図書館というサンクチュアリは、

そのような原体験とも結びついているのかもしれない。 

 

ところで図書館の本はすべて

ビニールコーティングされているけれど、

汚れていたり黒ずんでいたりするので、

わたしは借りてくるとまず表面をひと通り、

電解水やメラミンスポンジでクリーニングする。 

するとずいぶんピカピカになるし、

色々な人が触っているのも気にならなくなり、

家で気持よく読むことができる。 

あるいは神経質と思われるかもしれないけれど、

同じように感じている人も多いのではと思いつつ、

借りた人が本を簡単にクリーニングできるようなグッズが

図書館にあったら便利だなと、いつも思う。

 

本は人にとって、

空気や水や食物と同じように、

栄養なのだと思う。

 

そろそろ梅雨もあける頃だろうか。

しとしとと雨の降る静かな日に

いつもより人気の少ない図書館で本の匂いにつつまれたり、

湿気を含んだふにょふにょのページをめくるのも、

季節ならではの味わいかな。 

エルンスト・ルビッチ | To Be or Not to Be

エルンスト・ルビッチ/Erunst Lubitsch の

映画「To Be or Not to Be/生きるべきか死ぬべきか」を観た。

 

第二次大戦中の1942年にアメリカで制作された本作は、

恋愛と戦争サスペンスとが織り込まれた

シニカルなコメディタッチのモノクローム映画だ。

 

物語はポーランドの首都ワルシャワを舞台に、 

第二次世界大戦のきっかけとなった

ナチス・ドイツを筆頭としたポーランドへの

歴史的な侵攻/1939年の直前からはじまる。

主人公は舞台俳優のヨーゼフとマリアのトゥーラ夫妻で、

冒頭では、当時ヨーロッパで勢力を拡大していた

総統ヒットラーを巧みに皮肉った舞台の稽古模様が展開され、

その小気味のよさにドキリとするやら笑っていいやら。

とまれ不穏な情勢のためにプログラムの変更を余儀なくされ、

やむなくシェークスピアの戯曲「ハムレット」を公演することとなる。

一座の看板女優である夫人マリアは、

連日の花束の送り主で熱烈なファンである青年ソビンスキーを

楽屋に招待すべく、メッセージを手紙にて言づける。

劇中、夫ヨーゼフ演じるハムレット王子の名台詞

「To be , or not to be , ー」を合図に訪ねてくるようにと。

素知らぬ夫ヨーゼフは名場面の最中に退場する青年を認めて、

役者としての自らの才能を憂う一方、

夫人マリアはソビンスキーと逢瀬を重ね、

ちょっとしたロマンスを楽しんでいた。

そんな中、ドイツのポーランド侵攻とともに戦争に突入し、

首都ワルシャワも陥落し、

ポーランド空軍所属のソビンスキー中尉は

マリアとの別れを惜しみつつ同盟国イギリスへと旅立つ。

彼の地にて、極秘任務を携えて

イギリスからポーランドへ渡るというシレツキー教授と出会い、

恋するマリアへの伝言「To be , or not to be」を託すことに。

ところがひょんなことから

シレツキー教授がナチスのスパイであることが発覚し、

ワルシャワの地下抵抗組織の情報を携えたシレツキー教授が

占領軍ゲシュタポに情報を通告することを阻止すべく

特務を受けたソビンスキーが帰国したことから、

物語は一気に白熱する。

マリアとヨーゼフの夫妻を巻き込んで、また劇団員を総動員して、

冒頭で上演不可となったゲシュタポを題材とした演劇を下書きに、

大胆な一世一代の大芝居をうって、

スパイ・シレツキー教授の暗殺に成功。

ほっとしたのも束の間、嘘が嘘を、芝居が芝居を呼ぶように、

さらなる危機を乗り越えるべく命がけの芝居を重ねて、

終には一同ポーランドから脱出し、一件落着、

大団円のうちに終幕という、およそ100分の物語だ。

 

 

4月末にメゾン・エルメスのル・ステュディオで観て、

再度DVDを借りて観たのだが、

ほんとうに素晴らしい映画だった。

なんといっても物語がよく練られていて、

ハンガリーの劇作家

メルヒオル・レンジェル/Melchior Lengyelによる脚本も、

役者を演じる芸達者な役者たちも、

ユーモラスで軽妙洒脱な演出も、

ほんとうに素晴らしかった。

 

第二次世界大戦の只中に、

まだ情勢が定まらないときに、

ドイツ・ベルリン生まれでアメリカの市民権をもつ

晩年のルビッチ監督/1892‐1947が、

このような作品を創ったということに、驚く。

 

もちろん公開当時に日本で封切られることはなく、

一説には1989年にようやく公開されたようだけれど、

不謹慎にも、このような上手/うわてな作品を創作する国と

戦争しても勝てるはずがないと思ったのだった。

 

劇中および題名に引用された通称「HAMLET」、

「THE TRAGEDY OF HAMLET , PRINCE OF DENMARK

デンマーク王子ハムレットの悲劇」は、

北欧の伝承物語をもとにウィリアム・シェイクスピアによって

1600年頃に書かれたとされる戯曲だが、

劇中劇が物語を推進してゆくというプロットが

映画ではより徹底され拡大され、

負けず劣らずの群像劇という印象だった。

第3幕第1場の名台詞「To be , or not to be , that is the question」は、

さまざまに解釈できるため翻訳も一様ではないけれど、

そんなところもまた古典の魅力のひとつだろう。

 

映画を機に、

シェイクスピア文学の世界を探検したい、

2018年の関東もそろそろ梅雨入りというところ、

かたつむりが喜ぶシーズンだ。 

バラの樹

子どものころ住んでいた祖父母の家の庭に

淡いピンク色のバラの樹があった。

 

幼児ほどの背丈の若い樹だったように思う。

家を建替えて間もない頃だったので

気ままに造園していたのかもしれない、

あるとき祖母が挿し木という園芸方法を教えてくれた。

ある種の植物を、適当なところで切って、土に挿すと、

うまくゆけば生育するという。

そんなアメーバみたいなことがあるのかと

子どもながらに不思議に感じたものだ。

そしてものは試しとでもいうように、

淡いピンク色のバラの樹を、挿し木してみることになった。

祖母が一枝、つづいて少女も一枝、カットして

庭の土に並べて挿した。

子どもが持つには大きな、実用的な空色のジョーロで、

シャワーのような水をたっぷり注いだ。

 

その日は、良く晴れた日だったけれど、何月だったのだろう。

少女は小学校の低~中学年くらいだったように思う、

おおよそ30年ほど前の思い出だ。

 

時が過ぎて、現在は叔父が住み継いでいるその家の庭で、

淡いピンク色のバラの樹は、今も元気に生きている。

親樹はもちろんのこと、

祖母と孫娘の挿した枝はほとんど一体になりながら、

こんもりと大人の背丈ほどに大きくなって、

八重の花をたくさん咲かせて、華やかだ。

その盛りには花の重みにたえかねて、

稲穂のように弧をかいていたから、

よほど土地と合っていたのだろう。

 

一方、江東区佐賀町の集合住宅に住むかつての孫娘は、

そのような思い出も手伝って、この春、

ベランダの空いた鉢に、バラの花を挿し木した。

 

昨年11月に、合唱の演奏会に参加した際に手にした

一輪の深紅の切り花を、一か月ほど楽しんだあと、

枯れてもなんとなく枯れたまま愛でていた。

水切りを繰返し15㎝ほどになった切り花は、

花から10㎝ほどはもろとも干からびて、

ドライフラワーと化していたのだが、バラにも節があるのか、

葉が左右に伸びていたところから若葉がでてきて、

残りの茎5㎝ほどは生命活動を続けている様子だった。

若葉が出ては萎れることを繰返していたが、そのうちに

最下部の茎の切断面に、始めはかさぶたのような、

次第に大きく膨らんで腫瘍のような、奇妙な隆起がみられて、

根を張っているのかもしれないと、その生命力にどきどきした。

いつのまにか冬を越し、春が来て、

いささかグロテスクなその球根らしきものは2.5㎝ほどになり、

そろそろと4月12日に、鉢に挿してみた。

 

その後しばらくは、

新しい環境が気に入ったのか、気に入らないのか、

いささか計りかねるとでもいったような、

まるで変化の認められない沈黙の日々が続いた。

およそ1か月を過ぎた5月も下旬に入ろうという近日になり、

ようやく再び若葉が芽吹き出し、葉の緑も色濃くなったので、

しばらくはこの場所で生きてみようと決めてくれたのだと、喜んだ。

 

淡いピンク色のバラの樹のように、

すくすく育ってくれたらうれしい。

 

いのちは、そのいのちをみつめる者によって、

大きくも小さくもなるから、面白い。

ミルチャ・カントル展 | 銀座メゾンエルメス

先日、銀座メゾンエルメスのギャラリーで

ミルチャ・カントル展を観た。

 

「あなたの存在に対する形容詞」と題された個展は、

1977年ルーマニア生まれのアーティストMircea Cantorが、

人間の存在性というテーマに取組み、

たとえば空気のように顧みられにくいその性質を知覚化し、

人々の意識や認識の拡張を試みる作家であることがうかがえる、

印象的な展覧会だった。

 

会場には、スタイルの異なる3つの作品が展示されていたが、

そのなかのひとつに、とりわけ明快で美しい作品があった。

インスタレーション「Are You the Wind?/風はあなた?」は、

ふつう風に揺られて鳴るWind Chime/風鈴をドアと連結させて、

観覧者が仮設の扉をスライドさせて展示空間に入ると

一面に吊られた無数のチャイムが鳴り響くという、

ごくシンプルな体験型の作品だ。

建築家レンゾ・ピアノのガラスキューブの透明な展示空間に、

無機質なステンレスのウィンドチャイムが幾重にも共鳴して、

星のように遠くあるいは近くで音が瞬き、なんとも壮麗だ。

それらがしだいに波のようにひいてゆく様は自然そのもので、

揺れ動く存在の音に耳を澄ますような繊細な体験だった。

その日は観覧者がまばらだったこともあり、

ほどよい静寂につつまれたころ、

再び他者の任意の入場とともに高らかに鐘の音が鳴り渡り、

気配が一瞬のうちに変転する様は、実に鮮やかで雄弁だ。

自分が扉をあけて入ったときの不確かな驚きと、

他者が扉をあけて入ってきたときの鐘の音の楽しさに、

ときめくような時間だった。

 

人の存在を鐘の音で暗示しつつ自然とその本質に導くような、

大きな作品に出逢えて、うれしい。

そこに独りよがりや勘ちがいはなく、

古典的ともいえる人間への信頼と愛が

現代的に表現されていたと思う。 

 

世界を変化させるのではなく、

わたしたちの意識が変化することで、

経験する世界が変わるということを示唆する、

巧まざるして巧みなクリエイション。

 

ゴールデンウィークで賑やかな銀座の街を、

心のなかに鳴り響く鐘の音を聴きながら、

静かに楽しく歩いたのだった。

 

生きているということ、

存在しているということは、

おそらくあらゆる形容にもまして、すばらしいことなのだ。

詩 しゃぼん玉

まんまる

きらきら

 

夢いっぱいに

ふくらんだ

 

しゃぼん玉のような 

こどものひとみが

 

いつしか

 

音もなく

はじけて

しぼんでしまうことがあっても

 

だいじょうぶ

 

地球に

やってきたばかりの

幼いたましいは

 

色々なことを

経験したくて

 

好奇心で

いっぱいだから

 

かくれんぼや

鬼ごっこが

だいすきで

 

ころんだり

ぶつけたり

すりむきながらも

 

知らないこと

初めてのこと

新しいことに

夢中になって

 

そのうちに

しゃぼん玉のことは

忘れてしまう

 

そして

どうかすると

うっかり

 

自分のことも

忘れてしまうかもしれない

 

けれども

いつか

 

風がふいたら

思い出す

 

虹をみつけるように

みつけるでしょう

 

雨上がりの

水たまりに映った

ひとみのなかに

 

まんまる

きらきら

 

しゃぼん玉のような

 

夢がいっぱい

つまっていることを