詩 なし

空がぐうんと

高くなって

 

雲がさまざまな

模様を絵描き出し

 

太陽の光は

透きとおって

 

絹のように

なめらかになり

 

夜の虫たちが

しとやかに

 

愛の重唱を

歌いはじめたら

 

秋ですよ

 

もう

秋ですよ

 

と風は涼やかに

 

頬をかすめて

たわむれる

 

そうして

わたしは

 

十五夜

お月さまのような

 

まあるく熟した

梨の果実に

 

くちづける

 

秋よ

ようこそ

 

うまれたての

あたらしい

 

秋よ

ようこそ

映画 東京裁判 | 小林正樹

映画監督・小林正樹が、5年の歳月をかけて

1983年に完成させた記録映画「東京裁判」を観た。

なぜ戦争が起こったのかという経緯や背景のみならず、

国際裁判をめぐる各国の思惑や各人の人間ドラマが、

277分の密度の高いフィルムにより浮き彫りになり、衝撃的だ。

 

通称・東京裁判、正式には極東国際軍事裁判

/INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FAR EAST は、

パリ不戦条約が交わされた年でもある1928/S03年より

太平洋戦争降伏に至る1945/S20年までの

およそ17年間の日本の戦争犯罪を問う軍事裁判だ。

 

連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は

西側で先行されたニュルンベルク裁判に倣い

1946年1月19日に極東国際軍事裁判所条例/憲章を発効。

昭和天皇45歳の誕生日である4月29日に起訴状全文と、

訴追される28名の国の代表者あるいは指導者が発表され、

その運命は裁判を通して最高責任者である元帥に委ねられた。

 

市ヶ谷の旧陸軍省/現市ヶ谷記念館に設置された法廷で

1946年5月3日に開廷された一審制の裁判は、

各国を代表する11人の判事団のもと、

各国の代表からなる11人の検察団と

日本およびアメリカ人による約30人の弁護団の双方により

およそ2年間にわたり審議が展開され、

全員有罪という判決をもって

1948年11月12日に閉廷となる。

 

当初訴因は55項目にわたり、

「平和に対する罪」が36項目、

「殺人及び殺人の共同謀議」が16項目、

「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」が3項目、

という等級ABCの3種の罪に問われた。

冒頭2日間にわたる長大な起訴状朗読に続く

罪状認否/アレインメントでは全員が無罪を主張。

裁判2日目に正式に結成されたという弁護団

裁判の進行について2か月の、最低3週間の猶予を訴えたが、

1週間の休廷をはさみ裁判は続行された。

 

続いて5月13日/法廷4日目より

数日にわたり裁判管轄権問題が審議された。

裁判自体の正当性・公正性について

興味深い意見が交わされる、本裁判の要所のひとつだ。

ある行為を後になって法律をつくって処罰することは如何か、

仮に条項が有効ならば連合国をも拘束するはずである、

という弁護側の動議に、検察側は裁判の意義を激しく主張。

続く2人のアメリカ人弁護人による補足動議では、

国際法は国家利益のために行う戦争を

これまで非合法とみなしたことはない、

国家の行為である戦争の個人責任を問うことは誤りである、

勝者による敗者の裁きは公正たりえない、と異議を唱えた。

そして広島・長崎への原子爆弾投下について言及するくだりは、

国家を超越した一個人の、深慮と勇気が胸にせまる。

英米法に精通したアメリカ人弁護士の協力が必要であるという

日本側からの要求に応じたマッカーサー元帥に代表される

アメリカという国の良質な一面に触れるようだった。

本件は理由を将来宣告するとして却下され、

うやむやなまま裁判は成立し、

各訴因の検察側の立証、弁護側の反証に突入する。

 

検察側の55項目にわたる立証は、

1946年6月4日より翌1月24日にかけて行われた。

この時点でようやく同時通訳のイヤホンが

整備されたというから、混乱のなかで

手探りで開始された裁判だったのだろう。

論告は主に、侵略戦争の計画遂行の共同謀議、

各国に対する戦争の計画・準備・開始・遂行、

開戦以前の条約違反、捕虜及び一般人の殺害、

戦争法規及び慣例法規違反などが、

満州事変、支那事変、三国同盟、太平洋戦争などの

各段階ごとに行われた。

日本国内での5-15や2-26のクーデター事件に象徴される

政府革新をもくろむ軍国主義的勢力の台頭の推移や、

戦争へ向けての教育・宣伝・検閲などの圧政の事実に加え、

自国民もはじめて知ることとなった

満州事変に代表される非道な戦争行為や

南京事件などの暴虐行為が明らかになり、

当時のショックは大きかっただろうと察せられる。

ここに連合国軍による裁判の意義もあったといえるだろう。

 

続いて弁護側の反証は、

1947年2月24日より立証に対照して行われ、

9月10日からの個人反証の段階では、

各被告に1回のみ与えられた証言の機会に注目が集まる。

国家弁護を行ないながら同時に

個人弁護をも成立させる必要のある苦しい立場に、

うち9名の被告は証言台にたたないことを選んだという。

ダイジェスト版である本フィルムでは

幾人かの証言がクローズアップされているが、

そのひとつ、東郷外務大臣と嶋田海軍大臣

真珠湾攻撃におけるフライングの問題についての

証言の対立では、長年の関係不信の結果を、ひいては

国内の不和・分裂・機能不全の一端を垣間みるようだった。

また悪役として名高い東條総理大臣・陸軍大臣

国際法からみて戦争が正しき戦争か否かという問題と、

敗戦の責任問題は明らかに別個とし、

侵略ではなく自衛の戦争であったという主張の一方で、

敗戦の責任は総理大臣であった自分の責任と明言した。

また天皇の免責問題については

「意思と反しましたか知れませんが、とにかく、私の進言、

統帥部その他の責任者の進言によって、

しぶしぶご同意になられたというのが事実でしょう。

陛下は最後の一瞬に至るまで平和のご希望をもっておられました。

なお戦争になってからにおいても然りです」と証言している。

敗戦直後の9月11日、逮捕に際し拳銃による自決を計った氏は、

瀕死の状態を連合国軍により救命され、

裁判を経て死刑に処されたが、集中的な非難を一身に負いつつ、

毅然かつ明晰に答弁する姿は、大器の人であったと見受けられた。

 

昭和に入ってからの日本は

世界恐慌による経済不況や国内情勢の行き詰まりに加え、

列強または大国の隆盛に脅威を覚え、次第に

国の尊厳を傷つけられつつあると認識したようだ。

負けるとわかっていた戦争を、自暴自棄的にあるいは

盲目的に勝たねばならぬとして強行した立場の弱さは

神風特攻隊作戦などの狂気へ昇華されたかのようだ。

被告のひとりである賀屋大蔵大臣は

「ナチと一緒に、挙国一致、超党派的に

侵略計画を立てたという。そんなことはない。

軍部はつっぱしるといい、政治家は困るといい、

北だ南だと国内はがたがたで、

おかげでろくに計画もできず、戦争になってしまった。

それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」 

と象徴的な感想を伝えている。

 

1948年2月11日より

検察側の最終論告と弁護側の最終弁論が行われ、

4月16日をもって審理は終了となる。

証人喚問419名、口供書提出779名の、歴史的大裁判だ。

法廷は約7か月後の11月4日に再開され、

長大な判決文がおよそ1週間にわたり朗読されたという。

11月12日法廷第416日、

最終的に10項目にまとめられた訴因により、

各被告に刑の宣告が行われた。

Death by hanging/絞首刑7名、

Imprisonment for life/終身禁固刑16名、

7年および20年の禁固刑が各1名、

また公判中に病死した被告が2名、

精神障害により免訴となった被告が1名であった。

11月23日マッカーサー元帥は判決通りの刑の執行を決定し、

皇太子/現平成天皇の15歳の誕生日である12月23日に

厳かに刑は執行されたという。

現在7名は公務殉職者として、

安らかに眠っていると信じたい。

 

判決は11名の判事の多数決により判定されたが、

うち3名が反対の意見書を提出し、

なかでもインド代表・パール判事による

「パール判決書/Dissentiment Judgment of Justice Pal」は

その質量ともに圧倒的な、歴史的文献であるという。

法廷において朗読されることのなかったその意見書では、

裁判所条例といえども国際法をこえることは越権である、

国際裁判所の裁判官は最高司令官より上位にたって

裁定する権限をもつべきであると表明し、

この裁判においては日本の行為が侵略であったかを

正すことが本義であったにもかかわらず、

裁判所側がはじめから侵略戦争であったとの前提で

裁判を進めたこと、事後法である等を批判しているという。

「パール判決書」の全訳は、都築陽太郎氏による新訳が

2016年末に幻冬舎から刊行されたばかりなので、

既刊の講談社学術文庫版とともに、

日本語で本判決書の全貌に接することができ、興味深い。

 

また裁判長ウェッブ判事は別個意見として、

開戦の決定がたとえ周囲の進言に従ったとはいえ

日本国最大最高の権限をもつ立憲君主の責任は

免れるものではない、天皇を不起訴とする以上

死刑を含む量刑をもって被告たちを有罪とするのは

公平を欠くものである、という意見書を提出している。

法廷で弁護人と衝突したり、公判中に別件で帰国したりと、

何かとお騒がせな裁判長も、マッカーサー元帥の

天皇不起訴の方針に一物を抱えていたようだ。

 

戦勝国による敗戦国に対する

制裁とも報復とも捉えられ兼ねない、

きわどい、政治的な裁判であっただろうが、

当時誰かが罰せられる必要があったのだろう。

力の強い者が勝ち、力の弱い者が負けるのは自然だが、

殺し合いの結果である以上、どちらにしても辛いはずだ。

また仮にもし自国で裁判を行っていたら

真実は葬られたままで、その罰に対しては

より過激なものになっていた可能性もないとはいえない。

 

日本が大東亜戦争と呼び、

世界が太平洋戦争と呼んだ戦争から70年以上が経過したが、

パール判決書を片手に東京裁判をもうすこし追ってみたい。

どうして戦争はおこったのか、また今現在

どうして世界から戦争はなくならないのか、

そしてみんなで仲良く生きていくためには

どうしたらよいのかを、知りたい。

 

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから

人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」

ユネスコ憲章・1945年11月16日

静かなる情熱 エミリ・ディキンスン

公開中の映画「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」を

神保町の岩波ホールで観た。

 

2016年に制作された

イギリスのテレンス・デイヴィス監督・脚本による

原題「A QUIET PASSION」は、

かつての知られざる詩人の生涯を、

静かに情熱的に、きめ細やかに描き出した伝記映画だ。

 

Emily Dickinson/1830-1886は、

アメリカ北東部のニューイングランド地方である

マサチューセッツ州アマストに生まれ、

生涯を同地で過ごした詩人だ。

17世紀にイギリスの清教徒ピューリタン

入植した歴史をもつ小さな農村アマストにおいて、

英国移民の血を受け継ぐ、町の名士の家柄であったという。

生前発表された作品は

主に新聞紙上にわずか10篇のみで、

ほとんど知られぬ存在だったようだが、

死後に残されたおよそ1800篇の詩は、

その親近者等の尽力により出版されて以来、

ドラマティックに評価・賞讃されつづけ、

現在ではアメリカを代表する詩人のひとりとされている。

その詩は、身近な事柄から、愛や死や人生や神までを、

ユニークでチャーミングに、あどけなくもときに鋭く、

自然と交歓しつつ歌う、稀有な鳥の歌のようだ。

 

けれども、生前は無名であったため、

また作品を公表することに消極的だった節もあり、

その生涯について多くを知るすべはないが、

現存する1000通を越えるレターや

17歳頃のポートレート2枚から、

その一端を垣間見れることは好運だ。

また、いくつかの成就しなかったロマンスの形跡や、

32歳頃から白いドレスを着用し、世間から隠遁し、 

ほとんど屋敷の外へ出なかったという逸話等にみられる

ミステリアスな側面も、

多くの人を惹きつけるトピックスだろう。

 

デイヴィス監督は、17歳頃の詩人が信仰を問われた際に、

教師の意に反する回答をしたことをきっかけに、

女学院を退学するというエピソードから物語をはじめる。

その後、両親・兄・妹等との

家族の強い絆のなかでの充足した裕福な暮らしぶりや、

ごく少数の友人たちとの交遊が、

アマストの生家/現ミュージアムを映像に織り込みつつ、

美しい自然と20篇ほどの詩とを背景に絵描かれ、

ゆるやかに詩人の人生の経過に寄り添う。

 

一方で、冒頭の信仰問答のシーンでは

純粋で意志の強い一面が、どこか英雄的に描かれているが、

場合によっては、その美質が裏目に出て、

父や兄との衝突、苛立ちや苦悩などによる感情の爆発となり、

たびたび自他を損なう、気難しい女性としても描写される。

 

詩人の人生に何らかの重大な出来事があったとされる、

最も多作であった1862年を中心として、64年までの3年間に、

およそ全1800篇の1/3以上の作品が編まれたというが、

映画では、俗説に基づいた失恋とも尊敬の喪失ともとれぬ

ぼんやりとした描写にとどめ、解釈は各自に委ねられていた。

 

当時ブライト病とよばれた腎臓炎で

55歳の生涯を閉じたエミリ・ディキンスン。 

まるで編み物をするように、パンを焼くように、

生活の営みとして、言葉を紡いだ詩人の独自性は、

任意に大文字を使用したり、ダッシュを多用したりと、

風変わりな筆記法にも象徴されているが、

Web上のEmily Dickinson Archiveにて、

原語の各版を、直筆とともに参照できることは、

ほんとうに興味深い。

 

ほとんど屋敷から外へ出る必要のなかったほどに

天国に生きていたであろうと、憧憬を感じつつ、

静かな情熱に導かれて、

私も私の天国に生きようと思う、晩夏の夕暮れだった。

 

はてさて、

映画のなかに、真実の彼女はいたのだろうか。

 

 

   To see the Summer

   Sky

   Is Poetry , though

   never in a Book

   it lie -

   True Poems flee -

                                              F1491A/Franklin Variorum 1998

                                              J1472/Johnson Poems 1955

 

   夏の空

   にみるの

   は詩、といっても

   本のなかにはけっしてない

   それは嘘ー

   真実の詩はにげてゆくー 

詩 ひまわり

ひまわりをみていると

少女であった幼い頃を

思い出す

 

夏休み

降りそそぐまぶしい太陽と

あふれるような蝉の鳴き声

 

背丈よりずっと高く

顔よりも大きい

ひまわりの花は

 

すこし首をうなだれて

少女に話しかけているようだった

 

彼女は天を仰ぎ

空にかかるお月さまのような

その花をみつめて

耳を澄ました

 

じーじーじー

みんみんみん

かなかなかな

 

蝉の鳴き声が交差するなか

少女にしか聴こえない

言葉が語られた

 

あなたのことが大好きです

あなたはわたしの宝物です

 

どきどきと

胸の高鳴りを覚えながら

彼女は

 

ひまわりの種をひとつ

手にとり

ちいさな秘跡として

両手でそっと握りしめた

 

絵日記の

ページをめくるように

夏は過ぎ

 

その種も

いつしかどこかに

置き忘れ

 

少女は

大人になるけれど

 

ひまわりをみていると

やさしい夏の思い出が

 

鮮やかに

よみがえる

詩 すいか

ぎらきらとした太陽と

麦わら帽子の夏休み

 

ふと 

子どもに戻った私は

 

熱い砂浜をけり

藍の海へ駆けだした

 

しおっぱい

海水とたわむれて

 

魚だったころの

記憶をたどれば

 

まるで

地球の羊水に

くるまれているよう

  

なんて静かで

心地よいのだろう

 

遊びつかれて

浜へとあがれば

 

なにやら

重力とはじめて出合った

両生類のよう

 

のどが渇くのは

肺呼吸のせいかしら

 

お腹が空くのは

夢をみるせいかしら

 

ひょっこりと

恐竜のたまごのような

 

まあるいすいかを

叩いて割って

 

真赤に滴る

血液のような果実に

かぶりつく

 

ごくごく

もぐもぐ

がりっと

 

黒色の種を噛んだ

瞬間に目が覚めた

 

それはまるで

ぎらきらとゆらめく

真昼の蜃気楼

 

創世期の冒険は

夢に現に幻に

詩 くものうえ

たくさんの雨

垂直に降る雨

 

バッハの音楽のよう

なにかをどこかとつなぐ

 

たくさんの風

水平に吹く風

 

ベートーヴェンの音楽のよう

なにかをどこかへはこぶ

 

くものうえ

白くふわふわとした

くものうえ

 

あ、あの人がいい

 

何かに導かれるように

お腹へ入った

 

地球に生まれることを

 

くものうえで

私が選んだ

 

みたい

しりたい

さわりたい

 

天はいつもそうやって

私に合図をおくる

 

わくわく

 

私はいつもそうやって

命を世界にとかしていきたい

黒澤明 | 静かなる決闘 醜聞

映画監督・黒澤明/1910-1998の

比較的初期の作品「静かなる決闘」と「醜聞」を観た。

いずれも見応えのある、力強い作品だった。

 

静かなる決闘」/1949年は、

終戦間際の野戦病院での手術中に

誤って患者のスピロヘータ/梅毒に感染した、

若い医師の苦悩と救済の物語だ。

劇作家・菊田一夫の戯曲「堕胎医」を原作に、

黒澤明谷口千吉が共同で脚本を執筆した群像劇だ。

戦後間もない外科および婦人科の診療所を舞台に、

慕い合う婚約者との愛と病をめぐる医師の葛藤を軸として、

妊娠したものの交際相手に逃げられ自暴自棄になっている

元ダンサーの看護婦として母親としての成長物語、

図らずも戦地で医師にスピロヘータを感染させることとなった

やくざな元兵士との邂逅などが折り重なりつつ、

テンポよく興味深く物語が展開される。

バイタリティーに満ちたモノクロの粗い画像のなかで、

受難の医師を演じる若い三船敏郎が瑞々しく美しい。

たとえば、人を愛するということは、

その人の幸福を願うことなのだろう、そして

苦悩は時として人を聖へと導く天のギフトなのだろう。

 

「醜聞 スキャンダル」/1950年は、

画家と人気声楽家との偽スキャンダルが

確信犯である出版社との裁判にまで発展し、

一癖も二癖もある弁護士を交えて珍走する群像劇だ。

黒澤明菊島隆三による脚本が見事なうえに、

弁護士を怪演する志村喬が愉快で、

一徹な画家を演じる三船敏郎の端正な演技が清々しい。

弁護士の一人娘は結核に臥せっているが、

病という逆境により超人的に透き通った彼女の命と精神が

物語を方向づける原動力となり、感動的だ。

早坂文雄のさりげなくも効果的な音楽と相まって、

ひとつの星がきえて、ひとつの星がうまれる、

なんとも慈悲深くユニークな作品だった。

 

生涯におよそ30本の作品を世に送り出した

黒澤監督が40歳前後に手掛けた2作品だが、

人間を相対化し、

善人と悪人、気位の高い者と低い者、

成功者と落伍者などの何人にも、

奥行きを与えて絶妙に描き出す、

その大器に、ジーンと胸が熱くなる。

 

後のエンターテイメント性は影を潜めつつ、

ある種のうぶさやナイーヴさが魅力的な作品群に、

開きはじめた花が盛りへと向かうような

ときめきを感じたのだった。