佐賀町日記

林ひとみ

溥儀 | わが半生 「満州国」皇帝の自伝

初夏から梅雨にかけて

溥儀/ふぎの自伝「わが半生/我的前半生」を読んだ。

 

昨夏に記録映画「東京裁判」を観た際に、

法廷で証言をする溥儀に興味をもったことと、

ベルトルッチの映画「ラストエンペラー」を

再観したことが、きっかっけだった。

 

愛新覚羅・溥儀/1908‐67は

まさに歴史に翻弄された元皇帝だ。

ほんの2歳で清朝の第12第・皇帝に即位し、

辛亥革命による王朝の終焉とともに6歳で退位し、

5年後まぼろしのように再び数日間皇帝となり、

いつしか日本人と結託して満州国の皇帝となり、

敗戦とともに捕虜となって、のちに戦争犯罪人として、

のべ15年にわたる収容所生活を送り、

その間に大改造を遂げ人民として再生したという、

特異な運命を生き抜いた人物だ。

 

本書は、中国政府の管理する戦犯収容所にて

思想改造のために、自白と罪の自己認識を目的として

まとめられた回想録を原点としているという。

溥儀が口述したものを、

共に収容されていた弟・溥傑/ふけつが

文章化したものだったようだ。 

その記録が政府や関係者等に配布されて反響を呼び、

本格的に書籍化すべく書き改めるために

ライター・李文逹との共同作業が開始されたのは、

溥儀が特赦をうけて北京植物園に勤めはじめた1960年だったという。

膨大な歴史的資料を紐解きつつ、なんども練り直されて、

1964年に刊行されるとすぐに日本語にも翻訳されたようだ。

絶版と再販を重ね、今回は筑摩書房の叢書/1977年および

文庫/1992年に収録された版を読むことができた。

 

本書でおよそ年代順に語られる人生模様は、

個人史としても歴史としても実に興味深い。

皇帝というものがどのようにつくられるのか、

ひいては人間というものがどのようにつくられるのかを、

みているようでもあった。

およそ270年続いた清王朝

愛新覚羅/あいしんかくら一族としての家系や生い立ちから、

物心ついたばかりの頃の帝王生活につづく

革命後の廃帝生活は恐ろしいほど人間離れしているし、

一族の誇りをかけて再び皇帝になるという野心が

日本軍国主義の野望と奇妙な一致を遂げてゆく様は、

よく練られた悲劇の舞台をみているようだった。

今となっては傀儡国家と皮肉される満州国だけれど、

曲りなりにも14年間成立していたのだから、

よほど心血を注いでのことだったのだと思う。

日本は国土が小さく資源も少ないという認識のもと、

列強国と対等に渡り合うために

満州の資源豊かな荒野を開拓したけれど、

そもそもの焦りや劣等感が自存自衛という名分を得て

死に物狂いの大戦へとつながったのだと思うと、胸が痛む。

遡れば、江戸末期の開国時に交わされた

不平等条約にまで辿り着くようだし、また明治維新でさえ

背景にイギリスやフランスの援助と思惑があったというから、

国家というのは、なんとも込み入った世界情勢と

無縁ではいられないのだろう。

 

一転して感動的なのは、

戦犯・溥儀のメタモルフォーゼのドラマだ。

かつての皇帝は、掃除や洗濯は勿論、

身だしなみを整えることも、靴の紐を結ぶことも、

足を洗うことも、自分でドアを開けることも、

水道の蛇口を開閉することも、

しゃもじ・包丁・はさみ・針・糸・などを

さわったことも、なかったという。

侍従の者にかしずかれて、気位が高く、虚弱で、

ほとんど雲の上に生きていたような人を、

学習と労働による改造計画を通して導いたのは、 

毛沢東主席を筆頭とした中国共産党による新政府だ。

内乱や戦争に明け暮れた広大な中国をおおむね統一し、

ひとりひとりの人民が主人公となる新世界を実現した力は、

本物と思えた。

 

たまたま図書館で

VHS「ラストエンペラー溥儀 来日特集」上下巻を

みつけて観たが、1935年初来日時/29歳の若き皇帝が

ほとんど人身御供のようにみえたし、

その皇帝をなかば盲目的に崇拝する日本国民は

なにかのお芝居のようにみえたのだった。

 

盛夏をむかえ8月が近づいてくると

終戦日が思われるけれど、

今年も小林正樹監督の「東京裁判」を観ようと思う。

 

戦争という悲劇のなかに、

高貴な意図や高邁な理想が紛れ込んでいること、

それが野蛮な戦略に利用されることが、

なんとも気になるのだ。

 

砂の中の砂金のように。

茅の輪くぐり

夏日がつづいている関東地方、

2018年の梅雨は6月29日頃にあけたことを

山手線のトレインチャンネルで知った。

そろそろ夏も本番だ。

 

翌日、6月も最終日のよく晴れた空に、

太陽をぐるっとかこんだ虹のようなものが現れた。

 

ちょうどお昼頃だったので

太陽は真上に高く輝いていたが、

そのまわりにくっきりと、

フラフープのような虹色の輪がかかって、

とても美しかった。

 

調べてみるとそれは

暈/はろ、日暈/ひがさ、などと呼ばれる大気光学現象のようだ。

上空の高い場所で、雲を形成する氷の結晶が

プリズムとなって太陽光を屈折させることでおこるという。

 

折りしも6月30日は

夏越の祓の行事が各地で行われる日だ。

半年間の穢れを祓い、つづく半年間の安泰を祈願して

茅の輪をくぐるように、

空にかかった太陽のまわりの虹が

なんだか世界の茅の輪くぐりのようにみえたのだった。

 

2018年の上半期に感謝しつつ、

つづく下半期も充実したものとなりますように。

図書館

図書館がすきでよく利用する。

 

詳しく調べたい事柄があるときは

蔵書検索のデーターベースがとても便利だし、

区内に在庫がないときは

他区の図書館から取り寄せて借りることもできるし、

新しい世界を求めているとき、

あるいはなんとなく、

なにかと近所の区立図書館に足が向く。

 

時には書店へ行き、

最新の風にあたるのもわくわくするけれど、

特に大型の書店へゆくと眩暈がして、

気持ちわるくなくなってしまうことが時々ある。

すきな本に囲まれているのにうらはらだけれど、

エネルギッシュかつ圧倒的な情報量に、

キャパシティーオーバーになってしまうのかもしれない。

 

また古本屋さんでの

ランダムな本との出会い方や、

店主が采配をふるうユニークなレイアウトも楽しい。

 

本屋さんと図書館は本質的に異なるので、

くらべることはできないけれど、

わたしの場合、図書館へ行くと

たとえば家に帰ったように、なんともほっとするから不思議だ。

子どものころ、

近所に私設の「柿の木文庫」という

本を貸してくださる有志のお宅があって、

絵本を借りによく通ったことが思いだされるけれど、

わたしにとって図書館というサンクチュアリは、

そのような原体験とも結びついているのかもしれない。 

 

ところで図書館の本はすべて

ビニールコーティングされているけれど、

汚れていたり黒ずんでいたりするので、

わたしは借りてくるとまず表面をひと通り、

電解水やメラミンスポンジでクリーニングする。 

するとずいぶんピカピカになるし、

色々な人が触っているのも気にならなくなり、

家で気持よく読むことができる。 

あるいは神経質と思われるかもしれないけれど、

同じように感じている人も多いのではと思いつつ、

借りた人が本を簡単にクリーニングできるようなグッズが

図書館にあったら便利だなと、いつも思う。

 

本は人にとって、

空気や水や食物と同じように、

栄養なのだと思う。

 

そろそろ梅雨もあける頃だろうか。

しとしとと雨の降る静かな日に

いつもより人気の少ない図書館で本の匂いにつつまれたり、

湿気を含んだふにょふにょのページをめくるのも、

季節ならではの味わいかな。 

エルンスト・ルビッチ | To Be or Not to Be

エルンスト・ルビッチ/Erunst Lubitsch の

映画「To Be or Not to Be/生きるべきか死ぬべきか」を観た。

 

第二次大戦中の1942年にアメリカで制作された本作は、

恋愛と戦争サスペンスとが織り込まれた

シニカルなコメディタッチのモノクローム映画だ。

 

物語はポーランドの首都ワルシャワを舞台に、 

第二次世界大戦のきっかけとなった

ナチス・ドイツを筆頭としたポーランドへの

歴史的な侵攻/1939年の直前からはじまる。

主人公は舞台俳優のヨーゼフとマリアのトゥーラ夫妻で、

冒頭では、当時ヨーロッパで勢力を拡大していた

総統ヒットラーを巧みに皮肉った舞台の稽古模様が展開され、

その小気味のよさにドキリとするやら笑っていいやら。

とまれ不穏な情勢のためにプログラムの変更を余儀なくされ、

やむなくシェークスピアの戯曲「ハムレット」を公演することとなる。

一座の看板女優である夫人マリアは、

連日の花束の送り主で熱烈なファンである青年ソビンスキーを

楽屋に招待すべく、メッセージを手紙にて言づける。

劇中、夫ヨーゼフ演じるハムレット王子の名台詞

「To be , or not to be , ー」を合図に訪ねてくるようにと。

素知らぬ夫ヨーゼフは名場面の最中に退場する青年を認めて、

役者としての自らの才能を憂う一方、

夫人マリアはソビンスキーと逢瀬を重ね、

ちょっとしたロマンスを楽しんでいた。

そんな中、ドイツのポーランド侵攻とともに戦争に突入し、

首都ワルシャワも陥落し、

ポーランド空軍所属のソビンスキー中尉は

マリアとの別れを惜しみつつ同盟国イギリスへと旅立つ。

彼の地にて、極秘任務を携えて

イギリスからポーランドへ渡るというシレツキー教授と出会い、

恋するマリアへの伝言「To be , or not to be」を託すことに。

ところがひょんなことから

シレツキー教授がナチスのスパイであることが発覚し、

ワルシャワの地下抵抗組織の情報を携えたシレツキー教授が

占領軍ゲシュタポに情報を通告することを阻止すべく

特務を受けたソビンスキーが帰国したことから、

物語は一気に白熱する。

マリアとヨーゼフの夫妻を巻き込んで、また劇団員を総動員して、

冒頭で上演不可となったゲシュタポを題材とした演劇を下書きに、

大胆な一世一代の大芝居をうって、

スパイ・シレツキー教授の暗殺に成功。

ほっとしたのも束の間、嘘が嘘を、芝居が芝居を呼ぶように、

さらなる危機を乗り越えるべく命がけの芝居を重ねて、

終には一同ポーランドから脱出し、一件落着、

大団円のうちに終幕という、およそ100分の物語だ。

 

 

4月末にメゾン・エルメスのル・ステュディオで観て、

再度DVDを借りて観たのだが、

ほんとうに素晴らしい映画だった。

なんといっても物語がよく練られていて、

ハンガリーの劇作家

メルヒオル・レンジェル/Melchior Lengyelによる脚本も、

役者を演じる芸達者な役者たちも、

ユーモラスで軽妙洒脱な演出も、

ほんとうに素晴らしかった。

 

第二次世界大戦の只中に、

まだ情勢が定まらないときに、

ドイツ・ベルリン生まれでアメリカの市民権をもつ

晩年のルビッチ監督/1892‐1947が、

このような作品を創ったということに、驚く。

 

もちろん公開当時に日本で封切られることはなく、

一説には1989年にようやく公開されたようだけれど、

不謹慎にも、このような上手/うわてな作品を創作する国と

戦争しても勝てるはずがないと思ったのだった。

 

劇中および題名に引用された通称「HAMLET」、

「THE TRAGEDY OF HAMLET , PRINCE OF DENMARK

デンマーク王子ハムレットの悲劇」は、

北欧の伝承物語をもとにウィリアム・シェイクスピアによって

1600年頃に書かれたとされる戯曲だが、

劇中劇が物語を推進してゆくというプロットが

映画ではより徹底され拡大され、

負けず劣らずの群像劇という印象だった。

第3幕第1場の名台詞「To be , or not to be , that is the question」は、

さまざまに解釈できるため翻訳も一様ではないけれど、

そんなところもまた古典の魅力のひとつだろう。

 

映画を機に、

シェイクスピア文学の世界を探検したい、

2018年の関東もそろそろ梅雨入りというところ、

かたつむりが喜ぶシーズンだ。 

バラの樹

子どものころ住んでいた祖父母の家の庭に

淡いピンク色のバラの樹があった。

 

子どもの背丈くらいの若い樹だったと思う。

あるとき祖母が挿し木という栽培方法を教えてくれた。

ある種の植物を、適当なところで切って、土に挿すと、

うまくゆけば育つのだという。

そんなアメーバみたいなことがあるのかと思ったが、

ものは試しで、そのバラの樹を挿し木してみることになった。

祖母が一枝、つづいて私も一枝、

剪定して庭の一角に並べて挿した。

大きな空色のジョーロで、

シャワーのように水をたっぷり注いだ。

 

良く晴れた日だったけれど、何月だったのだろう。

私は小学校の低学年か中学年くらい、

およそ30年ほど前の思い出だ。

 

今は叔父が住んでいるその家の庭で、

淡いピンク色のバラの樹は、ずっと元気に生きている。

もとの親樹はもちろんのこと、

祖母と孫娘の挿した枝はほとんど一体になりながら、

こんもりと大人の背丈ほどに大きくなって、

華やかな八重の花をたくさん咲かせている。

盛りには花の重みにたえかねて、

稲穂のように弧をかいていたから、

よほど伸びのびと生きているのかも。

 

そんな思い出も手伝って、この春、

江東区の集合住宅に住むかつての孫娘は、

ベランダの鉢に、バラの花を挿し木した。

 

昨年11月に、合唱の演奏会で戴いた

一輪の深紅の切り花を、1か月ほど楽しんだあと、

枯れてもなんとなく枯れたまま愛でていた。

水切りを繰返して15㎝ほどになった切り花は、

花から10㎝くらいのところまでは干からびて、

ドライフラワーのようになっていたのだが、

葉が左右に伸びていたところから若葉がでてきて、

その下の茎5㎝ほどは生きているようにみえた。

若葉が出ては萎れ、出ては萎れを繰返していて、

切り花の茎の切り口に、始めはかさぶたのような、

やがて大きくなって腫瘍のような膨らみができて、

根を張っているのかもしれないと驚いた。

いつのまにか冬を越し、春が来て、

その球根らしきものも2.5㎝ほどなったので、

4月12日に、土に挿してみた。

 

その後しばらくは、

新しい環境が気に入ったのか、気に入らないのか、

よくわからないような日々が続いた。

ひと月を経て5月も下旬になろうとする今日この頃、

ふたたび若葉が芽吹きだし、葉の緑色も濃くなってきた。

しばらくはこの場所で生きてみようと、

決めてくれたのだと、よろこんだ。

 

思い出の淡いピンク色のバラの樹のように、

すくすく育ってくれますように。

 

いのちは、そのいのちをみつめることで、

大きくも小さくもなるから、面白い。

ミルチャ・カントル展 | 銀座メゾンエルメス

先日、銀座メゾン・エルメスのギャラリーで

ミルチャ・カントル展を観た。

 

「あなたの存在に対する形容詞」と題された個展は、

1977年ルーマニア生まれの作家による、

存在性という古典的なテーマを

現代的に表現した試みだと感じた。

 

会場にはスタイルの異なる3つの作品が展示されていたが、

そのなかのひとつに、とりわけ明快で美しい作品があった。

「Are You the Wind?/風はあなた?」は、

ふつう風に揺られて鳴るウインドチャイムをドアと連結させて、

観覧者が仮設の扉をスライドさせて展示空間に入ると

一面に吊られた無数のチャイムが鳴り響くという、

ごくシンプルなインスタレーションだった。

建築家レンゾ・ピアノのガラスキューブの透明な空間に、

無機質なウィンドチャイムが幾重にも共鳴して、

星のように遠くあるいは近くで、存在を暗示する音が瞬く。

それらがしだいに波のようにひいてゆく様は自然そのもので、

揺れ動く音に耳を澄ませているだけで心地よい。

その日は観覧者がまばらだったこともあり、

ほどよい静寂につつまれたころ、

再び任意の他者の入場とともに鐘の音が鳴り渡り、

空間が一瞬のうちに変容する様は、とても鮮やかで、

自分が扉をあけて入ったときの驚きと、

他者が扉をあけて入ってきたときの音の楽しさに、

ときめいた。

 

タイトルの通り、

風はわたし、で、

風はあなた、だった。

 

世界を変化させるというよりも、

わたしたちの認識が変化することで、

経験する世界が変わるということを示唆する、

巧まざるして巧みなクリエイション。

 

ゴールデンウィークで賑やかな銀座の街に、

ひとりひとりの存在の音、

きこえない鐘の音を聴きながら、歩いた。

 

生きていること、

存在していることは、

おそらくあらゆる形容にもまして、

すばらしいことと思うのだった。

詩 しゃぼん玉

まんまる

きらきら

 

夢いっぱいに

ふくらんだ

 

しゃぼん玉のような 

こどものひとみが

 

いつしか

 

音もなく

はじけて

しぼんでしまうことがあっても

 

だいじょうぶ

 

地球に

やってきたばかりの

幼いたましいは

 

色々なことを

経験したくて

 

好奇心で

いっぱいだから

 

かくれんぼや

鬼ごっこが

だいすきで

 

ころんだり

ぶつけたり

すりむきながらも

 

知らないこと

初めてのこと

新しいことに

夢中になって

 

そのうちに

しゃぼん玉のことは

忘れてしまう

 

そして

どうかすると

うっかり

 

自分のことも

忘れてしまうかもしれない

 

けれども

いつか

 

風がふいたら

思い出す

 

虹をみつけるように

みつけるでしょう

 

雨上がりの

水たまりに映った

ひとみのなかに

 

まんまる

きらきら

 

しゃぼん玉のような

 

夢がいっぱい

つまっていることを

魔の山 | トーマス・マン

ちょうどひと冬をかけて、

ドイツの文豪トーマス・マン

魔の山/DER ZAUBERBERG」を読んだ。

 

1924年に発表された全2巻の長編小説は、

スイスの高原サナトリウムでの療養生活を舞台とした

青年ハンス・カストルプの7年間にわたる成長物語であり、

同時に、第一次世界大戦直前のヨーロッパの

不穏な雰囲気を描き出した大河小説でもある。

 

物語の主人公ハンス・カストルプは、

将来はエンジニア/造船家として故郷ハンブルク

造船所で働くことになっていた23歳の青年で、

ひょんなことから、見舞いがてら、

いとこのヨーアヒムが結核療養のために滞在している

アルプスのサナトリウムを訪れる。

夏の3週間という滞在予定が、

風邪をひいたことをきっかけに思いがけず結核と診断されて、

戸惑うまま療養生活をはじめることとなり、

高地の超俗的な生活形態のなかで、様々な出会いも手伝って、

人生とは、またいかに生きるべきか、

という哲学的な思索に魂を奪われてゆく。

やがて錬金術的な目覚めと変容を経験し、

第一次大戦の足音とともに参戦を決意することで

自己実現を遂げ、現実の世界へと合流したところで

7年間のおとぎ話は幕をとじる。

 

作家の代表作のひとつされる本作は、

第一次世界大戦をはさんで

12年にわたって書き続けられた大作で、

その戦争体験と深く結びついていることが特徴的だ。

執筆のきっかけとなったのは、1912年に

高原サナトリウムに入院したカーチャ夫人に付き添って

3週間ほど滞在した作家の実体験にあるそうだが、

当初は、書き終えたばかりの「ヴェニスに死す」と同程度の

短編小説になる予定だったという。

ところが翌1913年より執筆を開始してみると

途方もなく大きな物語へと発展することが予感されて、

第一次世界大戦が始まった1914年頃には

上巻の1/3が書き進められていた程度であったそうだが、

戦争中は他の重要な評論やエッセイのために執筆を中断し、

大戦が終結した翌1919年に再び書き進められ、

1924年に完成したという、まさに渾身の大作だ。

 

長大な物語には

幾つものテーマが織り込まれており、

時間と経験のミステリーもそのうちのひとつだが、

作家が本作に注いだ12年という歳月が、

小説の7年という月日と共鳴していること、

主人公は23歳から30歳に、

作家は37歳から49歳に到達したことも、意義深い。

 

壮年の作家の旺盛なエネルギーは縦横無尽で、

生と死、健康と病気、精神と肉体、善と悪などの

本来不可分のあらゆるものを、

自由と放逸、博愛と偽善、革命とテロリズムなどの

似て非なるあらゆるものを、

また神学や哲学について、宗教や歴史について、

音楽や芸術について、思想や政治について、

フリーメイスンやイェズス会の何たるかについて、

そのほか思いつくまま、思いつくかぎりを、

詰めこめるだけ詰めこんだという印象だった。

 

国際サナトリウム「ベルクホーフ」の

いわくありげなふたりの医師と看護婦たちや、

ドイツ、イタリア、ロシア、イギリス、スウェーデン

スイス、オランダ、メキシコ、中国などの各国から集まった

個性豊かな療養患者等の描写が、実に鮮やかで楽しい。

なかでも、主人公の教育者的な役割を演じる

セテムブリーニとナフタの間で交わされる

非常に観念的で弁証法的な議論は、質量ともに圧倒的で、

こと世界大戦によって作家が通過しなければならなかった

多分に政治的な自己究明の軌跡が反映されているようで、

感慨深かった。

 

また幾つかの印象的なドラマが彩りを添えつつ

物語を推進してゆくことも小説の醍醐味だろう。

既婚者ショーシャ夫人への恋心が

奇妙な三角四角の恋愛関係に発展したり、

恋敵でありながら尊敬の対象でもあった

大人物ペーペルコルンのまさかの自殺や、

いとこヨーアヒムの勇敢な軍人的な死、

霊媒体質の少女を通しての心霊体験、

セテムブリーニとナフタの決闘などを通して、

物語はいたずらに高揚を辿ってゆくが、

当時のヨーロッパの破局的な情勢と呼応して、

死のなかから愛がうまれることを希求する

ヒューマニックな終結部に救われるようだった。

  

訳者・高橋義孝氏によると、

原文には言語のくすぐりがちりばめられて、

翻訳では表現しきれないニュアンスがかなりあるという。

ともあれ、安定感のある堅実な翻訳により、

標高1600mのイニシエーションの物語「魔の山」を

無事に通過でき、よかった。

 

その後、歴史的な総統となるヒットラー

南ドイツ・バイエルンの別荘の呼称「ベルクホーフ」は、

小説に依っているのだろうか否か、いずれにしても、

第二次大戦において反戦的な立場を貫いたトーマス・マンは、

非常にドイツ的でありながら、ドイツ人である以上に、

リベラルな国際人あるいは地球人であったのだ。

 

たとえば、地球は丸い、というなんでもことが、

「Der Zauberberg/魔の山」の洗礼を受けて、

どことなく形而上的な意味を帯びてくるようだから、

小説の魔力は深遠だ。

熊谷守一 生きるよろこび

桃の節句が過ぎた頃、

熊谷守一 生きるよろこび」展を

竹橋の国立近代美術館で観た。

 

画家・熊谷守一/くまがいもりかずの

没後40年の記念展でもある本展は、

油彩200点と、日記・葉書・スケッチ帳などの

資料およそ80点とが一堂に会した、

はれやかな大回顧展といった趣だった。

その97年の生涯を辿るように

3部に構成された会場はいかにも明快で、

1:闇の守一/1900-10年代

2:守一を探す守一/1920-50年代

3:守一になった守一/1950‐70年代

と年代ごとに展示された作品は、

質量ともに充実し見応えがあった。

 

熊谷守一/1880‐1977は、

明治13に岐阜県・付知村の商家に生まれ、

裕福だが複雑な幼年時代をおくり、

17歳で上京してのち画家を志すようになったという。

実業家で政治家でもあった父親の反対をおして

20歳で東京美術学校西洋画科撰科に入学、

卒業後は同校/現東京藝大の研究科に在籍しつつ、

日露戦争前後には農商務省樺太調査隊に2年程参加。

1907年/27歳で研究科をでるが、在学中より

白馬会、文部省、二科、光風会などの展覧会に

作品を出品し、一定の評価を得たようだ。

1910年秋に母危篤の報をうけ付知/つけち村に帰郷し、

そのまま5年ちかく滞在することとなり、

山深い土地ならではの日傭/ひようという

材木を川流しで運搬する仕事を経験したという。

1915年/35歳で再び東京に拠点を移し、

美学校時代の友人より生活の援助を受けつつ

絵の仕事を続け、二科展を中心に作品を発表。

1922年/42歳で結婚し、2男3女をもうけたが、

次男と三女は早逝、のちに長女も21歳で病死し、

生活の困窮とともに苦しい時期が続いたという。

1929年/49歳から10年程は二科技塾で指導にあたり、

1940年前後には重要なコレクターとの出会いもあり、

なんとか困難をやり過ごしながら画業を深め、

1950年代/70歳過ぎに、ひろく知られることとなる

代名詞のような簡朴な作風に辿りつき、

1977/S52に97歳で亡くなるまで、

独自の境地に在りつづけた無二の画家だ。 

 

本展でとりわけ印象的だったのは、

ひとりの芸術家の、闇から光へのはげしい反転だ。

1908年/28歳の作品「轢死/れきし」は、

踏切で女性の飛び込み自殺に遭遇したことがきっかけとなり

描かれた生々しい油彩で、経年変化も手伝って

キャンバスの闇にはほとんど何も見とめえないのだが、

そのような死を作品化する作家の天性に、

あるいは危ういエゴイズムに、いささかおののく。

同様に闇と対峙する初期の作品には、

しっとりとした暗さのなかに繊細さが感じられるが、

徐々に明るさが増してくる中期の作品では、

節度のある野生あるいは奔放さが色彩とともに噴出し、

時とともに整理され省略されていく画風の変容が興味深い。

そして色彩やモチーフと自在に戯れる後期は、

まさに真骨頂といえる強度で、本展の名でもある

「生きるよろこび」ここにありといった趣だ。

キャンバスのなかに、魔法のように命を与えられた

他愛のない花や蝶や亀や猫などが、

かわいいような、あやしいような、うれしいような。

否定も肯定も、美も醜も、感傷も感情も、

全く言いたいことは何もないといったふうなのに、

そのすべてを表現しているような不思議な世界だ。

 

日経新聞の名コーナー「私の履歴書」のための

聞き書きをまとめた著書「へたも絵のうち」/1971年や、

同じく聞き書きの著書「蒼蠅/あおばえ」/1976年では、

最晩年の作家のモノローグに接することができ、

なんとも味わい深いが、

そうとうのツワモノであると同時に、

ずいぶんとムツカシイ人であったのだろうと偲ばれる。

 

 わたしは、わたし自身も、仕事も

 そんな面白いものではないと思います。

 わたしの展覧会をしたって、どうっていうことはない。

 やる人もやる人だし、見る人も見る人だと思います。

  /「蒼蠅」より

 

なかなかどうして、

幾重にも屈折する、またとない芸術家に、

養われるような幸福な展覧会だった。

詩 藍の月

昼と夜の

淡いはざま

 

夕暮れどきの

ゆらめく空に

 

おとぎ話のような

三日月が

 

ぼうっと

うかんでいた

 

やわらかな

藍と桜色とに

 

彩られた世界は

めくるめく

 

甘美なシンフォニーを

総奏しているかのようだった

 

青と赤の

優美なドレスを纏った

  

イソヒヨドリ

飛んできて

 

類い稀なる

ソリストのごとく

 

天上的な歌を

奏ではじめた

 

チュルリラル

 

自然界は

言葉や音楽に

 

満ちあふれて

いっぱいです

 

言葉の

完全さと

不完全さとを

 

音楽の

自由さと

不自由さとを

 

ひとつにして

 

きみたちも

きみたちなりに

 

高貴な歌を

唄いなさいな

 

チュチュリルラ

 

湿気をふくんだ

三月の

 

霞がかった

大気につつまれて

 

藍の夕闇のなかに

 

ぼぅっと

朧む三日月は

 

よろこびと

かなしみの

 

涙をたたえて

微笑する

 

永遠なる

父母のように

みえたのだった

さくら 2018

ベランダの啓翁ざくらが開花した。

ピンク色の可愛らしい花に

今年も逢えてうれしい。

 

ひとあし先の2月に花を咲かせる

寒ざくらや河津ざくらは、

春の本格的な訪れをほのめかせて、

人の心を次の季節へと誘う予言者のよう。

 

そして、冬と春がせめぎ合う

ドラマティックなひと時を乗り越えて、

ますます高まる陽気とともに、

もう待ちきれないというように花を開いた

鉢植えの啓翁桜/けいおうざくらは、

ひっそりと、けれどもとびきりの美しさで、

いまこのときを祝福している。

 

私たちの心もさくらのように

春のよろこびにほころぶよう。

 

 

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小石川植物園 梅花見

先週末、早春のやわらかい陽射しの散歩日和に、

梅の花が見頃を迎えた

文京区の小石川植物園を散策した。

 

東京メトロ・丸の内線の茗荷谷駅から

坂を下ること徒歩10分ほどの距離にある植物園は、

都市のなかにありながら半ば隔絶された

大きな緑の箱庭という印象だった。

 

通称「小石川植物園」は、

国立大学法人東京大学大学院理学系研究科附属植物園」という

機械的な正式名称が示す通り、第一義的には

植物学の教育・研究のための実習施設ということだ。

そのためか園内は、どこか素っ気なく

さっぱりとしていて、かえってうれしい。

 

入場料400円で一般公開されている

161588㎡/48880坪の広大な園内を、

のびのびと、気の向くままに散策する。

ぽかぽかとした午後の太陽に軽く汗ばみながら、

叡智を秘めたような巨大なヒマラヤスギに驚嘆したり、

たわわに実った美味しそうな夏みかんを見上げたり、

足元の小さなオオイヌノフグリを踏まないように歩いたり、

時間を忘れて歩き回る。

 

かつて江戸時代1652年頃には、舘林藩の幼い藩主、

のちの5代将軍・綱吉の下屋敷/白山御殿であったそうだが、

その後1684年に幕府により「小石川御薬園」が設置され、

当時としては貴重な薬となる植物を栽培していたという。

往時の名残の「薬園保存園」や「分類標本園」は、

季節外れなのか、いささか殺風景だったが、

思いがけず現存する「旧小石川養生所の井戸」では、

山本周五郎の小説の、あるいは黒澤明の映画の、

「赤ひげ先生はここにいたのか」という感慨につつまれる。

 

台地・斜面・低地・水辺などの起伏にとんだ園内は

歩き応えがあり、陽の届きにくい木立のなかでは

思い出したような寒さに、春が浅いことを実感する。

カリン林の根元には、黄色い実がいくつか落ちていたので、

のどに良いといわれるその実を拾いあげると、

熟れた甘い香りがして、糖分のためかすこしべたべたしていた。 

また街路樹などで見なれたサルスベリプラタナスは、

それとわからないほど大きく生長していて、

思う存分根を張れる自由が、なんだか羨ましい。

 

日本庭園に隣接した梅林は、ちょうど花の見頃を迎え、

思い思いに花を愛でる人たちでほどよく賑わっていた。

とりどりの白や赤やその中間色に彩られた梅の花々からは、

気品のある香りが、風にのって、ふわりと、ほのかに届いた。

およそ50種100本ほど並んでいるという梅の木の、

ごつごつとした険しい幹や枝にふくらんだ

ひかえめにも力強い花々に、しばし心を奪われる。

 

「 勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかが答へむ 」

 

平安時代の歴史物語「大鏡/おおかがみ」のなかの

「鶯宿梅/おうしゅくばい」の逸話を思い出す。

帝/みかどの御殿の梅の木が枯れてしまったので、

代わりの木を探せよという勅命をうけた使者が、

宮中にふさわしい姿形のよい梅の木を京じゅう探しまわり、

ある家の庭にやっとみつけて、掘り取って参内する際に、

その家の主が梅の木に結ばせたという歌で、

「帝のおおせですから なんとも恐れ多いことでございます

 けれどもいつもやってくる鶯がわたしの宿はと尋ねたら

 私はなんと答えたらよいでしょう」

という趣の、なんとも美しい歌だ。

その和歌をしたためた家の主とは、

紀貫之の娘であったという落としどころのある説話だが、 

時代をこえて人と人を結びつける和歌や物語のいのちは、まさに永遠だ。

そしてそれらをはこぶ花弁のような言葉たちに、

お花見とおなじように心を奪われる。

 

植物園を後にして、

茗荷谷駅へつづく上り坂の途中で通りがかった

子どものための本屋さんに、ふらりと立ち寄る。

木調の落ちついたブラウンの、ゆったりとした空間で、 

平積みになっているおすすめの絵本や、

作者別に分類されている本棚に、楽しく目をとおす。

子どもの頃に親しんだ、

馬場のぼるの「11ぴきのねこ」シリーズや、

中川・山脇姉妹の「ぐりとぐら」シリーズ、

加古里子の「だるまちゃん」シリーズなどが、なつかしい。

きけば夏目漱石を愛する若い店主が

半年ほど前にオープンした新しい書房のようで、

まるで子どもたちの宝箱のような、ゆたかなお店だった。

 

ずいぶんと日がのびた夕暮れどきに、

ゆったりとした足どりで帰路につく。

今日もおだやかな、いい一日だった。

詩 春いちばん

くる日も

くる日も

 

くるくると

 

公転している地球に

季節がめぐるように

 

ひとの心にも

四季があるとしたら

 

冬の厳しさを

やり過ごすように

 

ぎゅうぎゅうと

胸にしまわれた

 

いたみや 

かなしみは

 

陽気に

吹きあれる

 

春いちばんに

あずけましょう

 

また

動物たちにならって

冬眠しているあいだに

 

雪だるまのように

おおきくなってしまった

 

いかりや

わだかまり

 

ごろごろと

転がりだしても

 

さばいたり

こらしめたりは

 

ひとのすることでは

ないようです

 

幸いにも

 

天の神様たちの

仕事のようです

 

ですから

わたしたちは

 

地上に安らぐ

天の子等として

 

嬉々と

吹きあれる

 

春いちばんに

ゆだねましょう

 

あるいは

 

吹きつける

風当りの激しさや

 

つつまれる

南風の暖かさは

 

わたしたちの心

そのもの

 

なのかもしれません

W3 ワンダースリー | 手塚治虫

漫画家・手塚治虫/1928-1989の中期の名作

「W3 ワンダースリー」を読んだ。

 

きっかけは友人の今年の初夢だ。

「今年は手塚治虫の漫画ワンダースリーの

 物語の終盤がそのまま夢にでてきた」とのことで、

つづけて物語の概要を解説してもらう。

 

「ワンダースリーは、地球を調査するために

宇宙からやってきた3人の宇宙人で、

ウサギとカモとウマに姿を変えて、

地球を滅ぼすか救うかについて、人間を調べているんだ。

万が一のときのためにもってきた反陽子爆弾が、

ひょんなことから地球人の手に渡って悪用されかけたが、

爆弾がひとりでに地面深く地球の中心近くまで潜ってしまい、

ワンダースリーは円盤で探しに行くのだけれど、

爆弾を探し出したところで円盤が故障してしまい、

宇宙人は爆弾もろとも地球の中心ちかくに閉じ込められてしまうんだ。

そこで物質電送機をつかって必要な材料を電送してもらい、

円盤を修理して宇宙へ還っていく、という物語。」

 

「W3 ワンダースリー」は小学館発行の

週刊少年サンデー」という漫画雑誌に、

1965年5月30日号から1966年5月8日号まで

およそ1年間にわたり連載されたSF作品だ。

現在は「手塚治虫文庫全集」/講談社で読むこともできるが、

2012年に国書刊行会より刊行された

手塚治虫トレジャー・ボックス」に、連載時の

雑誌オリジナル版がオリジナルサイズで収録されていたので、

全3巻+別巻を近所の図書館で借りてきて、夢中で読んだ。

 

はじめて読むW3の物語は、

50年以上も前に描かれたと思えぬほど、

現代的で活々としていて、ページをめくるたびに、

どきどきとする冒険やチャレンジに満ちていた。

手塚治虫ストーリーテリングの巧みさ、

画の鮮やかさ、台詞の力強さ、

真剣さと遊びのバランスが、ほんとうにすばらしい。 

 

物語の冒頭、争いの絶えない地球について、

すぐれた生物のあつまりである銀河連盟が、

地球を救うか滅ぼすかについて採決する場面は

殊に印象的だ。意見がふたつに割れたため、

銀河パトロール隊のワンダースリーが1年間、

地球を調査し報告することになるのだが、

なるほど進化した宇宙人の視点からみれば、

地球人は野蛮で残酷で救いようのない、

危険極まる生物なのかもしれない。

 

それでもワンダースリーは、地球に滞在するうちに、

やんちゃだが正義感が強く真心あふれる真一少年との交流や、

その兄・光一青年の属する正義の秘密諜報機関フェニックスの

活動などに触れることによって、

次第に地球人観を更新していくことになる。

1年間の滞在の後、地球での出来事を報告し終えると、

銀河連盟は満場一致で地球を滅ぼすことを決定したが、

ワンダースリーはその命令に背き、

反陽子爆弾を棄てて宇宙へ帰還するのだった。

そうして罪を問われたW3は追放刑となり、

それぞれ記憶を消されて地球人となるのだが、

そこではあっと驚くタイムパラドックスの仕掛けで、

物語に奥行きが与えられて、円が結ばれて完成するような、

感動的な余韻とともに物語は締めくくられるのだった。

 

ウサギに姿をやつしたワンダースリーの隊長ボッコはいう、

「地球は原始的ですさんでいますけど

 人間の心の中にはまだすくいがのこっていました(略)

 ことに子どもたちはりっぱできよらかでま心がありました」と。

いつの時代も子どもはたちは、地球の希望だ。

彼らの生得の輝かしさがいつまでも損なわれませんように。

またかつて子どもだった大人たちがパワーアップして

ますます希望をつないでゆけますように。

 

2018年の現在、たとえば銀河連盟は地球のことを

どのように見守っているかはわからないけれど、

W3が人気を博した1965~66年よりは、

平和で幸福な惑星であることを願わずにはいられない。

そしてひょっとすると、地球人になった

元宇宙人のボッコやプッコやノッコのような生命体が

人知れず地球に暮らしているのかもしれないと想像すると、

なんだかとてもわくわくするし、

実際にそういうこともあるのかもしれないと思うのだ。

帯状疱疹とお正月

2018年のお正月は帯状疱疹とともにやってきた。

 

なにかと気忙しい年末は12月30日の夜に

唐突にはげしい腰痛がはじまった。

大掃除というほどではないが、

普段は手が回りにくい浴室のタイルとか、

冷蔵庫の裏とか、クローゼットの下とか、靴箱とか、

あちこち掃除したので、身体に堪えたのだと思った。

じんじんとした腰の痛みは2~3日つづき、

とくに就寝時に強く感じられて悩ましく、

元旦には骨盤ベルトを装着して、初詣に行列し参拝した。

そうこうするうちに痛みは左側に集約されて、

ぴりぴりしたものになり、気付いたときには

みみず腫れのような、ぼわんとした赤い発疹が

痛みのある左の腰回りに現れて、びっくりした。

新年3日の早朝に「家庭医学大全科」なる

6㎝ほどの分厚い病気の手引きを参照し、

帯状疱疹らしきことが判明したので、

その日の午後に江東区の休日急病診療所へ向かった。

診療所は想像した通り、病人でごったがえし、

具合の悪そうな咳があちこちでこだまして、

さながら野戦病院のごとく、ひるんでしまう。

一見するとインフルエンザと思しき高熱に

苦しめられている人が多いようだった。

帯状疱疹らしき症状が、どことなく場違いのように、

軽症であるように錯覚されて待つこと1時間と少し、

ふたつある診療室では、順番待ちの30名ほどの患者を

テンポよく快活に診察していて見事だった。

ほどなく名前が呼ばれ診察を受けると、

担当の誠実そうな若い男性医師はいささか戸惑いながら、

「ぼくは皮膚科じゃないのですが、

たぶん帯状疱疹でいいと思います。

とりあえず抗ウィルス薬を出しておきますが、

休みが明けたら必ず専門医を受診してください」

と診断し、そばにいたベテランらしい看護婦さんは

「うん、そうね、帯状疱疹ね」と、さしあたって

対応を迫られた若い医師をサポートするように同意した。

一抹の不安は残るものの、仕方もないので、

かかりつけの皮膚科が開業する9日まで、薬を処方してもらった。

 
帯状疱疹/たいじょうほうしんは、

水痘・帯状疱疹ウィルスによる神経痛と発疹を伴う疾患で、

子どもの頃に感染した水疱瘡のウィルスが沈静化した後、

神経節に潜み、何かのきっかけで再活性化し発症するという。

ウィルスは神経を傷つけながら皮膚表面に出てくるので、

身体の片側に、痛みにつづいて帯状の発疹が現れるのが特徴で、

治療はなるべく早く、ということだった。

 

その後、かかりつけの皮膚科に受診し、

応急の診断と処方が的確であったことを聞き、安心した。

今となっては、骨盤ベルトまで持ち出して

腰痛と信じて疑わなかったことが滑稽で、

神社の神様たちも笑っていたかもしれないけれど、

2018年のお正月はいつになく印象的に明けたのだった。

 

抗ウィルス薬のおかげで次第に症状もおちつき、

気持ちに余裕がでてくると、

お正月に診療所で働いていたドクターやナースや

薬剤師や事務の方々の顔が思い出され、

頭が下がるような有難いような気持ちが湧いてくる。

 

そして改めて、日頃は顧みることのない

「家庭医学大全科」をのぞいてみると、

世には本当にたくさんの病気があるのだと戦慄する。

どこにも痛みがなくて、異常も異変もない、

ノーマルな状態が、奇蹟のように感じられてくる。

元気で好きなことができるのは、

ほんとうに幸せなことなのだ。

 

療養にはげみつつ読み進めた

トーマス・マンの長編「魔の山」の一説、

「病気は、いわば生命の放縦な一形式である。」

という表現が、ことさら印象深く響いてくる。

健康と病のコントラストもまた、

人生の興味深い一部なのだろう。

 

思いもよらぬ帯状疱疹の洗礼により、

心身が清浄されたであろうと信じつつ、

2018年も素敵な一年になりますように。