新年度や新学期がはじまり、
街も人もどことなく雰囲気が変わった。
新しく何かが動き出してゆくような、
躍動感と明るさが感じられて、うれしい。
人はポジティブなベクトルに安心する生き物なのだろうか。
自然とそういう流れを創りだそうとする。
それが人の歴史であったらいい。
今年はお天気のかげんで桜の花が長く、
その静かな推移をよくみることができた。
花の色がだんだん濃くなり、盛りを過ぎると、
また薄くなってゆくようにみえた。
例年この時期の天候の変化はめまぐるしく、
春らしい陽気が続いたかと思うと、
また急に寒が戻り、冷たい雨が降ったりと、
三寒四温という言葉のなかにいるよう。
今日も雨が降ってまた寒い。
春のコートと冬のダウンが、
入れ替わり立ち代わりしている。
数日前の夏日のような午後に参加した句会では、
施設全館の冷房が効きすぎて、やむなく暖房をつけたりと、
認識や体感がこんがらがってしまうような、奇妙を覚えた。
そうしてまた驚いたのは、
公園の樹木の一部が、紅葉し落葉していることだった。
上野公園の西郷口の階段には、
落葉がいっぱい溜まっていて、戸惑ってしまった。
昨年のものが残っているのではなく、
落ちたばかりの鮮やかな紅葉が、
焼きいもができるくらい一面に散っているいるのだ。
「え?」と声に出したいくらい、びっくりした。
たとえば漫画ドラえもんにでてくるどこでもドアで、
秋にタイムスリップしてしまったような、
でも同時に葉桜も八重桜も咲いていて、
所々には深紅のもみじが立っているような、
不思議な世界に迷い込んでしまったようで、どきどきした。
上野公園だけのことかと思っていたが、
港区の芝公園も同じだった。
そこではよりはっきりと、一樹のうちに、
若葉と紅葉とが半々、オセロのようになっていた。
樹もまさに、春と秋とを同時に体験しているのだ。
認識や体感がこんがらがってしまっているのは、
植物も動物も、同じなのかもしれない。
それほどドラマチックなお天気のなかに、
わたしたちは生きている。
あるいはすこしおかしいくらいが
ちょうどいいのかもしれない。
なにかがこわれたところに
別のなにかがつくられてゆく。
新しいという認識も
わたしたちがつくっている。
時間という概念も
わたしたちがつくっている。
いまここが
いちばん新しい時間だと
信じて生きている。
ほんとうはどうだか
だれにもわからない。
ほんとうが
あるのかどうかも
わからない。
もしわかったら
あたまがおかしく
なってしまうのかも。