佐賀町日記

林ひとみ

わたしの乳歯

2月はじめの節分・立春をすぎて、

まだしばらく寒い日がつづいている。

10日には雨が雪に変わったし、

今日13日も午後から雪になる予報だ。

灰色の雲に覆われて、

街はしんとしている。

そういう静かな日もいい。心なしか、

部屋のエアコンの音が大きく感じられる。

いつもは聴こえない音に耳を傾ける。

 

わたしの歯には、まだ乳歯が1本ある。

前から5つめの左下の歯で、

生えてくるはずの大人の歯、

永久歯が下から生えてこないまま、

今に至っている。

ごくまれにそういう人がいるようで、

父にも永久歯が生えてこなかった歯が1本あるので、

遺伝かもしれない。

わたしのそのやわらかい乳歯は、

小学生のころに虫歯を治療して、

以前はよく使われていた

銀色のアルマガムの詰物がかぶせてあった。

それから長い年月を経て、歯科の記録では、

その詰物が自然に外れたのが2013年6月、

セラミックと樹脂のハイブリットのものに交換してもらった。

歯医者さんには笑われたけれど、

大すきな銘菓、信州上田のみずず飴を食べていたら、

前触れもなく取れてしまったのだ。

20年以上をともに過ごした私の一部だけれど、

アルマガムには水銀が使用されているときくので、

いっそ交換できてよかったかもしれない。

その2代目のハイブリッドの詰物が、

今度は歯磨きのフロスをしている時に

パリっと音をたててどこかへ行ってしまったのが、

昨年2021年の12月だった。

慌てて3代目のセラミックの詰物を新調し、

新しい歯に落ち着いたのは、もう節分の頃だった。

わたしのこの土台の乳歯は、よくもっているほうで、

いつまでもつのだろうと、女医さんに感心されている。

いまさら永久歯が生えてくるでもなく、

どこかわたしという人を象徴するようで、

可笑しいような面白いような。

 

先日、大雪が心配された翌日に、

目黒の権之助坂を下って、

6歳の甥っ子のピアノの発表会を観にいった。

自分から習いたいと言い出して、

昨年の4月から毎週1回通っていたようだけれど、

小さな指で、楽しそうに弾いていて、とてもよかった。

椅子によじ登って、足を宙にうかせたままで、

両の手で「かっこう」「メリーさんのひつじ」「チューリップ」、

先生と連弾で「ドレミの歌」「線路はつづくよどこまでも」を

ときどきやり直したりしながら5分くらい演奏した。

ほんとうにかわいい。

小さいながら音楽を楽しんでいるのが、

音として伝わってくるのが、興味深かった。

自意識はどのくらいあるのだろう、

緊張はしなかったらしい。

子どもは自分のすきなことを、

意識する前によく知っている。

よろこびが風船のようにふくらんで、

すばらしいところへ運んでいってくれるように。

 

ウイルスの流行がつづく最中、

常に演奏中でもマスクをしていた甥っ子が、

最後に写真を撮る時にマスクを外して笑った。

すると前歯がひとつ抜けていてびっくり。

お正月にすこしぐらぐらしているといっていた歯で、

当り前だけれど、その下には、

永久歯がスタンバイしていること。

そんなことに想いをめぐらせつつ、

自分の乳歯を思い出しながら、

目黒川を辿って駅へ向かった。

いくつもの橋を見過ごしながら、見あげると、

桜のつぼみがふくふくとしていた。

まだはっきりとわからないところで、

いろいろなものが胎動していて、わくわく。