今年の東京の梅雨入りは6月11日だった。
入れかわるようにその翌日、
沖縄はいち早く梅雨明けを迎えたという。
冷たい気流と暖かい気流がせめぎあい
梅雨前線がしばらく停滞しているように、
COVID-19の感染者数は低空飛行が続いている。
このところ東京の新規感染は日に20~40人くらいで、
落ち着いているといっていいのか、慣れたといっていいのか。
6月2日に発動された東京アラートは、
その基準のわかりにくさから不人気で、
東京の梅雨入り宣言とともに、あっけなく解除された。
「また感染者数が増えてきましたよ」と
注意を呼びかける趣旨はよかったと思うけれど、
みんな「自粛はもう限界!」なのかもしれない。
日に日に社会は動きだしている。
そして動植物は淡々と生きている。
ベランダのクチナシが白い花をつけた。
ほんのすこし嗅ぐだけでお腹いっぱいになる
甘くて複雑な独特の香り。
近くの公園の泰山木の花は
見ないうちにほとんど終わってしまった。
ぼってりとした大きな花は、
樹上の高くに、天のためだけに咲いているよう。
それを見たくて心は背伸びをする。
公園の先にある開館を待ちに待った図書館で、
第二次世界大戦前後の3人のアドルフをめぐる話だ。
ドイツ人のアドルフ、ユダヤ人のアドルフ、
ドイツとユダヤの混血のアドルフ。
サスペンス要素の強い大人向けの作品は重層的だ。
作者自身の阪神地方での戦争体験からの描写は具体的で、
史実と創作を大胆に横断する物語にぐいぐい惹きこまれる。
週刊文春での連載中に入院し一時休載したために、
終盤は描ききれなかったと作者は語るが、
善悪のないまぜになった人間の業に、しばし放心。
人の罪深さはどこからやってくるのだろう。
今年も沖縄の慰霊の日がやってきた。
75年前の6月23日、
3カ月にも及ぶ組織的な地上戦が終わったとされる日。
米軍よりも日本軍のほうが怖かったという数々の証言をきくと、
私たちの国は一体どうなっているのだと悲しくなる。
4年ほど前に沖縄・小浜島へ旅をしたとき、
地図の海岸線に記されていた「震洋艇格納壕」。
そのすぐ隣には神社のマークの御嶽/うたきもある。
戦争末期の特攻用の小型ボート「震洋/しんよう」だ。
気になってホテルの方に聞いてみると、
「ぼくも島の人間ではないので詳しいことはわかりませんが、
島の人が大事にしている場所のようなので、
写真などはお撮りにならないほうが・・・」という。
浜辺へ降りて近くまで行ってみると、
樹々にすっぽり覆い隠され鬱蒼としていて、
とても近づける雰囲気ではない、怖い。
サンゴの体積した白いビーチのうえで、
うそみたいに透明なターコイズブルーの海を背に、
遠くから合掌し瞑目する。
オフシーズンでひと気はなく、
波の音がざわざわと賑やかで、太陽の熱量が大きい。
しだいに波音が360度からせまってきて、
その音のなかに、宙に浮いているような、
無重力感のなかに、立ちつくす。
声が聴こえたような気がした。
「わたしたちは誰も恨んでいません。
わたしたちには後悔も未練もありません。
わたしちはただ生きたのです。
人が進化してほんとうに平和なときがきたら、
わたしたちのことは忘れていいのです。
そのときには、あなたたちは
戦いを繰り返すことはないでしょう。
だから忘れても忘れなくてもどちらでもいいのです。
生きていることを愛してください。
きょうここにきてくれてありがとう。
あなたに会えてうれしかった。」
わたしは戦争をほんとうには知らない。
だからなのか、時間の経過もあってか、
みた目とはうらはらな、
とにかく透明でほんのり明るいエネルギーを
その場所で感じることができてよかった。
そして人のポジティブな進化をわたしは信じている。
沖縄の広い空から、
江東区佐賀町の6月の空へ戻ると、
ひっきりなしにウミネコの群れが飛びまわっている。
ちょうど繁殖期にあたるようで、
「制空権はウミネコにあり」といわんばかりに
朝昼晩を問わず、鳴き声がなかなか騒がしい。
でも、戦闘機でなくてよかった。
平和が、
戦争によって裏付けられるような相対的なものでなく、
絶対的なものであるといい。