いちだんと寒くなってきた12月中旬、
目黒の自然教育園を散策した。
またじわじわとウイルスの流行が拡大するなか、
活動しづらくもどかしい日々が続いているので、
自然のなかで深呼吸したくなったのだ。
寒くないように、重ね着をして、足首にカイロを貼って、
マフラーと帽子と手袋をもって出かけた。
装いに反して、足取りは軽い。
夕暮れどきの小一時間、森のなかをゆっくりと歩いた。
土や落葉の匂い、どんぐりの落ちる音、
野鳥の声、そよ風、樹々の葉擦れなどに、
すこしずつ心身がほどけてゆく。
なんて心地よいのだろう。
砂利道を歩くざくざくという音が、
規則と不規則のあいだをゆれている。
マスクと帽子を外して、空気を深く吸い込む。
冷たく乾いた空気がのどから気管に伝わってゆく。
ふと電車のなかで読んでいた本のなかの、
ロシアの冬の描写を思い出す。
マイナス20℃は普通で、マイナス25℃になる朝もあって、
そういう日は冷たい空気が肺に入って危険なので、
学校が休みになる、という。
体験したことのない寒さをほんのすこし想像してみる。
行く先に、真赤な紅葉がトンネルをつくっている。
わあとってもきれい。足を止めて世界をみつめる。
今年さいごの、見納めの夕紅葉だ。
写真を撮りたくなるけれど、
写真には写らないものがあると想った。
いっぽうで、写真にしか写らないものもあって、
不思議だなあと思う。
赤い実のムサシアブミや南天や、
万両、千両、百両、十両などなど、
どれがどれだかよくわからないまま、
冬の彩りを楽しむ。すすきもまだすこし残っている。
ところどころ葉っぱや枯枝に、蝉の抜け殻がまだついている。
幾日も経って、雨風にも動じず、その形のままで、
抜け殻として冬を経験しているのだと思うと、
そこにもいのちがあるような気がした。
園の奥のほうにある名所のひとつの「おろちの松」が、
なんとひっくり返って倒れていた。
根がむき出しになってこちらを向いていて衝撃的だ。
びっくりして立て板を見てみると、
去年の大きな台風19号による倒木らしい。
江戸時代から樹齢350年と推定されている松の巨木。
唖然と立ち尽くしていると、その松の立っていたところに、
みず色の冬空が広がっていた。
存在の空白。あるいは不在。あるいは。
倒木後「おろちの松」の松ぼっくりから種がとれて、
春には芽がでたそうなので、
いのちは別の形で受け継がれていくということだった。
閉園の16:30にはもうあたりは薄暗い。
それでもまだもうすこしここにいたいと思った。
だからまた近いうちに来ようと決めて、
うずらの卵のような小石を植物の茎でくるっと結んで、
木の根元へ目印において、門を出た。
春がきて暖かくなったら山に登りたい。
小さくていいので、運動靴で登れて、
できれば日帰りできるような山に。
来年の目標がまたひとつふえてうれしい。