佐賀町日記

林ひとみ

六等星 

7月10日は参議院選挙の投票日。

選挙公報に目を通すものの、考えがまとまらない。

 

無性に、漫画家・手塚治虫

晩年の傑作ブラック・ジャック・シリーズの

短編「六等星」を読み返したくなった。

 

ある夏の夜、

ブラック・ジャックピノコのいた

花火大会の会場で、花火の誤爆事故が起こる。

その帰路、夜空を見上げたふたりの上には、

一等星から六等星までいくつもの星が瞬き、

かすかに輝く六等星にさそわれるように、

ある映えない医師・椎竹/しいたけ先生の挿話が語られる。

病院の院長が急死した真中病院では、新たな院長の座をめぐり、

山崎豊子白い巨塔のような駆け引きが繰り広げられていたが、

控えめで目立たないが人のいいベテランの椎竹先生は、

じっとだまって事の成り行きを見守っていた。

やがて院長選のための汚職が表沙汰になり、主だった医師達が逮捕されるなか、

冒頭の花火の誤爆事故による負傷者が運び込まれて、

難しい手術を下働きばかり担当していた椎竹先生が執刀することになる。

思わぬ巡りあわせから実力を発揮することになった椎竹先生は、

正当な評価を得るだろうという余韻のうちに物語は幕を閉じる。

 

星の等級は、

私たちの目に届く明るさによって定められているため、

実際の星のエネルギーと等しいとは限らない。

 

理想的な政治家に対するビジョンが不明瞭ななか、

ひとつのモデルとして、椎竹先生のような、

目立たないが堅実で実務能力のある人物を思い浮かべた。

 

「先生はベテランだ!なぜもっと地位を望まないのですか?」

ブラック・ジャックに問われた椎竹先生は応答する。

「医者は欲が優先しちゃおしまいですよ」と。

 

思えば、戦後1945年までは

私たち国民に選挙権は等しくなかったのだから、

ほんとうに貴重な、ひとりにひとつの票だと思う。 

 

だから喜んで、期日前投票へ行こうと思う。

思うように実を結んでも、結ばなくても。

展示 北大路魯山人の美

展覧会「北大路魯山人の美 和食の天才」を

三井記念美術館でみた。

 

「和食」のユネスコ無形文化遺産登録の記念展として

2015年6月より京都国立近代美術館で開催され、

同年8月に島根の足立美術館を、

2016年4月からは東京を巡回している企画展だ。

 

北大路魯山人/きたおおじろさんじんは

1883年に京都上賀茂神社社家の次男として生まれたが、

生後6か月で養子としてあずけられ、

6歳で再び他家の養子となる複雑な幼年時代を送る。

1903年/20歳で実母をたよって上京し、

まもなく書で認められ書道教授として独立するも、

朝鮮や中国、滋賀や金沢などを渡り歩き、

見聞見識および数寄者らとの交流を深める。

1919年/36歳で鎌倉に移り住むとともに、

大雅堂という古美術店を東京京橋にて共同経営し、

ほどなく会員制の美食倶楽部を始め、

魯山人と名乗るようになる。

1924年/41歳で東京赤坂・日枝神社境内の

星岡茶寮/ほしがおかさりょうを借り受け、

翌年開業、顧問兼料理長となり、

1926年には北鎌倉に星岡窯/せいこうようを築き、

茶寮のための器を創作しはじめる。

1936年/53歳で茶寮を解雇となるも、

作陶をはじめとする創作は海外でも好評を博し、

また様々な独自の逸話をのこして、

1959年/76歳で肝硬変のため逝去した。

 

展覧会は「器は料理の着物」という魯山人の言葉を題し、

その創作の中心であった和食器およそ120点と

数点の書画とで構成されていた。

 

作家ともデザイナーとも趣味人とも言い得ぬ

独特の立ちまわりで采配をふるった、

クリエイティブディレクターとアーティストを合わせたような、

プロジェクトリーダーともいえるだろうか。

 

古陶磁を熟知していたという魯山人ならではの、

志野や織部や伊賀や備前、粉引きや染付や上絵付けといった

様々な技法を用いながら、

なんとも楽しそうに、遊ぶように、おおらかに、

作陶に取り組んでいる様が伝わってくる。

 

織部の大きな長板皿には、

線刻で描かれた草むらのなかに

ひょうきんなコオロギが一匹、ちょこんととまっている。

大鉢に施されたもみじの絵柄は、

器の外側手前に幹が、内側向こうに紅葉が描かれ、

正面から対峙すると1本のもみじの樹が完成し、

ひとつの立体的な絵画をみているようだった。

 

誰からもすかれるようなタイプではなく、

むしろ敵をつくってしまうような

むつかしいところのあった人のようだが、

その創意にあらわれる花鳥風月は、

ユーモラスでどこかやさしい。

 

その思想の随所からは、

無形文化遺産として認められる和食の価値を

充分よく知っていた人なのだろうと感じられる、

親しみやすい展覧会だった。

梅酒つくり

梅雨どきの楽しみに、

旬をむかえた梅を梅酒用に仕込んだ。

 

バラ科サクラ属である梅の実の香りは、

同じバラ科でモモ属にあたる桃の香りと、

同じくバラ科でリンゴ属にあたるりんごの香りを併せたような

奥行きのある芳香で、触れていると気持ちよい。

 

梅の実は、薬にも用いられるほどの効能をもつ反面、

未熟な青梅には青酸が含まれており生食は危険だという。

薬と毒という両義性をもつ、

魅惑のあるいは禁断の果実ともいえるだろう。

 

みりん屋さんに教わった梅酒の作り方は、

青梅をかるく洗浄し、へたを取りのぞき、

本みりんに漬けおくというもので、

クリスマス頃にはおいしい梅酒ができあがるという。

 

そのシンプルな材料と作り方に魅かれて、 

奈良の青梅1kg/70個を、1Lの本みりんに漬け込んだ。

冷暗所で半年の間、健やかに熟成されますように。

 

できあがりが楽しみだ。

メフィストフェレス

文豪ゲーテの戯曲「ファウスト」に登場する

悪魔メフィストフェレスの存在は興味深い。

 

ファウスト」は、

ゲーテが20代で初稿を執筆して以来、

第一部は1808年/著者59歳、

第二部は死後翌年の1833年に出版されたという、

生涯を通じてしたためられた大作だ。

 

ごく一部の散文を除いて

全12111行の詩で構成されている物語のなかで、

ことあるごとに思い返す、第一部・書斎の場面での

メフィストフェレスの自己紹介/詩1335‐1336について、

さまざまな邦訳を、現行版を参照しつつ、

できるかぎり初出本をあたってみた。

 

ファウスト博士から「あなたはなにものか」と問われ

メフィストフェレスは答える。

 

 

我は夫₍か₎の恒に悪を計りて、而も恒に善を生ずる力の一部なり。

  訳:高橋五郎 前川文栄閣/1904年 

 

常に悪を欲し、却て常に善を為す、彼力の一部です。

  訳:森林太郎(鴎外)冨山房/1913年

 

常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の一部分です。

  訳:相良守峯 育生社・ゲーテ全集1/1947年

 

つねに悪を欲してつねに善をなす力の一部分です。

  訳:大山定一 人文書院ゲーテ全集2/1960年 

 

常に悪を欲し、かえって常に善をなすあの力の一部です。

  訳:高橋健二 河出書房/1951年

 

常に悪を欲し、常に善をなす、あの力の一部分です。

  訳:高橋義孝 新潮社・世界文学全集1/1962年 

 

つねに悪を欲して、しかもつねに善をおこなうあの力の一部です。

  訳:手塚富雄 中央公論社・世界の文学5/1964年

 

いつも悪をのぞんで、しかも、いつも善をつくる、あの力の一部です。

  訳:井上正蔵 集英社・世界文学全集7/1976年

 

私は常に悪を欲し常に善をなすあの力の一部分です。

  訳:柴田翔 講談社・世界文学全集19/1977年

 

たえず悪を欲して、しかもたえず善を行なう、あの力の一部です。

  訳:山下肇 潮出版社ゲーテ全集3/1992年

 

例の、問題の力の片割れです、いつも悪を望んでいて、たえず善をなす力です。

  訳:小西悟 大月書店/1998年

 

私はあの力の一部分 常に悪を欲し常に善をなす あの力の一部分です。

  訳:柴田翔 講談社/1999年

 

悪を欲しながら、いつも善をなしてしまう、あのおなじみさんの一人です。

  訳:池内紀 集英社/1999年

 

悪いことをしたいと思っているのに、結果的に善いことばかりしてしまう。

わたしは、そんな「力」の、ほんの一部分なんだよね。

  訳:荒俣宏 新書館/2011年 

 

あの力の一部なのです。

いつも悪いことをしようとして、結局良いことをしてしまう。 

  訳:和田孝三 創英社/2012年

 

 

記念すべき初邦訳から現行の主要な邦訳を

およそ年代順に並べてみたが、 

大勢に影響はないものの、微妙にニュアンスが異なり、

それぞれの解釈や哲学を垣間見るようで興味深い。

 

ときおり

善悪を逆さまに思い浮かべることがある。

 

つねに善を欲し、かえって常に悪をなす、あの力の一部です。

 

善と悪は一対で協働し、

より大きな秩序に還元されるということだろうか。

勧善懲悪はナンセンスとでもいいたげな、

ゲーテの一筋縄ではいかない精神に魅せられる。

惑星地球

地球はおよそ

時速1666㎞/秒速460mで自転しながら、

時速10万㎞/秒速30㎞で太陽のまわりを公転しているという。 

 

私たちは地上に存在しながらも

その速度を体感することはないため事実を忘れがちだが、

ふとしたときに惑星の驚異的な運動を想像すると

地上に存在していることが奇跡のように感じられる。

 

たとえば 

太陽が地球の周りをまわっていたと信じられていた

17世紀頃のことを想像してみる。

その時代の人々が

21世紀の携帯電話や飛行機やインターネットを目前にしたら、

摩訶不思議な物事として、

驚きを通り越して恐れを感じるかもしれない。

あるいは私たちのことを宇宙人だと思うかもしれない。

 

とすると、私たちがいま宇宙人といって

好奇心と恐れを感じている存在たちは、

タイムスリップしてやってきた未来の私たち

という可能性もあるのかもしれない。

 

惑星地球は、

認識の違いはあるにせよ、17世紀にも21世紀の今日にも、

時速1666㎞/秒速460mで自転しながら、

時速10万㎞/秒速30㎞で太陽のまわりを公転している。

 

あるいは、事実や真実はひとつではなく、

いくつあってもよいのだろう。

火球

6月2日の22時すこし前に南西の空にみた

明るく大きな流れ星は火球/かきゅうといい、

その跡の飛行機雲のようなものは

流星痕/りゅうせいこんというそうだ。

 

日本では平均すると

月に数個程度の頻度で目撃されているという。

 

その夜は

同時刻にかなり多くの人がみていたようだ。

 

空の出来事の神秘にどきどきする。

流れ星

昨夜22時すこし前、

風のある曇った南西の夜空に

不思議な光が流れ落ちるのをみた。

 

就寝前に軽くストレッチをした後

しばらく空を眺めるいつも通りの夜だったが、

比較的空の低い位置に、

かすかに青白く点滅しながら動く綺麗な光が目に入り、

しばらく見とれていた。

きらきらとした規則的な光は、ときおり不規則的に

花火のように広がって光ったようにみえた。

するとまた規則的に点滅しながら動いているようなので、

疲れ目の錯覚かもしれないと考えていた。

 

すると、音もなくすぅーっと

別の光が斜め45度に落下した。

一瞬のことだったが、すこし西寄りの同じ高さの空で、

くすんだオレンジ色と白色が合わさったような光の塊が、

とてもはっきりとドラマティックに落下した。

その跡には飛行機雲のようなものがみえた。

流れ星だろうか。

 

何度かみたことがある

高い空をロマンティックに流れる星とは異質の、

また20年前に北海道の函館山でみた

ジグザグに素早く動くおそらくUFOとも異質の、

不思議な光だった。

 

同じときに同じ空を見上げていた方、

どなたかいらっしゃいますか。

広島と長崎

2016年5月27日夕方

伊勢志摩サミットのために来日していた

アメリカのオバマ大統領が広島を訪れスピーチを行った。

 

翌日の新聞には

その英語原文と日本語訳が掲載され、

日経、朝日、毎日の各紙の邦訳はそれぞれに魅力的で、

読み応えがあった。

 

歴史的に意義深い、

記憶に残るスピーチだったと感じた。

何度も読み返したくなる永久保存版のテキスト。

 

とくに印象に残った一文は、

We're not bound by genetic code to repeat the mistakes of the past.

We can learn. We can choose.

 

 遺伝情報のせいで、

 同じ過ちを繰り返してしまうと考えるべきではない。

 我々は過去から学び、選択できる。/日経 

 

 私たちは遺伝情報によって、

 過去の間違いを繰り返す運命を定められているわけではありません。

 私たちは学び、選ぶことができます。/朝日

 

 私たちは過去の失敗を繰り返すよう

 遺伝子で決められているわけではありません。

 私たちは学ぶことができます。選ぶことができます。 /毎日

 

 

どのようなときにも

私たちには選択する力を通して

自由と責任が与えられている。

 

スピーチのなかでも語られたように、

子供たちはいつの時代でも

純真さや未来を象徴するまぶしい存在だ。

すべての大人はかつて子供であったし、

あるいは大人になっても、

その小さな子供の自分とずっと一緒にいつづける、

というのが、わたしの実感だ。

 

ひょっとすると「小ささ」というのは、

ひとつの「力」の形態なのかもしれない。

たとえば音楽で、

ときに「p」がこの上ない表現であるように。

 

そういう小さな

ひとりひとりの希望を束ねたい。

 

広島と長崎は

無数の死者のたましいに

抱かれている聖地なのだと思った。

太陽チャージャー

数か月前からソーラーチャージャーを使い始めた。

 

太陽光ではじめてi phoneを充電したときの感動は、

人類がはじめて火を発見したときの感動に

比べるべくはないにしても、ほんとうに新鮮な喜びだった。

 

あまねく降り注ぐ太陽の光のエネルギーを、

私たちの生活に則したエネルギーに変換するテクノロジーは、

なんて素晴らしいのだろう。

 

住んでいる集合住宅の設計上、

窓ガラス越しの室内での発電だが、まったく問題はなく、

コンセント電源とくらべても充電時間に遜色はない。

 

充電式電池/単3と単4への

充電・蓄電ができるタイプの製品を選んだが、

生活のところどころで電池を使用しているため、

また雨や曇りの日には、

その電池から機器を充電することもできるため、

たいへん重宝している。

 

ごく小さなことだけれど、

太陽の光でエネルギーを賄えることが清々しい。

 

石炭や石油そして原子力のエネルギーに

感謝と敬意を表しつつ、

多くの人の意識が束ねられた結果として、

新しいエネルギーシステムへ穏やかに移行できたらうれしい。

 

また、空間に無限に偏在しているエネルギー、

フリーエネルギーへのアクセスも期待されているようだ。

 

人の意識とともに、テクノロジーも日々更新されている。

わくわく、楽しみだ。

演奏会 CANTUS ANIMAE The 20th Concert

混声合唱団Cantus Animae/カントゥス アニメの

第20回演奏会を第一生命ホールで聴いた。

 

Cantus Animaeの51人のステージは、

数年前に他界した作曲家/三善晃の作品と、

20回という節目の演奏会のために委嘱された

若手の作曲家3名の作品とで構成され、

20世紀から21世紀に引き継がれる

「つながる魂のうた」と題されていた。

 

委嘱というかたちで

同時代にうみだされた作品がとりわけ興味深いのは、

現在を映し出すとともに、

未来を設定するテンプレートのひとつにもなるからだ。

 

第Ⅰステージの委嘱初演作品は、

団員でもある安藤寛子の「智恵子の手紙」。

彫刻家/高村光太郎の妻智恵子が、

精神を病み恍惚の人となる直前の数年間に

実母に宛てた手紙と遺書をテキストとした本作は、

意欲的で前衛的な、女性ならではの作品という印象だ。

自らを追い詰め、壊れてしまった智恵子の心が

安らかであるようにと祈るばかりだが、

抑圧された女性性の解放という

現代的なテーマのひとつともいえる主題だと感じた。

 

第Ⅱステージの委嘱初演作品である

森田花央里の「石像の歌」は、ドイツの詩人リルケの作品を

作曲家自身の言葉で翻訳したテキストが印象的な、

ロマンティックで瑞々しい作品だ。

愛を求めると同時に恐れてもいる

傷つきやすい相反した心を、

曲の終結部が象徴しているようでユニークだ。

同時に数年前の作品、

竹久夢二の詩からなる組曲「青い小径」も演奏されたが、

どちらも合唱曲についてまわりがちな

野暮ったさを感じさせないところに好感を持った。

 

第Ⅲステージの委嘱初演作品は、

松本望の「二つの祈りの音楽」で、

文学者宗左近/そうさこんの詩による大きな合唱曲だ。

一曲目は、戦争と神を題材にした圧倒的なテキストに、

音楽は負けておらず、共に運命と戦っているようで胸に迫る。

つづく二曲目の、すべてが清められてゆく祈りの音楽に、

自分を委ねて歌うことができる幸せと、

自分を委ねて聴くことができる幸せとが一体となり、

終幕を迎える。

 

ラテン語で「魂の歌」という意をもつCantus Animaeのサウンドは、

ふくよかで立派なため、

それぞれの作品との相性がはっきりしていると感じたが、

そのようなこと以上に、音楽のもつ力は計り知れず、

また尊いものだと確認した。

 

心地よい余韻と臨海の海風につつまれながら、

そのままどこまでも歩いていけるような気がして、

時間を忘れて約3kmの帰路を歩いたのだった。 

本 ピエール・リヴィエールの犯罪 狂気と理性 | ミッシェル・フーコー編著

コレージュ・ド・フランス/国立特別高等教育機関における

哲学者ミッシェル・フーコー率いるゼミナールの共同研究書である、

「ピエール・リヴィエールの犯罪 狂気と理性」を読んだ。

オリジナルは1973年にガリマール出版社より、

邦訳は1975年に河出書房新社より刊行され、

幾度かの新装や改訂や新訳を重ねている作品だ。

 

ノルマンディーの農村に生まれ育った

20歳のピエール・リヴィエールは、

1835年6月3日に、実の母と姉と弟を殺害し、

およそ一か月逃亡したのち、7月2日に逮捕された。

当初「神が命じた」と供述し狂人を装ったことや、

犯人の特異な性質と独特の動機から、

その精神状態をめぐり様々な議論が交わされたが、

裁判では有罪および死刑の判決に至り、

上訴は却下されたものの、国王の特赦をうけ終身禁錮刑に減刑された。

約5年後の1840年に刑務所で自死し、

複雑な残響をのこしたまま、事件は歴史に埋没する。

 

およそ140年後に、コレージュ・ド・フランスのゼミ一同は、

精神医学と刑事裁判の歴史的関係を研究する過程で

リヴィエール事件と出会い、その成果を世に問うこととなる。

本書は、事件の訴訟関連資料と論評の二部から成り、

前半は、可能な限り調査・収集された

裁判関係書類・犯人の手記・当時の新聞記事等が掲載され、

時系列にしたがい、事件の全容をくまなく伝えている。

後半は、フーコーを含めた8名の編者たちによる、

多角的な論評が収められており、

事件の歴史的背景や、犯行と手記の相関性、

裁判の正当性や、司法と精神医学の関係等が考察されている。

 

ともあれ白眉は、質量ともども不思議な魅力をはなつ、

犯人/被告ピエール・リヴィエールによる手記だろう。

本書の原題「Moi, Pierre Rivière, ayant égorgé ma mère, ma sœur et mon frère…

/私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した」に、

その手記の書き出しが引用されていることからも察せられるように、

またフーコーが序論で言及しているように、 

ある種の美しさと驚嘆を喚起させられる。

予審に際し司法官の求めに応じて拘置所で書かれたものだが、

読み書きをろくに知らないと断っているものの、翻訳の力も借りてだろうか、

かなりの記憶力と素朴かつ力強い文章力で、生い立ちや家庭環境、

犯行までのいきさつや動機、犯行後の心情の変化や行動を、 

整然と子細に述べている。

 

産まれたときから両親の折り合いが悪く、

ヒステリックで意地の悪い母親は、穏やかで誠実な父親に対し、

罵詈雑言や借金の苦労を絶え間なく負わせていたため、

自分を犠牲にして父を救おうと思ったと告白している。

そして、父を苦しめていた母と、母に共謀した姉を殺害すること、

また弟については、母と姉を愛していたため、

加えて犯行後に父が自分を憐れむことのないよう、

父がとりわけ愛していた弟を殺害することで、

自分が死刑に殉じても心残りに思わずに、その後を幸福に暮らせるようにと、

犯行を決意したと記している。

 

裁判では、リヴィエールが白痴/狂人であるか否か、

すなわち罪となるか否かが論点となり、

13名の証人たちの供述には、低能/白痴であるという共通の認識や、

気ちがいとしか思われぬ奇行の目撃が多く寄せられ、

また父親もリヴィエールに対して匙を投げていたと見受けられる

客観的な証言も多い。

リヴィエールの供述および手記と、他者による証言には矛盾が多く、

どちらにも真実と主観的な見解が混在しているように見受けられ、

陪席員や医師たちの意見はほとんど二分し、

決定的な判定を導き出せなかったようだ。

専門家たちをはじめ各人におよんだ動揺の形跡が興味深い。

 

殺人という行為は決して肯定できないが、

意識あるいは無意識のいずれにせよ

多少の創作が行われているであろうその手記には、

同情を起こさせるある種の力がある。

自らを犠牲にして父を救ったという動機の深層は、

父親への愛情からというよりはむしろ、

ヒロイックなものであったと感じられるが、

犯行とともに、自分自身をも葬ってしまったかのように、

減刑もむなしく、死を希求し遂げている。

また、リヴィエールが意図したように、

その後に父親は幸福に暮らせたのだろうか。

仮にもし以前より幸福に暮らせたのだとしたら、

どのように事件を解釈したらよいのだろう。

 

映画監督ルネ・アリオは、 フーコーの仕事に共鳴し、

1976年に同名の映画を製作している。

当時助監督を務めたニコラ・フィリベールは、

2007年に「かつて、ノルマンディーで」を制作し、

撮影が行われたノルマンディー地方を30年ぶりに訪れ、

かつて映画に出演した村の人々と再会を果たしている。

翌年の日本公開時に観て以来、

ルネ・アリオの作品を観ることは叶わぬままだが、

本テキストに対峙するのに8年かかったことになる。

 

もう一度「かつて、ノルマンディーで」を観てみようと思う。

そして遠くない未来に、

ルネ・アリオ監督の解釈と創作に触れられることを期待して。

本 ジャンヌ・ダルク復権裁判 | R・ペルヌー編著 高山一彦訳

中世史学者であり、ジャンヌ・ダルク研究における第一人者である、

今は亡きレジーヌ・ペルヌー編著による

ジャンヌ・ダルク復権裁判」を読んだ。

原書は若かりし頃の女史が編纂し、

1953年にフランスで出版されたものだが、

時を経て、高山一彦氏により日本語へ翻訳され、

2002年に白水社より公刊された、処刑裁判と対をなす記録だ。

 

訳者高山氏によると、主だった復権裁判の校訂記録は、

1841~49年にわたり刊行された、J・キシュラ編纂による、

一連の史料集・全5巻に収められたラテン語の記録と、

1977~88年にかけて刊行された、

P・デュパルク校訂によるフランス語版・全5巻があり、

いずれも教会裁判独特の仰々しく煩雑な手続きや、

同様の主旨が繰り返される数多くの証言からなる、

そのボリュームと冗漫さに、編訳の困難さを感じたという。

そこでペルヌー氏自らのお奨めもあり、

女史による編纂書「Vie et Mort de Jeanne d'Arc 

-Les Témoignages du Procès de Réhabilitation,1450-1456

ジャンヌ・ダルクの生と死 復権裁判の証言、1450-1456」

の本訳が実現したそうだ。

 

復権裁判という名称で親しまれているが、  

正確には「ジャンヌ・ダルク処刑判決無効裁判」といい、

1455年11月7日にジャンヌの母とふたりの兄により請願書が提出され、

1456年7月7日にかつての有罪処刑判決の無効/破棄が宣告されている。

それら原記録の一部は、パリ・ノートルダム教会の書庫に寄贈され、

現在はパリ国立図書館に所蔵されているそうだ。

 

ことの発端は、処刑裁判の18年後にあたる1449年に、

イングランドによる支配からルーアンの町を奪回した

フランス国王シャルル7世による、

かつてかの地で行われた処刑裁判の調査命令にある。 

1450年に行われた非公式な調査および尋問は、

1452年には公式なそれへと引き継がれ、

のべ115名にもおよぶ関係者等による証言から

次々と真実が明かされることとなる。

 

それらの証言には、多くの驚くべき真実と、

多少の誇張や、記憶のすり替え等が入り混じっているという印象だが、

前裁判で記録された本人による答弁とは別の角度から、

乙女ジャンヌの実像が鮮やかに浮かび上がってくるようで、

非常に興味深い。

 

故郷ドンレミ村の人々は、

愛称ジャネットの素朴さ、慎ましさ、敬虔さを証言し、

戦を共にした戦友たちは、

19歳の乙女が指揮官として専門家のごとく優れた技量を発揮したこと、

いくつかの奇跡としかいいようのない出来事についても、

感動を伴った証言をしている。

処刑裁判に立ち会った陪席判事たちや書記等の人々は 、

彼女が慎重に聡明に卓越した答弁をしたこと、

そのために感嘆の声があがったことなどを記憶する一方で、

法の名のもとに不正や蛮行が企てられたことも証言している。

 

裁判の費用を支出し主導したイングランド勢力は、

乙女ジャンヌに魔術的な力を見出し非常に恐れていたという。

そのため彼女が捕虜になった際に大金で買い取り、

裁判を行った教会関係者にかなりの圧力をかけたそうだ。

イングランド勢に積極的に加担していた裁判長は、

正確にはルーアンで法を行使する権限を所持しておらず、

本来は教会牢に同性の牢番を同伴するはずのところを、

世俗牢にイギリス男兵の番人とともに投獄され、

おそらくは暴言や暴力などを加えられたこと、

裁判は傍聴を許可せず非公開の形式で行われ、

告発諸箇条は虚偽を含み、答弁をかなり曲解して作成され、

つけられるべき弁護人をつけられることもなく、

心ある陪席判事たちの公正な意見も、

公会議およびローマ教皇への上訴の要請も、無視されたようだ。

 

このような穢れた裁判によって

痛ましくもむごたらしく処刑された悲劇から、

逆説的に映し出され、鮮明になるのは、

乙女ジャンヌの魂の清らかさや、

神秘の力が可能にした数々の奇跡だろう。

 

おそらく人間は、

大いなる力を慕い敬いながら、どこかで、

その善悪や人知を超えた計り知れない力に、

恐れ/畏れを抱いている。 

 

彼女を異端者として処刑したのも、

のちに聖女として列聖したのも、

どちらも同じ教会という組織であることに

言いようのない感慨を覚えるが、

闇は闇のままではいられず、

いずれ光に吸収される運命にあることを、

聖女は証明したのだと、信じたい。

本 ジャンヌ・ダルク処刑裁判 | 高山一彦編訳

フランス史におけるジャンヌ・ダルク研究者である、

高山一彦による編訳の「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」を読んだ。

1971年に現代思潮社より初版刊行、

1984年に大幅な改訂版が白水社より、

2002年には「ジャンヌ・ダルク復権裁判」の訳書とともに、

新装版として同社より出版された、貴重な史料だ。 

 

当時イングランド王国の支配下であった

フランス北部ノルマンディ地方の町ルーアンで、

1431年1月9日~5月30日に行われた、

19歳の乙女ジャンヌの宗教裁判の記録は、

数奇な運命をたどり、独特の形で現存している。

 

審理の場で記録されたフランス語による原本は、

はたして消失し現存しないということだが、

裁判過程の公開を目的として、

「フランス語原本」をラテン語へ翻訳した

ラテン語記録」の写本が3部現存しているようだ。

けれども、裁判が不正に行われたことから、

幾つかの記録の差し替えや削除といった

作為が施されているようで、それらを補うかたちで、

フランス語原本に準ずる価値を認められているという

「ユルフェ写本」と「オルレアン写本」が存在する。

あまたの古文書コレクションに紛れこんでいたという、

失われたフランス語原本から写されたとされるユルフェ写本、

ユルフェ写本またはフランス語の古記録から写されたといわれる、

オルレアン市の図書館が所蔵するオルレアン写本は、

いずれも部分的で不完全な形ではあるものの、

主要な校訂版であるP・シャンピオン版やP・ティセ版で、

ラテン語記録に併記され、裁判記録に奥行を与えているようだ。

 

編訳者である高山一彦氏は、

いくつもの校訂版や研究書を参照したうえで

妥当と思われる多少の編纂を加えて翻訳しているが、

どこまでも公正に正確に史料に対峙しているという印象で、

安心して日本語で裁判記録をたどることができ、

その稀有で誠実な仕事に感謝を感じた。

 

当時、正確に裁判が記録されたという前提のもと、

審問に対する乙女ジャンヌの答弁からは、

文盲であったという一説にもかかわらず、

すぐれた思考力をもっていたことがうかがえる。

教会の虚偽や、その政治的な意図を見抜きながらも、

答えられることには誠実に答え、

答えられぬことには答えられぬと明言し、

屈することなく毅然と立ち向かっている。

 

巧みに紳士的な手続きを装ってはいるが、

裁判を主導したイングランド側としては、

奇跡的な勝利につづきフランス国王シャルル7世を戴冠させた

乙女ジャンヌの異端/破門と処刑を公にすることで、

フランス国王の尊厳を冒し、勢いづいたフランス勢力に陰りを与え、

1420年のトロア協定により王位継承権があるとされた

イングランド王ヘンリー6世のフランス支配拡大にむけて、

戦局を有利に進めたかったようだ。

 

その後明らかになる、

数々の不正が横行する裁判において、

審理の進行にしたがい、

この者たちに何を言っても無駄だという諦念や絶望からか、

殉教を望む発言がみられるようになるが、

すでに自らの死を予見しているふしもあったと見受けられる。

 

天啓を授かり、

聖ミッシェル、聖カトリーヌ、聖マルグリットといった、

天使や聖女たちの姿を目にし、

常に交流していたという乙女ジャンヌは、

およそ500年を経て列聖されることからも窺えるように、

あまりに聖なるものに近かったゆえに、

地上では長く生きられぬ運命にあったのかもしれない。

 

フランスの作家ジャン・ジュネは、いみじくも、

「聖女とは言葉を変えていえば、人間の否定である」

といったが、その魂は神と直接に関係し、

社会の秩序におさまらず、

むしろそれらを破壊する可能性を秘めているために、

悲劇は宿命を帯びているかのようにもみえる。

 

そして、乙女ジャンヌのもうひとつの物語は、

およそ25年後に行われた復権裁判の記録へと綴られる。

映画 ロベール・ブレッソン | ジャンヌ・ダルク裁判

ロベール・ブレッソンの「ジャンヌ・ダルク裁判」を観た。

 

監督にとっては中期にあたる、1961年に撮影された、

フランスの聖女についての、61分のモノクロの作品だ。

 

ジャンヌ・ダルクは、

フランス国内およびイギリスにまたがり、

およそ116年ものあいだ争われた百年戦争の最中に、

フランス国王を救いに行け、という天のお告げにより、

劣勢であったフランス王国軍を率いて戦線に立ち、

いくつかの重要な闘いを勝利に導いた、実在の人物だ。

ほどなくして敵方に捕えられ、

投獄と裁判を経て、異端の罪で火刑に処されたが、

25年後の復権裁判で、処刑判決は無効とされ、

のち1909年に福者に、1920年には聖人となった。 

 

ユリウス暦当時の1412年頃に、

フランス北東部の村ドンレミの農家に生まれ、

13歳頃から神秘体験をするようになったという彼女は、

17歳頃に国王に謁見し承認を得て、司令官として軍を率いた。

わずか数か月で戦局を転換させ、

シャルル7世の王位継承のための戴冠式に尽力するも、

次第に国王と政策を異にするようになり、

不本意な戦における退却時に18歳で捕虜となる。

忠誠を誓った国王にも半ば見捨てられ、

およそ一年後に19歳前後で処刑されたが、

異端の審判をくだした宗教裁判には、

多くの問題や不当な要素があったという、

政治的に利用された、

理不尽な弾劾裁判だったようだ。

 

ブレッソンの描く本作は、

およそ5か月間にわたり行われた裁判とその火刑を、

簡素に印象深く描いている。

現存する裁判の記録原本と、

その25年後の復権裁判の証言を典拠としたという、

監督による脚本と台詞は、鮮やかで深淵だ。

研ぎ澄まされた構図や音響は、

物語の緊張感と一体となっている。

 

ジャンヌ・ダルクを演じる、

作家となる前の、20歳のフロランス・ドゥレは、

聖性をもった超越的な存在というよりは、

勇敢で不敵な若い女性という存在感で、

今日の人物であるかのような現実性を取り戻したかったという、

監督の意図を体現している。

 

西洋史上とりわけ有名な人物のひとりであり、

本国フランスでは国民的なヒロインのようだが、

お墓も肖像画も存在しないということが、

彼女の神秘体験にまけずおとらず、

後世の人々の想像力を刺激しているのではないだろうか。

 

オルレアンの乙女ともよばれる彼女の受難は、

イエス・キリストのそれを喚起するのは勿論だが、

とりわけ本作の主人公は、

同フランスの思想家であり活動家であった、

シモーヌ・ヴェイユを思い起こさせた。

優美でありながら男装し従軍したことや、

敬虔な信仰心をもっていたこと、

若くして客死したことなどに類似性を感じ、

死後に編纂された著作重力と恩寵」に、

久しぶりに目を通す。

 

 ” 世論は、たいへん強い原因である。

 ジャンヌ・ダルクの物語のうちに、

 当時の世論がどれほどの圧力を及ぼしているかが読みとれる。

 だが、その世論といっても、不確かなものであった。

 さらに、キリストについても・・・”

 

不確かな世界のなかで、

あまりに純粋に天の声に殉じた、

そのはげしい魂たちに、清められるかのようだ。 

さくら

ベランダのさくらが開花した。

 

7年前の春に、花屋でみつけた枝ものの桜を、

植木鉢に挿し木した、小ぶりの樹木だ。

種名を啓翁桜/けいおうざくらといい、

毎年、淡いピンク色の花を楽しませてくれる。

 

啓翁桜は、

山形県の特産品として栽培されているが、 

ルーツは九州の福岡県久留米市にあるようだ。

昭和初期に、中国のオウトウを台木にし、

ヒガンザクラを接いだところ、

穂木であったヒガンザクラから枝変わりしたのだという。

表記も、敬翁桜から、

いつのまにか啓翁桜へ変化したそうだ。

 

秋の紅葉をへて、枯葉を落とす頃、

寒々とした枝に、人知れずつぼみは現れる。

冬のあいだ、ふくらみに変化はみられないが、

幹や枝は赤みを増し、

内奥で生長をつづけているのがうかがわれる。

 

寒暖をくりかえし、また雨をはさみながら、 

訪れる春の陽光とあたたかさは、

冬を越した生命たちにとって、ひとしおの喜びだ。

日本では、出会いと別れの季節でもある。

 

 

ピンク色を好み、

春に生まれ、春に逝った、

その季節を名前にもつ、母を思い出す。