佐賀町日記

林ひとみ

絹のコーヒーフィルター

絹のコーヒーフィルターで淹れたコーヒーが

とても美味しかった。

 

家でドリップする際に、 

紙のフィルターをきらしてしまったので、

代用できるものはと画策し、

はぎれのシルクで裁縫したのがきっかけだ。

 

ネル/フランネルや、ケナフなど、

フィルターにより味が変わると聞いたことはあったが、

実際に体験して驚いた。

雑味がでにくいのか、ほんとうに美味しい。

 

感じ方には個人差も、

手製のものだから、ひいき目もあるだろうが、

洗って乾かし、何度も使用できることや、

ごみが減ることも、魅力的だ。

 

絹/シルクは、

蚕の繭からとれる動物性繊維で、

人の肌と同じたんぱく質から成るそうだ。

数年前に、

冬の乾燥による肌のかゆみに悩まされた際、

皮膚科医からシルクの肌着を薦められ着用すると、

ほどなく症状が改善したことを思い出した。

肌との摩擦がすくないということだった。

 

コーヒーは、

シルクのフィルターを通過するとき、

どのような作用を受け、あるいは受けずに、

美味しくドリップされるのだろう。

 

いにしえのシルクロードは、

その計り知れないポテンシャルを、

滔々/とうとうと語り伝えているかのようだ。

展示 みなでつくる方法 吉阪隆正+U研究所の建築

みなでつくる方法 吉阪隆正+U研究所の建築展を、

湯島の国立近現代建築資料館で観た。

 

吉阪隆正/よしざかたかまさは、

1917年東京生まれの建築家で、 

その多岐にわたる活動から、

登山家や冒険家や思想家ともいえるだろう。

 

早稲田大学理工学部建築学科で、

考現学今和次郎に学び、

民家調査や住居学に取り組み、

またル・コルビュジエのアトリエを経て、

建築設計を行う研究所を設立・主宰した。

 

展覧会は、

多くの図面と、模型、映像、

著作からの引用パネルなどで、構成されている。

新宿百人町の自邸 、幾つかの個人邸、

1956年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館、

長崎の海星学園、富山の呉羽中学校、

八王子の大学セミナー・ハウス、

お茶の水アテネ・フランセ

千代田区にあった日仏会館、

島根の江津市庁舎などの、数々のプロジェクト。

 

アテネ・フランセの外壁の、あの独特の色彩は、

教鞭を執ったアルゼンチン・アンデスの夕焼けの色だったと知り、

不思議な感慨を覚えた。

 

 

印象的だったのは、

氏の全人的とも宇宙的ともいえる思想で、

その人間的な温かみと大らかさや、

次のような象徴的な問いに、共感を抱く。

 「私はどこにいるのか?」

 この疑問こそすべての出発点だ。

 

また1923年/6歳で体験した関東大震災と、

おそらく戦中の東京大空襲のことと察せられるが、

後年に言及された「ある住居」からの引用に、

どきっとする。

 天は二度まで火を以って東京の人々を警告したのに、

 この人々はまだ目醒めない。

 海の水が都心を埋めつくしてしまう水害が来るまでだめなのだろうか。  

 

 

最終日だったこともあり、

会場は老若男女で賑わっていた。

そのなかに、オーラルヒストリー/記録映像で、

思い出を語っていたご子息・正邦氏もいらっしゃった。

1980年/63歳で他界されたお父様にそっくりで、

白いお髭は、まるでサンタクロースのようだった。

春やさい

先日、春野菜の天ぷらを食べた。

 

旬をむかえた、

うど、菜の花、たらの芽、ふきのとう、新玉ねぎには、

独特の香りと苦みがあり、

今の時期ならではの、春の味わいだ。

季節のおくりものは

なんてすばらしいのだろう。

 

 

土のなかで越冬した春野菜には、

アクやクセを醸す個性的なインパクトとともに、

健気でしたたかな生命力を感じる。

また栄養学的にも、

時節に適った特徴をもっているようだ。

 

人はクマやリスのように冬眠することはないが、

動物たちと同じように代謝率がさがる冬季には、

脂質や老廃物を蓄積しやすいそうだ。

 

ヨーロッパでは春季療法という、

植物を用いた体質改善法があるそうだが、

春の訪れとともに活発になり、

代謝が高まってゆく身体に、

春野菜のもつ解毒・浄化作用は相乗的で、

理にかなっているということだ。

 

 

わたしたちは、四季をとおして、

身体が必要としているものを欲求し、

より美味しく感じられる感受性をもっている。

 

自然は、わたしたちの内外に存在し、

完璧にデザインされていると

知っているのだ。

映画 ルキノ・ヴィスコンティ | 若者のすべて

ルキノ・ヴィスコンティの「若者のすべて」を観た。

 

1960年制作の本作は、

長編全14作のうち、6本目の監督作品だ。

ジョバンニ・テストーリの短編「ギゾルファ橋」を原案に、

常連のスーゾ・チェッキ・ダミーコ等と共に脚色したという、

イタリア南部の農村から、北部の大都市ミラノへ移住した、

寡婦とその5人の息子たちの物語だ。

 

夫と死別した喪中の母親は、生来の勝気な性格から、

4人の息子たちを連れて、長男の住むミラノへ移り、

安価な地下の借家で、念願の新生活をスタートさせる。

兄弟たちは、それぞれの個性に従って、

大都市へ順応する者、積極的に適応する者、

故郷に哀愁を抱く者、悪にそまり破滅する者があり、

それぞれに異なった運命を辿ることになる。

なかでもフォーカスして語られるのは、

次男シモーネ/レナート・サルヴァトーリと、

三男ロッコ/アラン・ドロンと、

娼婦ナディア/アニー・ジラルドの、

不幸な三角関係の悲劇だ。

 

都市と農村、聖性と暴力、

家族の絆や、故郷へのノスタルジーなど、 

いくつかの主題が重なり合う重層的な本作だが、 

象徴的なシーンのひとつは、

壮麗なドゥオーモ/大聖堂の屋上を舞台に描かれる、

愛し合うロッコとナディアの別離だろう。

聖人君子さながらに自己を顧みぬロッコは、

同じ女性を愛し、また大都市に毒され堕落してゆく

兄シモーネへの憐みと罪悪感から、

兄を救えるのは君だけだとナディアに告げるが、

はからずもすべての者を裏切り不幸にする、

悲劇的なある種の美しさに眩暈がする。

また、ふたりの兄弟に翻弄されるナディアの、

磔刑されたキリストを暗示するような最期も、印象的だ。

 

エピローグで、堅実な四男チーロは、

まだ幼い弟ルーカに、シモーネの破滅について、

聖人ロッコの寛大さが輪をかけたと語り、

物語に陰影を与えている。

そして描かれざる五男ルーカの物語へと希望をつなぎ、

ほがらかに家路をたどるルーカの後ろ姿を見送るように、

物語は幕を閉じる。

 

 

イタリア語の原題「ROCCO E I SUOI FRATELLI」は、

「ロッコと兄弟たち」だが、

5人の兄弟たちの名前をそれぞれタイトルとした、

5つの章により構成されている本作に、

邦題「若者のすべて」は、

よりよく馴染んでいる名訳と感じた。

 

制作当時50代半ばであった監督は、

以降、本領発揮ともいえる豪奢な大作を生み出してゆく。

ヴィスコンティヴィスコンティに成ってゆく、

おのれを完成させてゆくその軌跡に、

ますます興味は深まってゆく。

映画 ロッセリーニ | インディア

ロベルト・ロッセリーニの「INDIA Matri Bhumi」を観た。

「インド 母なる大地」だ。

 

1958年制作の本作は、インドを題材とした、

新聞の三面記事から着想を得たといわれる、

4つのエピソードで構成されている。

 

プロローグは大都市ボンベイ/現ムンバイの

おびただしい群衆への視線からはじまる。

多様な民族・言語・宗教が、

カースト制度とともに共存している、

また植民地時代の支配をうけいれた、

寛容な国民性を映し出す。

 

第1話は象と象つかいの話、またその結婚、

第2話は巨大ダムの建設労務者の話、またその労働移動、

第3話は虎と森の老人の話、またその森の開発、

第4話は飼い主を熱波で失った猿の旅路、の物語。

それらを通して、

インドにおける人間と動物の関係や、

悠久の時の流れに相対/あいたいする近代化の様相が、

ドキュメンタリータッチで描かれている。

 

各地で異なる時期に撮影され、

編集で統合されたという粗い画像だが、

自然の雄大さや美しさ厳しさが伝わってきて、

感動的だ。

 

ナレーションは、

各エピソードの主人公たちによって語られる設定でありながら、

全編を通して同一のナレーターによりイタリア語で語られるため、

異国のおとぎ話や紙芝居をみているような、

不思議な感覚を覚えた。

 

森のなかで木を伐採し材木を運ぶ象たちの、

大きな体にぶら下げられた鈴が鳴り響く、

牧歌的な情景のなかで、思考が停止する。

労働を終えた象たちの水浴びと食事の世話に、

大忙しの象つかいたちがユーモラスだ。

野生の虎と適切な距離を保って暮らしていた、

80才の森の住人のモノローグ、

「陽が昇り眼をさますと 生きる喜びが身体にみなぎるのです」

という言葉が美しい。

開発によりバランスが崩れた森では、

傷ついた虎が人間を襲いだし、

自然の湖や寺院は、人工のダムのなかへ沈み、

飼いならされた猿は野生に戻ることができず、

サーカスの曲芸へと辿り着く。

 

 

時の流れのなかで、

わたしたちが得たものと失ったものに思いを馳せることは、

現在と未来をよりよく生きるために、有意義なことだと思う。

また、いつでも今が一番よいにきまっている、

という建設的な考え方も有用だろう。

 

映画に引用された、

叙事詩マハーバーラタに収められている、

ギータ書からの箴言が、複雑な余韻を残す。

 

真実の何たるかに悩むは 凡なる者の常なり

正しからざる物の中にも 真実の在する事あれば

今はただ行う事 これ肝要なり

チャイ

今年の冬は、チャイをつくってよく飲んだ。

 

紅茶に、数種類のスパイス、

クローブ、カルダモン、シナモン、ジンジャー、ペッパー に、

ローズヒップレモングラスなどをその日の気分で加えて、

牛乳/豆乳とあわせて煮出す。

 

からだが温まり、ほっとする。

 

 

チャイは、インドの植民地時代に、

イギリスへ輸出するために生産された紅茶の、

残りの細かい茶葉を利用して作られたのが、はじまりという。

 

チャイはお茶、マサラはスパイスをさし、

スパイスいりのミルクティーは、

正確にはマサラチャイというそうだ。

 

逆境のなかで、

人々の生活の場からうまれた飲み物は、

時代や国境を越えて、ひろく愛飲されている。

暦では立春をすぎ、

すこしずつ春の気配を感じるこのごろも、

まだ名残おしい冬のチャイにつつまれている。  

電力自由化

2016年4月から、電力の自由化がはじまる。

 

自由という言葉のもつ響きは、

なんて清々しいのだろう。

 

今までは選択する余地がなかったので、

お任せで、見方によっては楽でもあったが、

4月からはどうしようかと、

迷える幸せにあずかっている。

 

わたしたちひとりひとりの取捨選択の総合が、

この国の行方を指し示すことにつながるのだと

ひしひしと感じられるから、責任重大だ。

 

フランスの思想家ジョルジュ・バタイユは、

その著書「宗教の理論」で、

”人類の総体が正しいのは明らかである” と述べている。

 

究極的にはその通りだろうが、

できれば戦争や原発事故は避けたいので、

身近な些細なことだとしても、

できることから最善を尽くしたい。

 

 

 夢のなかでみた地球は

 水と空気が澄んでいて

 太陽の光はいつでも穏やかに降り注ぎ

 植物や動物たちの喜びがこだまして

 人間たちはすべてと調和する知性を獲得していた

 

 

千差万別さまざまな命が、

愛や喜びに由来するエネルギーを発電する、

クリーンでエネルギッシュな日本を想像すると、

とてもわくわくする。

本 岡本太郎 | 沖縄文化論

岡本太郎の「沖縄文化論 忘れられた日本」を読んだ。

 

多岐にわたり創作をくりひろげた芸術家が、

1960年に雑誌「中央公論」に連載した作品だ。

氏がはじめて沖縄を訪れたのは、

アメリカ統治下にあった1959年秋のおよそ半月で、

ひとつの恋といえるほど、沖縄に夢中になったという。   

 

かつてパリ大学・ソルボンヌ校に学び、

民俗学ではオセアニアを専攻したという岡本氏の、

視野の広い、明晰なものの見方・考え方や、

愛に基づいた、偏りすぎることのない、

批判精神や自己分析が、興味深い。 

 

 

沖縄がかつて直面した、

そしていくつかは今も直面している、

人頭税という圧政や、風土病マラリア

気象条件である台風、大戦末期の地上戦、

基地問題などの、過酷な歴史と運命。

そのなかで生まれ、土地に根付いている、

固有の歌や踊り、また信仰のあり方に、

沖縄文化の特性を見出し、

そしてそこに忘れられた古来の日本が生きているという、

斬新で大胆な文化論。

特に沖縄本島に程近い久高島では、

なんのモニュメントもない、一見するところ空地のような、

御嶽/うたきという聖地に衝撃をうけ、その清浄さ・潔さを、

物質にまつわる不浄さ・不潔さと対比する感受性は、

現代のわたしたちに親しいものではないだろうか。

 

一方で、失われゆく無形文化を嘆くばかりの、

当時の沖縄への物足りなさをも、

今いったい何を生み出しているのか、と指摘する。 

 

また、本土における花柳界の舞踊や歌舞伎、

わびさびの文化や形式主義などを通じて、

事あるごとに言及される本国への批判は、

鋭く的確だ。

 

 

2008年にはじめて中公文庫版を読んでから、

再読する度に、新たな感銘を受けているが、

今回もっとも印象にのこったのは、

人間の純粋な生き方というものがどんなに神秘であるかを

伝えたかった、という一文だ。

 

およそ半世紀前に、氏が沖縄との出逢いから、

日本および自己を発見した道のりは、

現在のわたしたちにも、多くの示唆を与え、

また自分自身のこととして、

いきいきと鳴り響いてくるのだった。

小浜島の朝

数日滞在した、

沖縄・八重山諸島小浜島

 

7時21分の日の出にあわせて、

浜辺へむかう。

 

暗闇から、すこしづつ、ぼんやりと、

世界が浮かびあがってくる様は、神秘的だ。

朝やけの桃色と緋色の光が、

刻々とひろがり、変幻する。

時間を忘れるようなひとときだ。

 

傍らに、夢中で珊瑚をひろっている少女がいた。

空の出来事よりも、白い砂浜に無数にころがるそれらに

魅せられていたのかもしれない。

 

波の音が、遠くから、かすかに届くようで、

心地よいめまいを覚えた。

 

 

自然のなかに、ぽつりぽつりと、

人間が点在し生存する感覚は、

過密な都市や、大規模な組織などの、

群衆のなかで生存するそれとは、

かなり隔たりがあるような気がした。

 

 

南国特有のがじゅまるの木につるされた

ハンモックに横たわり、

樹々の間からのぞく空をみたり、目をつむったり。

ふと地面に視線を移すと、

小柄で華奢なアリたちが、白い砂の粒を、

次々と穴から運び出している。

家をつくっているのだろうか。

 

ある挿話を思い出した。

自然界のアリのコミュニティーでは、

一生懸命働くアリは6割、

あまり仕事をしないアリが3割、

ほとんどなにもしないアリが1割。

労働の効率をあげようと、

その1割のアリを取り除くと、

新たに1割、別のアリがなにもしなくなるという。

 

本当かどうかはわからないが、

いろいろな局面で、

そういうことはあるかもしれない。 

絶妙なバランスで、

それぞれの役割を演じているのではないだろうか。

 

 

無為有為

活動と休息。

 

いれかわり、たちかわり、

わたしたちの命は育まれてゆく。

 

都市に住みながら、

島に暮らすように、

生きれたらいいと思う。

八重山諸島 小浜島

沖縄県八重山諸島小浜島に、数日間滞在した。

 

八重山諸島は、沖縄本島から南西に約400km、

飛行機で約1時間の距離にある、

いくつもの有人・無人島からなる列島だ。

比較的大きな西表島石垣島から、

竹富、小浜、新城、鳩間、黒島、

有人島では最南端の波照間島

最西端の与那国島などがある。

 

また、石垣島西表島の間、

東西20km・南北15kmの海域は、

石西礁湖/せきせいしょうこ、といわれる、

世界有数のサンゴ礁が広がる国立公園だ。

 

石垣空港からバスで約40分、

石垣港は各島へわたる船のターミナルで、

港から17.7km/約25分の小浜島は、

面積7.8㎢・人口約650人の、

サンゴ礁に囲まれた亜熱帯の島だ。

 

 

赤い土、白い砂、

原色の花々、濃厚な緑、

海は軽やかで明るく、

静かに穏やかに波うっていた。

 

全体的に、

荒々しくも、やさしい雰囲気。

あるようで、なかったり、

ないようで、あったりする、気配。

 

光と闇がはげしく、

そしてコントラストが強いのは、

南国特有の性質だろうか。

 

 

東京から約2000km離れた、

はじめて訪れた南の島の夜空には、

あふれるように星が瞬いていた。

 

ひとつくらい星がおっこちてきても

不思議ではないような気がした。

映画 イヴ・サンローラン

ピエール・トレトン監督によるドキュメンタリー、

イヴ・サンローランYves Saint Laurent - Pierre Berge , L'amour Fou」を観た。

 

2008年にサンローラン氏が逝去してから、

その実像にせまる映画が3本制作されている。

2010年の本作と、

2014年の「イヴ・サンローランYves Saint Laurent」、

および「サンローラン/SAINT LAURENT」だ。

いずれもフランスで制作されており、

本国でのその存在感の大きさがうかがえる。

 

 

本作のプロローグには、

2002年の氏による引退会見が引用されている。

18歳でクリスチャン・ディオールのアシスタントになり、

1957年/21歳で師の急逝に接し、その跡を継ぎ、

翌年の初コレクションより成功に恵まれたものの、

その後アルジェリア戦争での兵役による衰弱と、

ディオール経営陣との不和による解雇を経て、

1962年にパートナーとともに自身のメゾンを立ち上げる。

女性のワードローブの発明、プレタポルテの創始、

黒人モデルの起用など、時代を変革する華々しい成功とともに、

神経症や、酒・薬への依存を、長い道のりをかけて克服した、

20世紀を代表するクチュリエだ。 

 

ドキュメンタリーである本作は、

公私にわたるパートナーのピエール・ベルジェ氏への

インタビューを中心に構成されたものだ。

よい時もそうでない時も、50年間ともに暮らし、

仕事をし、最期を看取ったという、

サンローラン氏同様に魅力的なベルジェ氏より、

分かちがたい絆で結ばれたふたりの人生が、

愛を交えて語られる。

 

並行して、ふたりが20年をかけて収集した美術品を、

オークションに出品する過程が、伴奏される。

新たな生をうけて羽ばたいてほしいという願いのもと、

ゴヤピカソマチスモンドリアン

ブランクーシ、ビュッフェ、ジェリコ・・から、

セヌフォ族の彫刻、オリエンタルなオブジェ・・まで、

錚々たる美術品に囲まれた生活空間が解体されてゆく。

 

 

モードの帝王・サンローラン氏の引退会見は、

たいへんに誠実で文学的という印象だった。

人生で最も大切な出会いは、

自分自身と出会うことなのだ、と語っているが、

その険しくも稀有な道のりを想うとき、胸が熱くなる。 

 

 

ベルトラン・ボネロ監督の「サンローラン」は、

成功の渦中に多忙を極め、狂気へ傾倒していく様が、

ドラマ仕立てに、テンポよく綴られた作品だ。

晩年のサンローラン氏を演じた、

ヴィスコンティ作品でおなじみのヘルムート・バーガーが、

かつて主演した「地獄に堕ちた勇者ども」をベッドのなかから鑑賞し、

涙を流すシーンが挿入されるが、その遊び心にも拍手をおくりたい。

 

ジャリル・レスペール監督の「イヴ・サンローラン」と、 

氏の生前1994年に制作された、肉声を交えたドキュメンタリー、

ジェローム・ドゥ・ミッソルズ監督の「イヴ・サンローラン その波乱の人生」も

いずれ観てみたいと、興味はつづく。

朝のジュース

毎朝、

お野菜と果物のミックスジュースを飲む習慣が、

ここ2年半ほど続いている。

 

見よう見まねでつくりはじめたが、

定番になっている食材は、

小松菜・セロリ・レタス・人参・りんご・みかん。

時期や在庫によって、

りんごが梨や柿に、みかんがレモンやかぼすに、

小松菜がほうれん草やちんげん菜などに、入れ替わる。

 

今ではすっかり、

朝起きると自然と身体が欲するようになっているが、

そんな或る日のこと、いつもどおりに材料をセットし、

スイッチをいれたが、はて、ブレンダーが動かない。

突然うんともすんともいわなくなってしまったのだ。

寿命というのは、このように尽きるものなのだろうか。

 

メーカーに問い合わせてみると、

修理するには時間もお金も中々かかるという。

気に入って使用していたので、

同じものを同じ店舗に探しに行ったが、

製造が切り替わり、入手は不可能であった。

世の移り変わりは、

見方によっては乱暴なものだと感じ入りつつ、

ごくシンプルな、初対面の2代目を新調した。

まだお互いに様子を見合っている具合だが、

ひとまずは平安がもどり、ほっとしている。

 

 

朝のジュースを飲むようになってから、

かねてより貧血気味ということで

要経過観察とされつづけた健康診断に、

ほとんど問題がなくなったことも、

習慣への愛着につながっている。

植物たちは、私たちに力を与え、

いのちといのちが合わさり、その一部となることを、

喜んでくれていると感じることがあるのだが、

どうだろう。

展示 石黒宗麿のすべて

「石黒宗麿のすべて」を松涛美術館で観た。

 

石黒宗麿/いしぐろむねまろは

1893年に富山県に生まれ、

25歳で耀変天目茶碗に魅せられて陶芸を志し、

1955年に鉄釉陶器で人間国宝に認定された陶芸家だ。

 

特定の師にはつかず、

35歳で古陶磁研究者の小山富士夫と出逢い、

研究をともにしながら技法を体得し、

独自の道をきりひらき大成した作家だ。

1968年に鬼籍にはいるまで、

京都府八瀬を作陶の地とした。

 

本格的な展覧会は約20年ぶりということで、

おおよそ制作年代順に、また技法ごとに、

たしなんだ書や画も併せつつ、

作家の全貌をうかがえる構成になっていた。

 

公立の美術館ということもあるだろうか、

展示室は地下と2階にひとつづつで、

じっくり観るにはちょうどよいボリュームだった。

 

生涯に取り組んだ多彩な技法に触れながら、

全体を通して、おおらかで、のびのびと自由で、

そこはかとなく品が漂う作品に、

淡々とわが道をあるいた作家、という印象を抱いた。

 

個人的にたいへん魅力を感じた器がふたつあった。

ひとつは黒釉の中鉢、ひとつは楽焼の赤茶碗だ。

釉薬のうつくしさ、造形/佇まいのゆかしさに、

なんともすいよせられるようだった。

 

京都を拠点とする以前、20代後半のひと時には、

縁者のいた渋谷区松涛に住み、窯を築いたという、

ゆかりの地でもあるようだ。

 

作家の年表で印象的だったのは、

父親不明という出自で、複雑な環境に育ったようだ。

石黒宗麿の作品やその人生を語るとき、

このような生い立ちは無視できないもののような気がした。

 

 

ぼんやりと展覧会を反芻しつつ、

白井晟一研究所設計による美術館を出てふりかえると、

来たときには気にも留めなかったが、

壁面を覆う花崗岩が、たいへんに美しかった。

 

 

傘をたたく、雨の音を聴きながら、

とりとめのない余韻とともに、帰路についた。  

映画 エミール・クストリッツァ | UNDERGROUND

エミール・クストリッツァの「アンダグーラウンド」を観た。

 

1995年に制作された長編5作目にあたる本作は、

集大成のような、ベスト盤のような映画だと、

監督は語っている。

 

物語は、 

ふたりの男の間に交わされた友情と裏切りや、

人々を騙し利用しつづけた男と女の人生が、

ユーゴスラビアにおける戦争・紛争、

そして国の解体という歴史とともに綴られた、

171分のスペクタクルな叙事詩だ。

 

1941年のナチスによる首都ベオグラード爆撃を起点とし、

第二次世界大戦末期の占領からの解放、

つづく世界的な冷戦時代における、

パルチザン指導者チトーによる、かりそめの国家統一、

その後の社会主義体制崩壊に伴う、1992年の内戦までの、

50年にわたる旧ユーゴスラビアの歴史を辿る。

 

友情でかたく結ばれていたかのようにみえたふたりの男だが、

恋のために、また政治的な利害のために、裏切りが行われる。

表向きはパルチザンの英雄として地位と権力を得る一方で、

20年間にわたり数十名の縁者たちを地下貯蔵庫にかくまい、

地上ではナチスによる占領が未だ続いていると騙しつづけて、

武器を製造させ、荒稼ぎをした、男と女。

裏切られた男は、物語の終盤で、

かつての相棒と恋人を、はからずも葬ることになる。

 

 

ユーゴスラビアサラエボを故郷にもつ監督は、

本質的に悲劇の要素の色濃い物語を、

きわめて意図的に、喜劇的に仕立てている。

全編を通して、景気のよいフォークロアな音楽が

カーニバルのように鳴りつづける、

凝りに凝ったビジュアル・アーツという印象だ。

俳優たちの巧みさにも、惚れぼれとした。

 

冒頭のベオグラード爆撃による惨事は、

動物園の動物たちとともに描かれたことで、

かえって人間たちの罪の深さがうかびあがり、痛切だ。

そのナチスによる爆撃以上に、

占領解放のための連合軍の爆撃のほうが激しかった、

というナレーションに、どきりとする。

英雄として語られることの多いパルチザンが、

ならず者の犯罪者として描かれているところも、興味深い。

 

ユニークな天国的なラストシーンでは、

ユーゴスラビアを模った土地が、半島から分離しつつ、

ゆっくりと沖へと漂ってゆく。

その島のうえでは、

物語から消滅したはずの登場人物たちが、

すべての重荷から解放され、

音楽とともに歌い踊り、和解する。

「許そう、でも忘れないぞ」という印象的な言葉が、

朗らかに語られることで象徴されるように、

つかの間、この映画を共に生きた私たち観客は、

癒され、清められ、希望を見出すことができる。

 

 

ごく短いシーンだが印象にのこったのは、

路上にホワイトでト音記号と五線がひかれ、

子供たちがそのうえに、音符のごとくちらばり、

リトミックのように舞うシーンだ。

 

ルノワールフェリーニタルコフスキーなどを敬愛する

クストリッツァ監督ならではの、

なにがしの映画からの引用かもしれない、と思った。

そうだとしたら、いつかひょっこり、

オマージュを捧げたその映画に出逢えるだろうか。

そうでなくとも、荒廃した土地に奇跡的に咲くタンポポのような、

このささやかなシーンは、鮮明に記憶に残った。

 

故国の喪失をとおして監督が抱いた希望、

殺し合いにそそいできた情熱を、

よりよい目的のために使ってほしい、という希望が、

タンポポの綿毛のように、風にのって飛んでゆき、

花を咲かせるといいと、心から願う。

戸田奈津子 | 午前十時の映画祭

「第三回 新・午前十時の映画祭」のチラシをみつけた。

 

「午前十時の映画祭」は、

名作・傑作を1年間にわたり週替わりで午前十時に上映する、

映画演劇文化協会主催の映画祭だ。

2010年より開催され、今回で通算6回を数えるそうだ。

 

上映館を拡大しつつ6年継続しているということは、

支持を得ているということだろう。 

2012年にベネックスの「DIVA」を観たが、

ほどよく賑わっていたことを思い出した。

 

 

6人の作品選定委員のうちのひとり、

戸田奈津子氏のコメントが愉快だ。

 

『 呼び名は同じでも、実質がすっかり

変貌してしまった昨今の「映画」。

その素晴らしさを大画面で次世代に伝える

「午前十時の映画祭」はますます

その存在価値を高めるものになっている。

若い方々、どうだ、これが「映画」なのだ! 』

 

 

映画字幕翻訳者として多くの映画に携わってきた、

1936年生まれの戸田氏の発言は、頼もしい。

 

ずいぶん前に講演を拝聴したことがあるが、

その佇まいにはよどみがなく、

ちゃきちゃきとした感をうけた。

 

30代後半にあたる筆者が、

「若い方々」に該当するかどうかはあやしいが、

いずれにしても、

大先輩からにじみでる晴れ晴れとした自負心が、

なんとも魅力的に映ったのであった。