悪魔メフィストフェレスの存在は興味深い。
「ファウスト」は、
ゲーテが20代で初稿を執筆して以来、
第一部は1808年/著者59歳、
第二部は死後翌年の1833年に出版されたという、
生涯を通じてしたためられた大作だ。
ごく一部の散文を除いて
全12111行の詩で構成されている物語のなかで、
ことあるごとに思い返す、第一部・書斎の場面での
メフィストフェレスの自己紹介/詩1335‐1336について、
さまざまな邦訳を、現行版を参照しつつ、
できるかぎり初出本をあたってみた。
ファウスト博士から「あなたはなにものか」と問われ
メフィストフェレスは答える。
我は夫₍か₎の恒に悪を計りて、而も恒に善を生ずる力の一部なり。
訳:高橋五郎 前川文栄閣/1904年
常に悪を欲し、却て常に善を為す、彼力の一部です。
常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の一部分です。
つねに悪を欲してつねに善をなす力の一部分です。
常に悪を欲し、かえって常に善をなすあの力の一部です。
訳:高橋健二 河出書房/1951年
常に悪を欲し、常に善をなす、あの力の一部分です。
訳:高橋義孝 新潮社・世界文学全集1/1962年
つねに悪を欲して、しかもつねに善をおこなうあの力の一部です。
いつも悪をのぞんで、しかも、いつも善をつくる、あの力の一部です。
私は常に悪を欲し常に善をなすあの力の一部分です。
たえず悪を欲して、しかもたえず善を行なう、あの力の一部です。
例の、問題の力の片割れです、いつも悪を望んでいて、たえず善をなす力です。
訳:小西悟 大月書店/1998年
私はあの力の一部分 常に悪を欲し常に善をなす あの力の一部分です。
悪を欲しながら、いつも善をなしてしまう、あのおなじみさんの一人です。
悪いことをしたいと思っているのに、結果的に善いことばかりしてしまう。
わたしは、そんな「力」の、ほんの一部分なんだよね。
あの力の一部なのです。
いつも悪いことをしようとして、結局良いことをしてしまう。
訳:和田孝三 創英社/2012年
記念すべき初邦訳から現行の主要な邦訳を
およそ年代順に並べてみたが、
大勢に影響はないものの、微妙にニュアンスが異なり、
それぞれの解釈や哲学を垣間見るようで興味深い。
ときおり
善悪を逆さまに思い浮かべることがある。
つねに善を欲し、かえって常に悪をなす、あの力の一部です。
善と悪は一対で協働し、
より大きな秩序に還元されるということだろうか。
勧善懲悪はナンセンスとでもいいたげな、
ゲーテの一筋縄ではいかない精神に魅せられる。