岡本太郎の「沖縄文化論 忘れられた日本」を読んだ。
多岐にわたり創作をくりひろげた芸術家が、
1960年に雑誌「中央公論」に連載した作品だ。
氏がはじめて沖縄を訪れたのは、
アメリカ統治下にあった1959年秋のおよそ半月で、
ひとつの恋といえるほど、沖縄に夢中になったという。
かつてパリ大学・ソルボンヌ校に学び、
視野の広い、明晰なものの見方・考え方や、
愛に基づいた、偏りすぎることのない、
批判精神や自己分析が、興味深い。
沖縄がかつて直面した、
そしていくつかは今も直面している、
気象条件である台風、大戦末期の地上戦、
基地問題などの、過酷な歴史と運命。
そのなかで生まれ、土地に根付いている、
固有の歌や踊り、また信仰のあり方に、
沖縄文化の特性を見出し、
そしてそこに忘れられた古来の日本が生きているという、
斬新で大胆な文化論。
特に沖縄本島に程近い久高島では、
なんのモニュメントもない、一見するところ空地のような、
御嶽/うたきという聖地に衝撃をうけ、その清浄さ・潔さを、
物質にまつわる不浄さ・不潔さと対比する感受性は、
現代のわたしたちに親しいものではないだろうか。
一方で、失われゆく無形文化を嘆くばかりの、
当時の沖縄への物足りなさをも、
今いったい何を生み出しているのか、と指摘する。
また、本土における花柳界の舞踊や歌舞伎、
わびさびの文化や形式主義などを通じて、
事あるごとに言及される本国への批判は、
鋭く的確だ。
2008年にはじめて中公文庫版を読んでから、
再読する度に、新たな感銘を受けているが、
今回もっとも印象にのこったのは、
人間の純粋な生き方というものがどんなに神秘であるかを
伝えたかった、という一文だ。
およそ半世紀前に、氏が沖縄との出逢いから、
日本および自己を発見した道のりは、
現在のわたしたちにも、多くの示唆を与え、
また自分自身のこととして、
いきいきと鳴り響いてくるのだった。