METとパブリックドメイン

先日、朝日新聞にて

ニューヨークのメトロポリタン美術館

パブリックドメイン著作権が無効となった所蔵作品の

オープンアクセスに関するポリシーを変更したという記事を読んだ。

 

1870年設立のメトロポリタン美術館は、

過去5000年におよぶ世界各国の文化遺産

およそ150万点所蔵している巨大なミュージアムだ。

それらのうちパブリックドメインと認識される作品は

37万5000点超になるという。

 

昨今のデジタル時代に共振するように、

数年前2014年5月16日の声明では、

所蔵作品の高解像度デジタル画像をインターネット上に共有し、

パブリックドメインの作品については

学術的あるいは非営利利用に限り無料で使用可能と宣言された。

美術館のホームページでは、

著作権が有効なコレクションの画像とともに、

およそ20万点のパブリックドメインの作品がアップロードされ、

フリーダウンロードできるようになっていた。

 

続いて今年2017年2月7日にはポリシー変更の発表があり、

学術的および非営利利用という制限が解かれ、

誰でもどのような用途でも自由に無料で使用でき、

商業利用や加工もフリーという声明だった。

 

朝日新聞の訳では、

「所蔵作品を、学んだり楽しんだりしたいと思っている

すべての人たちに、作品へのアクセスを可能にすることが

私たちの使命だ」と語られているとのこと。

 

METに先駆けて、

オランダ・アムステルダム国立美術館などでも

同様の取り組みを実地しているそうだが、 

想定外の、望ましからざる使用や、

心ない加工がなされる可能性を容認したうえでの

大英断だろう。

 

なんてすばらしいのだろう。

世界は確実にポジティブな方向へ進んでいるという

喜びと感動を覚えたのだ。

 

ニューヨークへは未訪だが、

ホームページよりArt→Collection→Public Domainと訪ねてみる。

ふとHokusaiをサーチすると、現時点で512点が抽出され、

すみだ北斎美術館ロゴマークに転用されている

富嶽三十六景 山下白雨/さんかはくう」が3点所蔵されていた。

また同シリーズの名作「神奈川沖浪裏」は2点、

同じく通称赤富士「凱風快晴」は3点所蔵され、

はっきりと刷りの異なりが認められる

浮世絵版画の奥深い世界を垣間見るようで、興味深かった。 

 

新しい技術や環境により、

自ずと新しい在り方が立ち上がってくるのは自然なので、

今までがそうであったように、これからも、

人と美術・芸術との関係は大きく変化してゆくのだろう。

いずれにしても楽しみだ。

旧白洲邸 武相荘

ゴールデンウィークの中日に、

東京町田市にある

旧白洲邸・武相荘/ぶあいそうへ行った。

 

白洲次郎・正子夫妻の旧邸宅は、

新宿より急行でおよそ30分、

小田急線・鶴川駅より徒歩15分ほどの小高い丘のうえに、

こんもりとした緑につつまれて、穏やかに佇んでいた。

 

太平洋戦争をまたぎ政治経済の分野において

大役を果たした白洲次郎/1902‐1985と、

日本の伝統芸能および工芸に通じ、

文筆家として活躍した白洲正子/1910‐1998は、

1942年に鶴川村の養蚕農家を農地つきで購入し、

戦争の激化を見越して翌年に移り住んだという。

次郎氏によって命名された「武相荘」とは、

武蔵と相模の国境であるという地理に、

無愛想をかけての愛称ということだ。

明治初期に建てられたと推定される母屋は、

立派な茅葺屋根の木造家屋で、

牛がすんでいた広い土間を板敷へ、

後にはタイル敷へと手直しし、

居間兼応接間として使用したという具合に、

適宜改築を施されながら、60年近くの年月を

白洲家とともに歩んだ、年季のはいった日本家屋だ。

主亡き後2001年より、当時の面影をそのままに

ミュージアムやレストランとして一般公開され、

春夏秋冬の季節展が行われているという。

 

今季「武相荘の春展」では、

よく知られる次郎氏の遺言書をみることができた。

和紙に墨で「一、葬式無用 一、、戒名不用」とは、

なんと簡潔で気持ちのよい遺言だろう。

また、北側に位置する

こじんまりとした正子氏の仕事場や本棚では、

立入りも撮影も禁止の蔵書をしげしげと一覧した。

青山二郎小林秀雄河上徹太郎の著作は勿論のこと、

南方熊楠宮本常一折口信夫今西錦司といった

民俗学生態学系の蔵書の多さが印象的だった一方で、

稲垣足穂坂口安吾の著作をみとめて意外性を感じ、

熊谷守一の書画集や著作をみつけては喜んだ。

かつての居間や、奥座敷/寝室には、

コレクトされ実用されていたであろう陶磁器や

染織物が展示されていたが、

いかにも魯山人でなくてもいいような

地味でさりげない魯山人作の陶器に、

この家の主をみたような気がした。

 

南東へ向いた縁側からは、邸内の竹林が眺められ、

折よく筍がニョキニョキと顔を出していた。

「あぁ、こんなにおおきくなってしまって、

もったいない、食べたいなぁ」と内心思う。

聞けば併設のレストランで

庭の筍を用いた料理を提供しているそうなので、

採りきれないほどなのだろう。

散策路となっている小径をくるっとひと回りして、

樹々のなか、土のうえを歩き、深呼吸をする。

 

木立のなかにひょっこりと家屋が佇み、

どこか山荘のような、

超俗的な世界が展開されている様には、

正子氏の代表作のひとつの「かくれ里」という言葉が

よく合うように思えた。

 

よく晴れた透明な陽光がきもちのよい日で、

適温の心地よい日和に寛ぐように、

黄や白や黒色の蝶が、ひらひらと飛び回っていた。

次郎氏や正子氏が、ひととき蝶の姿をかりて

遊びにきても、不思議でないような気のするほど、

お二方の気配に満ちた、異次元の武相荘だった。

 

まろやかに世俗の世界へと舞い戻った数日後、

日本橋三越百貨店で開催されていた

白洲次郎と正子の愛した武相荘のもてなし」展へ訪れた。

武相荘所蔵のご夫婦ゆかりの展示品と併せて、

和洋の骨董品が展示販売されるという企画展で、

江戸期・古伊万里白磁や染付、瀬戸の麦藁手などを

直接手にして鑑賞することができ、有意義だった。

なかには室町時代の越前および信楽の陶器も並び、

お値段を知ることもまた楽しかった。

 

今年の5月5日は、端午の節句立夏でもある。

陽気が満ちて、活動的になる季節だけれど、

白洲両氏の著作も読みたい、連休の後半だった。

すみだ北斎美術館

染井吉野が葉桜になりかけ、八重桜が満開に近い頃、

昨年11月にオープンした、すみだ北斎美術館へ行った。

 

江戸時代後期の絵師・葛飾北斎/1760-1849の

ほぼ生誕の地に新設されたという美術館は、

JR両国駅からほど近い緑町公園の一角にあった。

一説によると北斎

89年の生涯に93回も引っ越しをしたそうだが、

そのほとんどを墨田の地で過ごしたという。

 

画家ゆかりの地に建つ

建築家・妹島和代/せじまかずよによる現代的な美術館は、

様々な遊具が点在する公園と交わっていることが特徴的で、

地上4F・地下1F建ての中規模の建物は、

下町の景観にほどよくとけこんでいるという印象だった。

銀色のメタリックなのっぺりとした外観は、

おおよそ立方体のシルエットだが、なんとも不定形で、

所々に鋭角なスリットやカットが施され、

特にエントランスにあたる1F部分は、まちまちに4分割されている。

そのトンネルのような縦長三角形の割れ目から内部へ分け入ると、

透明なガラス壁の向こうに、それぞれ、

美術館の入口・図書室・講義室・バックヤードが配され、

それとなく四方/東西南北へ通り抜けられるよう設計されていた。

 

その日は常設展示室/4Fの一角のみのオープンで、

照明を落とした漆黒の展示室には、北斎の画業を一覧するべく、

所蔵作品の高精度レプリカや、

詳細なタッチパネル式の解説が並んでいた。

同行した友人は「個人コレクターレヴェルの作品で物足りない」と

早々に退室したようだが、身近なようで疎遠な画家について、

理解を深める時間は楽しかった。

また英文の解説を熱心に読んでいる外国の人々が印象的だったが、

彼らには、母国の我々には見えないものが

見えているのかもしれないと思った。

 

B1Fはコインロッカーとお手洗いに充てられ、

特にお手洗いは館内の規模にくらべて

ずいぶんとゆったりした造りであることに共感した。

企画展示室は

3Fおよび4Fの一角に配されているようなので、

またいずれ来館したい、新鮮な建築空間だった。

 

その日は風の強い日だったが、

向かいの公園では親子連れが所狭しと遊び、

週末らしい賑わいをみせていた。

はじめて訪れた場所だったので、

もともと人の集まる公園だったのか、

美術館の存在によって公園も活性化されたのかは分らなかったが、

桜の花吹雪が舞うなかで、子どもたちの歓声や泣声は、

まるで幸福の象徴のように感じられた。

 

人間の営みの本質は、

北斎の生きた江戸時代も、いつかの未来も、

そう変わりはないのだろう。

同時に、刻々と変化する現代の様式を楽しむこともまた

かけがえのないことなのだろう。

美についての覚書

純粋で美しい者は、

そもそも人間の敵なのだということを忘れてはいけない。

 /「天人五衰」著・三島由紀夫

 

 

美は、ただそれだけで、醜いこの世への侮蔑です。

美は誰にも愛せぬものです。

 /「天井桟敷の人々」脚本・ジャック・プレヴェール 訳・山田宏一

 

 

人は美を求めやうと心掛けて

その中から各自の偏見を引出してゐる。

 /「青山二郎全文集」著・青山二郎

 

 

美なんて非常にすぐそばにあるもので、

人間はそういうものに対して非常に自然な態度がとれるものなんですよ。

生活の伴侶ですから。

 /「小林秀雄対話集」より小林秀雄

 

 

美しいものは易しそうな様子をしている。

公衆が軽蔑するのはこれだ。

 /「雄鶏とアルルカン」著・ジャン・コクトー 訳・佐藤朔

 

 

「美」というものはたった一つしかなく、

いつでも新しくいつでも古いのです。

その「つねなるもの」は、しかく大きくも小さくもなります。

子供の描いた絵と、立派な芸術家の仕事では、

美しさにおいて変りはなくとも、大きさにおいて違います。

人間の美しさも、無智な者と智慧にあふれた美しさと、

何れが上というわけではありませんが、違います。

 /「たしなみについて」著・白洲正子

 

 

美ってものは、見方次第なんだよ。

 /「愛する言葉」より岡本太郎 

古唐津 | 出光美術館

3月の終わりに、有楽町の出光美術館

唐津/こがらつ展を観た。

 

唐津とは、桃山時代/16~17世紀にかけて

九州の肥前/佐賀および長崎地域で焼かれた焼き物で、

戦国大名が連れ帰った朝鮮陶工たちを起源とする

近世初期の窯場のひとつだ。

 

展覧会では、朝鮮陶器というルーツを経糸とし、

同時代に隆盛した国内の桃山陶器などを緯糸として、

唐津を立体的に読み解く展示構成が明快だった。

 

およそ180点の品が一堂に会し、

唐津の草創期より爛熟期にかけての、

奥高麗・斑唐津・朝鮮唐津・絵唐津・二彩唐津などに分類される

様式の推移が時系列に展開され、見応えがあった。

初代・出光左三によるコレクションならではの企画展だろう。

なかでも京・大阪を中心とした茶の湯のネットワークにより

求められた同時代性あるいは共時性というテーマが興味深く、

志野・織部などに代表される桃山陶器や、

六古窯に数えられる伊賀・備前などの陶器に宿る日本独自の美観が、

ほがらかに反映された器量が、うれしい。

 

また、奥高麗/おくごうらいと呼称される

無文様の淡いびわ色・朽葉色の茶碗がとくに美しかった。

江戸期には朝鮮産と考えられていたという

初期に多く焼かれた井戸形や熊川形の茶碗だが、

そのシンプルな形や釉色の奥行きに魅せられて、

心も時間も透き通るようだった。

 

全体を通して、

近現代における作家性の表現というような意図は見当たらず、

いずれの焼き物も、健やかで穏やかだ。

時代的な技術の未発達さは仇とならずに、

どこかのびのびと、ほのぼのと、あっけらかんとしている。

秀吉の朝鮮出兵や、中国への出兵計画など、

東アジアへの進出を視野にいれた当時の楽観的な雰囲気を

少なからず反映している、ともいえるのかもしれない。

そして、伊万里/有田での磁器の誕生はもう間もなくだ。

 

展覧会終了間際であったためか 、

会場は多くの人で賑わっていた。

どちらかというとシニア色に染まっていたのは、

骨董にまつわる地味なイメージのためだろうか。

最後にもう一度、会場を一覧し、

文士・小林秀雄が所持していたという茶碗と対峙する。

かつて20代の混沌とした頃に最も愛読した評論家で、

作品を通して触れたその稀有な精神から、

多くを学んだことを反芻した。

口径15.2㎝の程よい大きさの茶碗は、

口縁のすぐ近く、器の上部に鉄絵で施された

抽象的なほどに単純化された鳥/雁の文様が、

どことなくアンバランスな印象を与えた。

土味や下絵を活かす透明な釉薬に包まれて、

何か気になる、不思議なコンポジションの絵唐津だった。

 

美とはなんであろう。

 

小林秀雄ではないけれど、久しぶりに、

コンセプチュアルアートとは別の次元の、

概念的な命題を探求したくなった展覧会だった。 

さくら 2017

今年も、ベランダの啓翁桜が開花した。

 

一年ぶりに、

淡いピンク色の花に逢えて、うれしい。

 

さくらの花の塩漬けをつくってみたいけれど、

咲いている最中の花を摘むことに、

なかなかためらいを感じてしまうのです。

 

 

さくら

sagacho-nikki.hatenablog.com 

 

木山捷平 | 井伏鱒二 弥次郎兵衛 ななかまど

木山捷平/きやましょうへいの晩年の短編集

井伏鱒二 弥次郎兵衛 ななかまど」を読んだ。

 

備中/岡山出身の木山捷平/1904‐1968は、

終戦間際の1944年12月に40歳で満州へ徴用され、

中国・長春で農地開発公社の嘱託に就き、

ほどなく現地召集をうけて応召したのも束の間、

敗戦をむかえ、同地で明日をも知れぬ難民生活を送り、

1946年8月に命からがら帰国するという、戦争体験をもつ作家だ。

それらが後に長編「大陸の細道」および「長春五馬路」へと

結実し世に評価をうけたことは興味深いが、

本作/講談社文芸文庫に収録されている短編10作および

回想記2作にも、戦争の影は色濃く反映されている。

 

1956年/小説公園に発表された短編「骨さがし」は、

とりわけユニークでいきいきとした作品だ。

戦死した夫の遺骨を探すために広島から上京した

面識のあるようなないような若い未亡人と、

作家の分身のごとき中年男が、

骨さがしに東京の街へ繰り出す珍道中を描いた物語だ。

郷里で小耳にはさんだという、

戦死者の遺骨を売る店があるのは確か名前に田のつく町、

という真偽の定かではない心細い手がかりをもとに、

飯田橋から靖国神社を経て、神田須田町の闇屋へと辿りつくものの、

どさくさ紛れにすべては水の泡と帰し、

宙に投げ出されたような、コミカルな余韻が漂う。

  

1965年/群像に発表された「山陰」は、

山陰地方をひととおり回った旅の最後に立ち寄った

ラジウム温泉として名高い三朝温泉での数日を描いた、

虚実の入り混じったような旅行記だ。

なかでも、土産物屋で偶然手にした絵葉書をきっかけに

三徳山/みとくさんの国宝・投入堂/なげいれどうへ

訪れるくだりを、遠足気分で楽しく読んだ。

三徳山は、山岳仏教霊場として

706年/慶雲3年に開山された標高約900mの霊山で、

温泉街を流れる三徳川のおよそ7㎞上流に位置する。

三徳山のふもとの三佛寺/さんぶつじは、

山全体を境内とする天台宗の古刹で、

幾つものお堂やお像などを継承しているそうだが、

なかでも標高520mの断崖絶壁に建つ奥の院投入堂は、

平安期建立のアクロバティックなその建築により、

ひときわ異彩を放っている名所のようだ。

温泉街から三佛寺までバスでおよそ20分、

宿屋で借りた和装と下駄履きで訪れたため

下車後まもなく足をくじいたという筆者は、

往復に2時間かかるという投入堂までの参拝登山を諦めて、

寺の山門付近をうろうろとしてから

茶屋に入り、ビールと名物の三徳豆腐を賞味し、

参拝登山用の草鞋を土産にするのだが、

なにかとユーモラスな描写や展開が、味わい深い。

 

1964年/還暦の頃に発表された2つの回想記

太宰治」と「井伏鱒二」では、

戦前に所属した幾つかの同人誌や、

文士の集まりである阿佐ヶ谷会のエピソードが魅力的だ。

文学はもとより、酒や将棋などを肴にしての

若かりし頃の交流奇譚だが、

時代の雰囲気や、新鮮な人物像を伝えながら、

同時に筆者の軌跡も浮かび上がるようで、興味深かった。

 

木山捷平が描くのは、

市井に生きる一見すると何気のないような人々だ。

けれどもそれらの人々が、

そう見えるほど何気なくはないこと、場合によっては

切実な大小のドラマを生きていることに、

時にどきっとさせられる。

いずれの人々もどこか健気で、

どのような事情や出来事によっても、

くさったり、いじけたり、悪びれたり、

何かにかぶれたりもしないところに、心を動かされる。

また、私小説風のその作品の主人公の

筋金入りのマイペース感は、なんだか立派でもある。

 

どうしてか、冬に読みたくなる作家なのだが、

透徹した眼差しによる是も非もない精神が、

冷たく乾いた冬の空気と似ているからなのかもしれない。