佐賀町日記

林ひとみ

映画 ココ、言葉を話すゴリラ | バーベット・シュローダー

「ココ、言葉を話すゴリラ/Koko le gorille qui parle」を

銀座メゾンエルメスのル・ステュディオで観た。

 

おもにフランスおよびアメリカで活躍する

映画界のプロデューサー・監督・俳優である

バーベット・シュローダーが

1978年に監督したドキュメンタリー作品で、

手話をあやつるローランドゴリラとヒトとの

種をこえた交流あるいは研究の物語だ。

 

1971年にサンフランシスコの動物園で生まれたゴリラのココは、

生後まもなく手話を習得しはじめ、

撮影当時、350の単語をつかいこなし、

500以上の単語を理解することができたという。

スタンフォード大学で心理学を専攻していたペニー・パターソンは、

心理学者ベアトリクスとアレンのガードナー夫妻の研究のもとに

ココに手話を教えているが、

その交流は心からのもののようで、感動的でもある。

やがて動物園からココの返却を求められるが、

1976年にゴリラ財団を設立して研究・保護を続け、

現在も45歳になったココとパターソン博士との

運命的な友情は続いているようだ。

 

ココのコミュニケーションはときにユニークで興味深い。

硬くなったパンを「石のクッキー」、

パイプでたしなむ葉タバコを「パイプフード」、

ネコの写真をみて「トラ」、と表現をする。

 

手話で「くすぐって」と自分の体を指して要求し、

くすぐると大喜びをし、「もうおしまい」と告げると、

「もっとくすぐって」と催促する姿は、

まるでヒトの子供のようだ。

 

それらの類まれな交流に、

ほほえましさと同時に、ある種の違和感を覚えたのは、

ひとつには、ココが声を発することなく、

手話という沈黙のコミュニケーションをとる一方で、

パターソン女史は手話と同時に話し言葉を用いて働きかけるため、

一方的・威圧的に感じられたということがあるかもしれない。

それは研究の本質と通じているともいえるだろう。

 

また、追いかけっこをしようと誘うココと、

それらに応じきれないヒトとの、

身体能力のギャップも、印象的だった。

 

車にのり、郊外の広い丘に遊びに行く。

手綱を解き、のびのびと樹々の間を

アクロバティックに動き回るココの姿は、野生そのものにみえる。

やがて、帰るために車へ向かう人々のあとを、

その自由意思でついてゆき、自ら乗車するココの後ろ姿は、

ほとんどヒトと同化している。

 

ゴリラのココの幸福は

私たちヒトの幸福の尺度では計れないが、

それでも彼女が幸福であることを願わずにはいられない、

ニュートラルな、やさしい映画だった。

本 長崎原爆記・死の同心円 | 秋月辰一郎

1945年8月9日に長崎で原子爆弾を体験した

医師・秋月辰一郎/あきづきたついちろうの著作、

「長崎原爆記」と「死の同心円」を読んだ。

 

福島の原子力発電所の事故以来、

思いがけず人工放射線が身近なものとなり、

ふとしたきっかけで読みはじめたが、

あらためて原爆および被爆の事実に圧倒された。

 

長崎市に生まれ育った秋月辰一郎/1916‐2005は、

爆心地から1.4㎞にある浦上第一病院で

勤務中に被爆する。幸い無傷だったため、

廃墟となった病院で負傷者の救護・治療に奔走し、

戦後まもなく再建し名を改めた同病院/聖フランシスコ病院の

院長を永年つとめながら、長崎の平和運動を先導した人物だ。

 

「長崎原爆記」は

1945年8月9日からの一年間にわたる原爆白書で、

1966年に弘文堂から刊行されたのち、久しく絶版であったが、

1991年に日本図書センターの「日本の原爆記録」全20巻のうち第9巻に所収、

その後2010年に同社の平和文庫に収められ、読み継がれている作品だ。

「死の同心円」は

「長崎原爆記」に大幅な加筆と訂正を加え、まとめなおした作品で、

1972年に講談社から刊行され、2010年に長崎文献社から復刊されている。

 

少なからず重複し、共鳴し合うふたつの作品では、

原子爆弾による被害の実態が、医師の視点から記録され、

この世のものとは思えぬおそろしさに、気が遠くなる。

想像を絶する、71年前の夏の日の出来事だ。

また、恩師のひとりで「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」などの

著作で知られる医学博士・永井隆との因縁や、

仏教/浄土真宗キリスト教カトリックとの信仰上の煩悶が

透徹したまなざしで語られ、心に響く。

 

一方、生来の虚弱と結核体質を克服すべく、

明治の医師・石塚左玄/いしづかさげんの食養学を

桜沢如一/さくらざわゆきかずが発展・提唱した

現在のマクロビオティックの理論を学んでいた秋月医師は、

それらを独自にアレンジしたミネラル栄養論/秋月式栄養論を考案し、

放射能症・原爆症に効果的であるとして、

塩と玄米と味噌を積極的に摂り、

砂糖を避ける食養を実践していることも、興味深い。

  

終生、長崎の地に在りつづけた秋月医師は、

1992年に核戦争防止国際医師会議IPPNW終了後、

喘息の発作で倒れてから、13年間の昏睡状態を経て、

2005年/89歳で永眠した。

 

今日、地上に生きつづける私たち人類は

原子力との新しい関係を構築中だが、

よりよい未来への希望を失わず、

ミネラルの豊富な塩と玄米とお味噌汁を食べ、

かけがえのない命に感謝したい、2016年の8月だった。

建築 21世紀キリスト教会 | 安藤忠雄

渋谷区広尾に2014年に建てられた

安藤忠雄氏設計による「21世紀キリスト教会」へ見学に行った。

 

日曜日11時からの礼拝に参加する。

50名ほどだろうか、比較的若い人々を主に会場は埋まり、

前半30分は讃美歌、後半30分は講壇にあてられ、

この日は「尊敬」と「天国の文化」について、新約聖書を読み解く。

 

プロテスタントの増山牧師は、

かつてビジネスマンであったという異色の経歴からも

聖俗に通じ、広く人の心をつかむ、

明るく親しみやすいお人柄という印象だった。

時代に寄り添った教会の在り方を模索する様に

共感するところが多かった。

 

教会の建物は、コンクリートの打ちっぱなしで、

上からみると二等辺三角形に設計されていることが特徴的だ。

1Fに礼拝堂やオフィスが、

B1にカフェや祈りの部屋などが配された、牧師私設の建物だそうだ。

礼拝堂は木のぬくもりが感じられる空間で、

東を向いた二等辺三角形の先端には、

建物全体をつらぬいてガラスがはめこまれ、外光が穏やかに射し込んでいる。

ごく細い象徴的な十字架が、背面からその自然光に照らされて

宙に浮かびあがるような、現代的な美しい礼拝堂だった。

 

建物はその内部での営みに働きかけるだろうし、

内部での営みは建物に生命と輝きを与えるだろう。

 

人々の拠り所として、

建物も教会も信仰も、すばらしく機能していた。

 

 

聖書を手に、よく知られるヨハネ福音書の冒頭をめくる。

「初めに、ことばがあった。

ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

 

また、十字架にかけられたイエスが、

自分を磔刑する者たちについて言及したと伝えられる、

慈悲深くも絶望的な、ルカの福音書23章34節の言葉をひく。

「父よ。彼らをお赦しください。

彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

 

建築家とその作品を通して、 

図らずも、様々な祈りに触れた安息日だった。

大久保混声合唱団 第40回定期演奏会

大久保混声合唱団の第40回定期演奏会

勝どきの第一生命ホールで聴いた。

 

ほぼ満員の客席は、創立59年という合唱団の

厚みのある歴史を物語っているかのよう。

演奏会は4つのステージで構成されていたが、

とくに後半のふたつのステージを楽しく聴いた。

 

明るい歌声と、白を基調とした衣装が清々しい前半から

休憩をはさみ、後半の「近代日本名歌抄」は、

大正から昭和初期に親しまれた歌謡曲や童謡を

信長貴富/のぶながたかとみが編曲した作品群だ。

本ステージでは「あの町この町」「宵待草」「ゴンドラの唄」

「青い眼の人形」「カチューシャの唄」が演奏されたが、

リラックスした、のびのびとした歌唱に心が和む。

様々な実人生が集い交わるアマチュアの合唱団の、

歌うことを生業とした歌手たちには持ち難い

ある種のリアルさを演奏から感じることができ、有意義だった。

鮮やかな編曲により新しい息吹が吹き込まれた大衆歌は、

黒澤明の映画「生きる」の「いのち短し 恋せよ乙女」とは異質の

明朗な歌として印象にのこった。

 

最終ステージでは、

1983年生まれの作曲家・面川倫一/おもかわのりかずに委嘱された

組曲「サムのブルー」が初演された。

朝日新聞折々のうた」で広く知られる詩人・大岡信

若かりし頃の、宙を舞うような熱気あふれるテキストに寄り添った、

骨太でまっすぐな、衒い/てらいのないサウンドという印象だ。

作曲家が合唱団を理解し、誠意をこめて作曲していること、

合唱団が作品を愛し、大切にしていることが伝わってくる

幸福なコラボレーションだった。

 

新しいものがあちこちで、次々とうまれている。

それらが、破壊ではなく建設を、

疑いではなく肯定を、悲しみの先の喜びを希求する、

純粋で強度のある創造であると、しあわせだ。

 

そろそろ、今年も蝉が鳴きはじめた。

蝉たちの共鳴のすばらしさといったら。

たまたま見たふたつに割れた胴体は、

ほんとうに楽器のように空洞だった。

夏の名歌手たちは、なにを歌っているのだろう。

彼らの言葉が聴けたらいいのに。

旧古河庭園と洋館/大谷美術館

陽射しはつよいが風のきもちよい午後、

北区西ヶ原の旧古河庭園と洋館/大谷美術館へ行った。

 

国指定名勝として東京都が管理している庭園は

バラの見どころとして知られ

春と秋のシーズンは混雑しているようだが、

その日は休日にもかかわらず、

ゆったりとした時間が流れていた。

 

高低差のある敷地30780㎡は

台地・斜面・低地にまたがる地形を活かした

立体的で彫塑的な庭園という印象だった。

小高い丘に建つ石造りの洋館から見渡す

斜面に配された洋風庭園と、低地にひろがる日本庭園は、

それぞれが自律しつつ、ほどよく調和していた。

かつては借景として、

庭園のはるか彼方に富士が望まれたときき、

目を閉じて、イメージしてみる。

 

明治の頃には、

政治家・陸奥宗光/むつむねみつの邸宅であったそうだが、

陸奥氏のご次男が養子にでた際に、その養家である

足尾銅山などの事業を成した財閥・古河家の土地となったという。

 

建築家ジョサイア・コンドル設計による洋館/大谷美術館は、

三代目当主にあたる古河虎之助が1917年/大正6年に建てたもので、

関東大震災や戦争をくぐりぬけ、築99年になるにもかかわらず、

床が軋むことも、くたびれた雰囲気もなく、良好に保存されていた。

所有権をめぐる複雑な事情から、戦後30年ほど放置され、

現在は洋館にかぎり大谷美術館が管理・運営し、

見学を制限していることも幸いしているのかもしれない。

 

イギリス人のジョサイア・コンドル/1852‐1920は

25歳で招聘され来日して以来、生涯を日本で過ごし、

近代建築の創成期に重要な仕事をした建築家だ。

現存する旧岩崎邸や、レプリカではあるものの三菱一号館などで

その仕事に触れることができるが、

旧古河虎之助邸はコンドルの遺作として、

また洋館2Fの居住空間にユニークに和室が組み込まれている構造が

当時の文化状況を偲ばせるようで、とても興味深い。

 

同じくコンドルの設計による洋風庭園と、

京都の庭師・植治こと

七代目小川治兵衛/おがわじへいによる日本庭園を堪能し、

現在は喫茶室として開放されている

洋館1Fの応接室・小食堂・大食堂のうち、

深紅のビロードの壁紙が華やかな大食堂で、ひと息つく。

 

さわやかな風が北から南へ、丘のうえの洋館を通り抜ける。

どこかイングマール・ベルイマンの映画「叫びとささやき」の

赤の部屋を彷彿とさせる幻想的な空間のなかで、

しばしまどろむ、盛夏の昼下がりだった。

展示 フリーダ・カーロと石内都

七夕のころ、

石内都展「Frida is」を資生堂ギャラリーで観た。

 

1947年生まれの写真家・石内都/いしうちみやこは、

かつての生者たちの遺物を女性らしい繊細さで記録した仕事、

近年の「Mother's」や「ひろしま」「Frida by Ishiuchi」などで

よく知られている。

 

本展は

2012年の作品「Frida by Ishiuchi」と

その続編にあたる2016年の「Frida Love and Pain」からの

31点の作品/写真で構成されていた。

 

ギャラリーの壁面はそれぞれ、

原色の青・赤・黄、そして鮮やかなすみれ色にペイントされ、

メキシコの女性画家のヴィヴィットでカラフルな遺品たちは、

白いフレームに縁どられた写真のなかで、なまめかしく息づいていた。

 

フリーダ・カーロ/1907‐1954年は

もちまえの強く類いまれなる個性から、

幼年時に患った感染症ポリオによる足の障害や

10代後半で遭遇したバス事故による後遺症および度重なる手術に、

また画家である夫ディエゴ・リベラとの愛の確執に、負けていない。

 

ポリオのために成長が異なる左右でサイズの違う靴や、

カラフルな素描で埋め尽くされた胴体のギブスは、

まるで彼女の代名詞であるかのような圧倒的な存在感だ。

些細な身の回りの小品、

体温計・空き瓶・割れたサングラスなどからも

ただならぬ気配が漂うが、

それは表現する者と観る者の双方が

大小なり彼女の人生を共有しているからなのだろう。

 

ふと、コンセプチュアルな表現にときにみられる

非自律性という弱点あるいは美点を意識した。

不在の被写体であるフリーダ・カーロの人生を知らぬとき

人は何をどう観てよいのかと戸惑うかもしれない。

あるいはよく知っている場合、感慨は密やかでありながら、

またそのためにいっそう甘美であるかもしれない。

 

 

7月7日、

東京の夜空は、日中の晴天から一転し、

どんよりとしたあつい雲に覆われていた。

織姫と彦星は無事に再会できただろうか。

 

星のひとつとなったフリーダ・カーロ

地上の痛みから解き放たれて

幸福な愛に恵まれていますように。 

六等星 

7月10日は参議院選挙の投票日。

選挙公報に目を通すものの、考えがまとまらない。

 

無性に、漫画家・手塚治虫

晩年の傑作ブラック・ジャック・シリーズの

短編「六等星」を読み返したくなった。

 

ある夏の夜、

ブラック・ジャックピノコのいた

花火大会の会場で、花火の誤爆事故が起こる。

その帰路、夜空を見上げたふたりの上には、

一等星から六等星までいくつもの星が瞬き、

かすかに輝く六等星にさそわれるように、

ある映えない医師・椎竹/しいたけ先生の挿話が語られる。

病院の院長が急死した真中病院では、新たな院長の座をめぐり、

山崎豊子白い巨塔のような駆け引きが繰り広げられていたが、

控えめで目立たないが人のいいベテランの椎竹先生は、

じっとだまって事の成り行きを見守っていた。

やがて院長選のための汚職が表沙汰になり、主だった医師達が逮捕されるなか、

冒頭の花火の誤爆事故による負傷者が運び込まれて、

難しい手術を下働きばかり担当していた椎竹先生が執刀することになる。

思わぬ巡りあわせから実力を発揮することになった椎竹先生は、

正当な評価を得るだろうという余韻のうちに物語は幕を閉じる。

 

星の等級は、

私たちの目に届く明るさによって定められているため、

実際の星のエネルギーと等しいとは限らない。

 

理想的な政治家に対するビジョンが不明瞭ななか、

ひとつのモデルとして、椎竹先生のような、

目立たないが堅実で実務能力のある人物を思い浮かべた。

 

「先生はベテランだ!なぜもっと地位を望まないのですか?」

ブラック・ジャックに問われた椎竹先生は応答する。

「医者は欲が優先しちゃおしまいですよ」と。

 

思えば、戦後1945年までは

私たち国民に選挙権は等しくなかったのだから、

ほんとうに貴重な、ひとりにひとつの票だと思う。 

 

だから喜んで、期日前投票へ行こうと思う。

思うように実を結んでも、結ばなくても。

展示 北大路魯山人の美

展覧会「北大路魯山人の美 和食の天才」を

三井記念美術館でみた。

 

「和食」のユネスコ無形文化遺産登録の記念展として

2015年6月より京都国立近代美術館で開催され、

同年8月に島根の足立美術館を、

2016年4月からは東京を巡回している企画展だ。

 

北大路魯山人/きたおおじろさんじんは

1883年に京都上賀茂神社社家の次男として生まれたが、

生後6か月で養子としてあずけられ、

6歳で再び他家の養子となる複雑な幼年時代を送る。

1903年/20歳で実母をたよって上京し、

まもなく書で認められ書道教授として独立するも、

朝鮮や中国、滋賀や金沢などを渡り歩き、

見聞見識および数寄者らとの交流を深める。

1919年/36歳で鎌倉に移り住むとともに、

大雅堂という古美術店を東京京橋にて共同経営し、

ほどなく会員制の美食倶楽部を始め、

魯山人と名乗るようになる。

1924年/41歳で東京赤坂・日枝神社境内の

星岡茶寮/ほしがおかさりょうを借り受け、

翌年開業、顧問兼料理長となり、

1926年には北鎌倉に星岡窯/せいこうようを築き、

茶寮のための器を創作しはじめる。

1936年/53歳で茶寮を解雇となるも、

作陶をはじめとする創作は海外でも好評を博し、

また様々な独自の逸話をのこして、

1959年/76歳で肝硬変のため逝去した。

 

展覧会は「器は料理の着物」という魯山人の言葉を題し、

その創作の中心であった和食器およそ120点と

数点の書画とで構成されていた。

 

作家ともデザイナーとも趣味人とも言い得ぬ

独特の立ちまわりで采配をふるった、

クリエイティブディレクターとアーティストを合わせたような、

プロジェクトリーダーともいえるだろうか。

 

古陶磁を熟知していたという魯山人ならではの、

志野や織部や伊賀や備前、粉引きや染付や上絵付けといった

様々な技法を用いながら、

なんとも楽しそうに、遊ぶように、おおらかに、

作陶に取り組んでいる様が伝わってくる。

 

織部の大きな長板皿には、

線刻で描かれた草むらのなかに

ひょうきんなコオロギが一匹、ちょこんととまっている。

大鉢に施されたもみじの絵柄は、

器の外側手前に幹が、内側向こうに紅葉が描かれ、

正面から対峙すると1本のもみじの樹が完成し、

ひとつの立体的な絵画をみているようだった。

 

誰からもすかれるようなタイプではなく、

むしろ敵をつくってしまうような

むつかしいところのあった人のようだが、

その創意にあらわれる花鳥風月は、

ユーモラスでどこかやさしい。

 

その思想の随所からは、

無形文化遺産として認められる和食の価値を

充分よく知っていた人なのだろうと感じられる、

親しみやすい展覧会だった。

梅酒つくり

梅雨どきの楽しみに、

旬をむかえた梅を梅酒用に仕込んだ。

 

バラ科サクラ属である梅の実の香りは、

同じバラ科でモモ属にあたる桃の香りと、

同じくバラ科でリンゴ属にあたるりんごの香りを併せたような

奥行きのある芳香で、触れていると気持ちよい。

 

梅の実は、薬にも用いられるほどの効能をもつ反面、

未熟な青梅には青酸が含まれており生食は危険だという。

薬と毒という両義性をもつ、

魅惑のあるいは禁断の果実ともいえるだろう。

 

みりん屋さんに教わった梅酒の作り方は、

青梅をかるく洗浄し、へたを取りのぞき、

本みりんに漬けおくというもので、

クリスマス頃にはおいしい梅酒ができあがるという。

 

そのシンプルな材料と作り方に魅かれて、 

奈良の青梅1kg/70個を、1Lの本みりんに漬け込んだ。

冷暗所で半年の間、健やかに熟成されますように。

 

できあがりが楽しみだ。

メフィストフェレス

文豪ゲーテの戯曲「ファウスト」に登場する

悪魔メフィストフェレスの存在は興味深い。

 

ファウスト」は、

ゲーテが20代で初稿を執筆して以来、

第一部は1808年/著者59歳、

第二部は死後翌年の1833年に出版されたという、

生涯を通じてしたためられた大作だ。

 

ごく一部の散文を除いて

全12111行の詩で構成されている物語のなかで、

ことあるごとに思い返す、第一部・書斎の場面での

メフィストフェレスの自己紹介/詩1335‐1336について、

さまざまな邦訳を、現行版を参照しつつ、

できるかぎり初出本をあたってみた。

 

ファウスト博士から「あなたはなにものか」と問われ

メフィストフェレスは答える。

 

 

我は夫₍か₎の恒に悪を計りて、而も恒に善を生ずる力の一部なり。

  訳:高橋五郎 前川文栄閣/1904年 

 

常に悪を欲し、却て常に善を為す、彼力の一部です。

  訳:森林太郎(鴎外)冨山房/1913年

 

常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の一部分です。

  訳:相良守峯 育生社・ゲーテ全集1/1947年

 

つねに悪を欲してつねに善をなす力の一部分です。

  訳:大山定一 人文書院ゲーテ全集2/1960年 

 

常に悪を欲し、かえって常に善をなすあの力の一部です。

  訳:高橋健二 河出書房/1951年

 

常に悪を欲し、常に善をなす、あの力の一部分です。

  訳:高橋義孝 新潮社・世界文学全集1/1962年 

 

つねに悪を欲して、しかもつねに善をおこなうあの力の一部です。

  訳:手塚富雄 中央公論社・世界の文学5/1964年

 

いつも悪をのぞんで、しかも、いつも善をつくる、あの力の一部です。

  訳:井上正蔵 集英社・世界文学全集7/1976年

 

私は常に悪を欲し常に善をなすあの力の一部分です。

  訳:柴田翔 講談社・世界文学全集19/1977年

 

たえず悪を欲して、しかもたえず善を行なう、あの力の一部です。

  訳:山下肇 潮出版社ゲーテ全集3/1992年

 

例の、問題の力の片割れです、いつも悪を望んでいて、たえず善をなす力です。

  訳:小西悟 大月書店/1998年

 

私はあの力の一部分 常に悪を欲し常に善をなす あの力の一部分です。

  訳:柴田翔 講談社/1999年

 

悪を欲しながら、いつも善をなしてしまう、あのおなじみさんの一人です。

  訳:池内紀 集英社/1999年

 

悪いことをしたいと思っているのに、結果的に善いことばかりしてしまう。

わたしは、そんな「力」の、ほんの一部分なんだよね。

  訳:荒俣宏 新書館/2011年 

 

あの力の一部なのです。

いつも悪いことをしようとして、結局良いことをしてしまう。 

  訳:和田孝三 創英社/2012年

 

 

記念すべき初邦訳から現行の主要な邦訳を

およそ年代順に並べてみたが、 

大勢に影響はないものの、微妙にニュアンスが異なり、

それぞれの解釈や哲学を垣間見るようで興味深い。

 

ときおり

善悪を逆さまに思い浮かべることがある。

 

つねに善を欲し、かえって常に悪をなす、あの力の一部です。

 

善と悪は一対で協働し、

より大きな秩序に還元されるということだろうか。

勧善懲悪はナンセンスとでもいいたげな、

ゲーテの一筋縄ではいかない精神に魅せられる。

惑星地球

地球はおよそ

時速1666㎞/秒速460mで自転しながら、

時速10万㎞/秒速30㎞で太陽のまわりを公転しているという。 

 

私たちは地上に存在しながらも

その速度を体感することはないため事実を忘れがちだが、

ふとしたときに惑星の驚異的な運動を想像すると

地上に存在していることが奇跡のように感じられる。

 

たとえば 

太陽が地球の周りをまわっていたと信じられていた

17世紀頃のことを想像してみる。

その時代の人々が

21世紀の携帯電話や飛行機やインターネットを目前にしたら、

摩訶不思議な物事として、

驚きを通り越して恐れを感じるかもしれない。

あるいは私たちのことを宇宙人だと思うかもしれない。

 

とすると、私たちがいま宇宙人といって

好奇心と恐れを感じている存在たちは、

タイムスリップしてやってきた未来の私たち

という可能性もあるのかもしれない。

 

惑星地球は、

認識の違いはあるにせよ、17世紀にも21世紀の今日にも、

時速1666㎞/秒速460mで自転しながら、

時速10万㎞/秒速30㎞で太陽のまわりを公転している。

 

あるいは、事実や真実はひとつではなく、

いくつあってもよいのだろう。

火球

6月2日の22時すこし前に南西の空にみた

明るく大きな流れ星は火球/かきゅうといい、

その跡の飛行機雲のようなものは

流星痕/りゅうせいこんというそうだ。

 

日本では平均すると

月に数個程度の頻度で目撃されているという。

 

その夜は

同時刻にかなり多くの人がみていたようだ。

 

空の出来事の神秘にどきどきする。

流れ星

昨夜22時すこし前、

風のある曇った南西の夜空に

不思議な光が流れ落ちるのをみた。

 

就寝前に軽くストレッチをした後

しばらく空を眺めるいつも通りの夜だったが、

比較的空の低い位置に、

かすかに青白く点滅しながら動く綺麗な光が目に入り、

しばらく見とれていた。

きらきらとした規則的な光は、ときおり不規則的に

花火のように広がって光ったようにみえた。

するとまた規則的に点滅しながら動いているようなので、

疲れ目の錯覚かもしれないと考えていた。

 

すると、音もなくすぅーっと

別の光が斜め45度に落下した。

一瞬のことだったが、すこし西寄りの同じ高さの空で、

くすんだオレンジ色と白色が合わさったような光の塊が、

とてもはっきりとドラマティックに落下した。

その跡には飛行機雲のようなものがみえた。

流れ星だろうか。

 

何度かみたことがある

高い空をロマンティックに流れる星とは異質の、

また20年前に北海道の函館山でみた

ジグザグに素早く動くおそらくUFOとも異質の、

不思議な光だった。

 

同じときに同じ空を見上げていた方、

どなたかいらっしゃいますか。

広島と長崎

2016年5月27日夕方

伊勢志摩サミットのために来日していた

アメリカのオバマ大統領が広島を訪れスピーチを行った。

 

翌日の新聞には

その英語原文と日本語訳が掲載され、

日経、朝日、毎日の各紙の邦訳はそれぞれに魅力的で、

読み応えがあった。

 

歴史的に意義深い、

記憶に残るスピーチだったと感じた。

何度も読み返したくなる永久保存版のテキスト。

 

とくに印象に残った一文は、

We're not bound by genetic code to repeat the mistakes of the past.

We can learn. We can choose.

 

 遺伝情報のせいで、

 同じ過ちを繰り返してしまうと考えるべきではない。

 我々は過去から学び、選択できる。/日経 

 

 私たちは遺伝情報によって、

 過去の間違いを繰り返す運命を定められているわけではありません。

 私たちは学び、選ぶことができます。/朝日

 

 私たちは過去の失敗を繰り返すよう

 遺伝子で決められているわけではありません。

 私たちは学ぶことができます。選ぶことができます。 /毎日

 

 

どのようなときにも

私たちには選択する力を通して

自由と責任が与えられている。

 

スピーチのなかでも語られたように、

子供たちはいつの時代でも

純真さや未来を象徴するまぶしい存在だ。

すべての大人はかつて子供であったし、

あるいは大人になっても、

その小さな子供の自分とずっと一緒にいつづける、

というのが、わたしの実感だ。

 

ひょっとすると「小ささ」というのは、

ひとつの「力」の形態なのかもしれない。

たとえば音楽で、

ときに「p」がこの上ない表現であるように。

 

そういう小さな

ひとりひとりの希望を束ねたい。

 

広島と長崎は

無数の死者のたましいに

抱かれている聖地なのだと思った。

太陽チャージャー

数か月前からソーラーチャージャーを使い始めた。

 

太陽光ではじめてi phoneを充電したときの感動は、

人類がはじめて火を発見したときの感動に

比べるべくはないにしても、ほんとうに新鮮な喜びだった。

 

あまねく降り注ぐ太陽の光のエネルギーを、

私たちの生活に則したエネルギーに変換するテクノロジーは、

なんて素晴らしいのだろう。

 

住んでいる集合住宅の設計上、

窓ガラス越しの室内での発電だが、まったく問題はなく、

コンセント電源とくらべても充電時間に遜色はない。

 

充電式電池/単3と単4への

充電・蓄電ができるタイプの製品を選んだが、

生活のところどころで電池を使用しているため、

また雨や曇りの日には、

その電池から機器を充電することもできるため、

たいへん重宝している。

 

ごく小さなことだけれど、

太陽の光でエネルギーを賄えることが清々しい。

 

石炭や石油そして原子力のエネルギーに

感謝と敬意を表しつつ、

多くの人の意識が束ねられた結果として、

新しいエネルギーシステムへ穏やかに移行できたらうれしい。

 

また、空間に無限に偏在しているエネルギー、

フリーエネルギーへのアクセスも期待されているようだ。

 

人の意識とともに、テクノロジーも日々更新されている。

わくわく、楽しみだ。