佐賀町日記

林ひとみ

太陽チャージャー

数か月前からソーラーチャージャーを使い始めた。

 

太陽光ではじめてi phoneを充電したときの感動は、

人類がはじめて火を発見したときの感動に

比べるべくはないにしても、ほんとうに新鮮な喜びだった。

 

あまねく降り注ぐ太陽の光のエネルギーを、

私たちの生活に則したエネルギーに変換するテクノロジーは、

なんて素晴らしいのだろう。

 

住んでいる集合住宅の設計上、

窓ガラス越しの室内での発電だが、まったく問題はなく、

コンセント電源とくらべても充電時間に遜色はない。

 

充電式電池/単3と単4への

充電・蓄電ができるタイプの製品を選んだが、

生活のところどころで電池を使用しているため、

また雨や曇りの日には、

その電池から機器を充電することもできるため、

たいへん重宝している。

 

ごく小さなことだけれど、

太陽の光でエネルギーを賄えることが清々しい。

 

石炭や石油そして原子力のエネルギーに

感謝と敬意を表しつつ、

多くの人の意識が束ねられた結果として、

新しいエネルギーシステムへ穏やかに移行できたらうれしい。

 

また、空間に無限に偏在しているエネルギー、

フリーエネルギーへのアクセスも期待されているようだ。

 

人の意識とともに、テクノロジーも日々更新されている。

わくわく、楽しみだ。

演奏会 CANTUS ANIMAE The 20th Concert

混声合唱団Cantus Animae/カントゥス アニメの

第20回演奏会を第一生命ホールで聴いた。

 

Cantus Animaeの51人のステージは、

数年前に他界した作曲家/三善晃の作品と、

20回という節目の演奏会のために委嘱された

若手の作曲家3名の作品とで構成され、

20世紀から21世紀に引き継がれる

「つながる魂のうた」と題されていた。

 

委嘱というかたちで

同時代にうみだされた作品がとりわけ興味深いのは、

現在を映し出すとともに、

未来を設定するテンプレートのひとつにもなるからだ。

 

第Ⅰステージの委嘱初演作品は、

団員でもある安藤寛子の「智恵子の手紙」。

彫刻家/高村光太郎の妻智恵子が、

精神を病み恍惚の人となる直前の数年間に

実母に宛てた手紙と遺書をテキストとした本作は、

意欲的で前衛的な、女性ならではの作品という印象だ。

自らを追い詰め、壊れてしまった智恵子の心が

安らかであるようにと祈るばかりだが、

抑圧された女性性の解放という

現代的なテーマのひとつともいえる主題だと感じた。

 

第Ⅱステージの委嘱初演作品である

森田花央里の「石像の歌」は、ドイツの詩人リルケの作品を

作曲家自身の言葉で翻訳したテキストが印象的な、

ロマンティックで瑞々しい作品だ。

愛を求めると同時に恐れてもいる

傷つきやすい相反した心を、

曲の終結部が象徴しているようでユニークだ。

同時に数年前の作品、

竹久夢二の詩からなる組曲「青い小径」も演奏されたが、

どちらも合唱曲についてまわりがちな

野暮ったさを感じさせないところに好感を持った。

 

第Ⅲステージの委嘱初演作品は、

松本望の「二つの祈りの音楽」で、

文学者宗左近/そうさこんの詩による大きな合唱曲だ。

一曲目は、戦争と神を題材にした圧倒的なテキストに、

音楽は負けておらず、共に運命と戦っているようで胸に迫る。

つづく二曲目の、すべてが清められてゆく祈りの音楽に、

自分を委ねて歌うことができる幸せと、

自分を委ねて聴くことができる幸せとが一体となり、

終幕を迎える。

 

ラテン語で「魂の歌」という意をもつCantus Animaeのサウンドは、

ふくよかで立派なため、

それぞれの作品との相性がはっきりしていると感じたが、

そのようなこと以上に、音楽のもつ力は計り知れず、

また尊いものだと確認した。

 

心地よい余韻と臨海の海風につつまれながら、

そのままどこまでも歩いていけるような気がして、

時間を忘れて約3kmの帰路を歩いたのだった。 

本 ピエール・リヴィエールの犯罪 狂気と理性 | ミッシェル・フーコー編著

コレージュ・ド・フランス/国立特別高等教育機関における

哲学者ミッシェル・フーコー率いるゼミナールの共同研究書である、

「ピエール・リヴィエールの犯罪 狂気と理性」を読んだ。

オリジナルは1973年にガリマール出版社より、

邦訳は1975年に河出書房新社より刊行され、

幾度かの新装や改訂や新訳を重ねている作品だ。

 

ノルマンディーの農村に生まれ育った

20歳のピエール・リヴィエールは、

1835年6月3日に、実の母と姉と弟を殺害し、

およそ一か月逃亡したのち、7月2日に逮捕された。

当初「神が命じた」と供述し狂人を装ったことや、

犯人の特異な性質と独特の動機から、

その精神状態をめぐり様々な議論が交わされたが、

裁判では有罪および死刑の判決に至り、

上訴は却下されたものの、国王の特赦をうけ終身禁錮刑に減刑された。

約5年後の1840年に刑務所で自死し、

複雑な残響をのこしたまま、事件は歴史に埋没する。

 

およそ140年後に、コレージュ・ド・フランスのゼミ一同は、

精神医学と刑事裁判の歴史的関係を研究する過程で

リヴィエール事件と出会い、その成果を世に問うこととなる。

本書は、事件の訴訟関連資料と論評の二部から成り、

前半は、可能な限り調査・収集された

裁判関係書類・犯人の手記・当時の新聞記事等が掲載され、

時系列にしたがい、事件の全容をくまなく伝えている。

後半は、フーコーを含めた8名の編者たちによる、

多角的な論評が収められており、

事件の歴史的背景や、犯行と手記の相関性、

裁判の正当性や、司法と精神医学の関係等が考察されている。

 

ともあれ白眉は、質量ともども不思議な魅力をはなつ、

犯人/被告ピエール・リヴィエールによる手記だろう。

本書の原題「Moi, Pierre Rivière, ayant égorgé ma mère, ma sœur et mon frère…

/私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した」に、

その手記の書き出しが引用されていることからも察せられるように、

またフーコーが序論で言及しているように、 

ある種の美しさと驚嘆を喚起させられる。

予審に際し司法官の求めに応じて拘置所で書かれたものだが、

読み書きをろくに知らないと断っているものの、翻訳の力も借りてだろうか、

かなりの記憶力と素朴かつ力強い文章力で、生い立ちや家庭環境、

犯行までのいきさつや動機、犯行後の心情の変化や行動を、 

整然と子細に述べている。

 

産まれたときから両親の折り合いが悪く、

ヒステリックで意地の悪い母親は、穏やかで誠実な父親に対し、

罵詈雑言や借金の苦労を絶え間なく負わせていたため、

自分を犠牲にして父を救おうと思ったと告白している。

そして、父を苦しめていた母と、母に共謀した姉を殺害すること、

また弟については、母と姉を愛していたため、

加えて犯行後に父が自分を憐れむことのないよう、

父がとりわけ愛していた弟を殺害することで、

自分が死刑に殉じても心残りに思わずに、その後を幸福に暮らせるようにと、

犯行を決意したと記している。

 

裁判では、リヴィエールが白痴/狂人であるか否か、

すなわち罪となるか否かが論点となり、

13名の証人たちの供述には、低能/白痴であるという共通の認識や、

気ちがいとしか思われぬ奇行の目撃が多く寄せられ、

また父親もリヴィエールに対して匙を投げていたと見受けられる

客観的な証言も多い。

リヴィエールの供述および手記と、他者による証言には矛盾が多く、

どちらにも真実と主観的な見解が混在しているように見受けられ、

陪席員や医師たちの意見はほとんど二分し、

決定的な判定を導き出せなかったようだ。

専門家たちをはじめ各人におよんだ動揺の形跡が興味深い。

 

殺人という行為は決して肯定できないが、

意識あるいは無意識のいずれにせよ

多少の創作が行われているであろうその手記には、

同情を起こさせるある種の力がある。

自らを犠牲にして父を救ったという動機の深層は、

父親への愛情からというよりはむしろ、

ヒロイックなものであったと感じられるが、

犯行とともに、自分自身をも葬ってしまったかのように、

減刑もむなしく、死を希求し遂げている。

また、リヴィエールが意図したように、

その後に父親は幸福に暮らせたのだろうか。

仮にもし以前より幸福に暮らせたのだとしたら、

どのように事件を解釈したらよいのだろう。

 

映画監督ルネ・アリオは、 フーコーの仕事に共鳴し、

1976年に同名の映画を製作している。

当時助監督を務めたニコラ・フィリベールは、

2007年に「かつて、ノルマンディーで」を制作し、

撮影が行われたノルマンディー地方を30年ぶりに訪れ、

かつて映画に出演した村の人々と再会を果たしている。

翌年の日本公開時に観て以来、

ルネ・アリオの作品を観ることは叶わぬままだが、

本テキストに対峙するのに8年かかったことになる。

 

もう一度「かつて、ノルマンディーで」を観てみようと思う。

そして遠くない未来に、

ルネ・アリオ監督の解釈と創作に触れられることを期待して。

本 ジャンヌ・ダルク復権裁判 | R・ペルヌー編著 高山一彦訳

中世史学者であり、ジャンヌ・ダルク研究における第一人者である、

今は亡きレジーヌ・ペルヌー編著による

ジャンヌ・ダルク復権裁判」を読んだ。

原書は若かりし頃の女史が編纂し、

1953年にフランスで出版されたものだが、

時を経て、高山一彦氏により日本語へ翻訳され、

2002年に白水社より公刊された、処刑裁判と対をなす記録だ。

 

訳者高山氏によると、主だった復権裁判の校訂記録は、

1841~49年にわたり刊行された、J・キシュラ編纂による、

一連の史料集・全5巻に収められたラテン語の記録と、

1977~88年にかけて刊行された、

P・デュパルク校訂によるフランス語版・全5巻があり、

いずれも教会裁判独特の仰々しく煩雑な手続きや、

同様の主旨が繰り返される数多くの証言からなる、

そのボリュームと冗漫さに、編訳の困難さを感じたという。

そこでペルヌー氏自らのお奨めもあり、

女史による編纂書「Vie et Mort de Jeanne d'Arc 

-Les Témoignages du Procès de Réhabilitation,1450-1456

ジャンヌ・ダルクの生と死 復権裁判の証言、1450-1456」

の本訳が実現したそうだ。

 

復権裁判という名称で親しまれているが、  

正確には「ジャンヌ・ダルク処刑判決無効裁判」といい、

1455年11月7日にジャンヌの母とふたりの兄により請願書が提出され、

1456年7月7日にかつての有罪処刑判決の無効/破棄が宣告されている。

それら原記録の一部は、パリ・ノートルダム教会の書庫に寄贈され、

現在はパリ国立図書館に所蔵されているそうだ。

 

ことの発端は、処刑裁判の18年後にあたる1449年に、

イングランドによる支配からルーアンの町を奪回した

フランス国王シャルル7世による、

かつてかの地で行われた処刑裁判の調査命令にある。 

1450年に行われた非公式な調査および尋問は、

1452年には公式なそれへと引き継がれ、

のべ115名にもおよぶ関係者等による証言から

次々と真実が明かされることとなる。

 

それらの証言には、多くの驚くべき真実と、

多少の誇張や、記憶のすり替え等が入り混じっているという印象だが、

前裁判で記録された本人による答弁とは別の角度から、

乙女ジャンヌの実像が鮮やかに浮かび上がってくるようで、

非常に興味深い。

 

故郷ドンレミ村の人々は、

愛称ジャネットの素朴さ、慎ましさ、敬虔さを証言し、

戦を共にした戦友たちは、

19歳の乙女が指揮官として専門家のごとく優れた技量を発揮したこと、

いくつかの奇跡としかいいようのない出来事についても、

感動を伴った証言をしている。

処刑裁判に立ち会った陪席判事たちや書記等の人々は 、

彼女が慎重に聡明に卓越した答弁をしたこと、

そのために感嘆の声があがったことなどを記憶する一方で、

法の名のもとに不正や蛮行が企てられたことも証言している。

 

裁判の費用を支出し主導したイングランド勢力は、

乙女ジャンヌに魔術的な力を見出し非常に恐れていたという。

そのため彼女が捕虜になった際に大金で買い取り、

裁判を行った教会関係者にかなりの圧力をかけたそうだ。

イングランド勢に積極的に加担していた裁判長は、

正確にはルーアンで法を行使する権限を所持しておらず、

本来は教会牢に同性の牢番を同伴するはずのところを、

世俗牢にイギリス男兵の番人とともに投獄され、

おそらくは暴言や暴力などを加えられたこと、

裁判は傍聴を許可せず非公開の形式で行われ、

告発諸箇条は虚偽を含み、答弁をかなり曲解して作成され、

つけられるべき弁護人をつけられることもなく、

心ある陪席判事たちの公正な意見も、

公会議およびローマ教皇への上訴の要請も、無視されたようだ。

 

このような穢れた裁判によって

痛ましくもむごたらしく処刑された悲劇から、

逆説的に映し出され、鮮明になるのは、

乙女ジャンヌの魂の清らかさや、

神秘の力が可能にした数々の奇跡だろう。

 

おそらく人間は、

大いなる力を慕い敬いながら、どこかで、

その善悪や人知を超えた計り知れない力に、

恐れ/畏れを抱いている。 

 

彼女を異端者として処刑したのも、

のちに聖女として列聖したのも、

どちらも同じ教会という組織であることに

言いようのない感慨を覚えるが、

闇は闇のままではいられず、

いずれ光に吸収される運命にあることを、

聖女は証明したのだと、信じたい。

本 ジャンヌ・ダルク処刑裁判 | 高山一彦編訳

フランス史におけるジャンヌ・ダルク研究者である、

高山一彦による編訳の「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」を読んだ。

1971年に現代思潮社より初版刊行、

1984年に大幅な改訂版が白水社より、

2002年には「ジャンヌ・ダルク復権裁判」の訳書とともに、

新装版として同社より出版された、貴重な史料だ。 

 

当時イングランド王国の支配下であった

フランス北部ノルマンディ地方の町ルーアンで、

1431年1月9日~5月30日に行われた、

19歳の乙女ジャンヌの宗教裁判の記録は、

数奇な運命をたどり、独特の形で現存している。

 

審理の場で記録されたフランス語による原本は、

はたして消失し現存しないということだが、

裁判過程の公開を目的として、

「フランス語原本」をラテン語へ翻訳した

ラテン語記録」の写本が3部現存しているようだ。

けれども、裁判が不正に行われたことから、

幾つかの記録の差し替えや削除といった

作為が施されているようで、それらを補うかたちで、

フランス語原本に準ずる価値を認められているという

「ユルフェ写本」と「オルレアン写本」が存在する。

あまたの古文書コレクションに紛れこんでいたという、

失われたフランス語原本から写されたとされるユルフェ写本、

ユルフェ写本またはフランス語の古記録から写されたといわれる、

オルレアン市の図書館が所蔵するオルレアン写本は、

いずれも部分的で不完全な形ではあるものの、

主要な校訂版であるP・シャンピオン版やP・ティセ版で、

ラテン語記録に併記され、裁判記録に奥行を与えているようだ。

 

編訳者である高山一彦氏は、

いくつもの校訂版や研究書を参照したうえで

妥当と思われる多少の編纂を加えて翻訳しているが、

どこまでも公正に正確に史料に対峙しているという印象で、

安心して日本語で裁判記録をたどることができ、

その稀有で誠実な仕事に感謝を感じた。

 

当時、正確に裁判が記録されたという前提のもと、

審問に対する乙女ジャンヌの答弁からは、

文盲であったという一説にもかかわらず、

すぐれた思考力をもっていたことがうかがえる。

教会の虚偽や、その政治的な意図を見抜きながらも、

答えられることには誠実に答え、

答えられぬことには答えられぬと明言し、

屈することなく毅然と立ち向かっている。

 

巧みに紳士的な手続きを装ってはいるが、

裁判を主導したイングランド側としては、

奇跡的な勝利につづきフランス国王シャルル7世を戴冠させた

乙女ジャンヌの異端/破門と処刑を公にすることで、

フランス国王の尊厳を冒し、勢いづいたフランス勢力に陰りを与え、

1420年のトロア協定により王位継承権があるとされた

イングランド王ヘンリー6世のフランス支配拡大にむけて、

戦局を有利に進めたかったようだ。

 

その後明らかになる、

数々の不正が横行する裁判において、

審理の進行にしたがい、

この者たちに何を言っても無駄だという諦念や絶望からか、

殉教を望む発言がみられるようになるが、

すでに自らの死を予見しているふしもあったと見受けられる。

 

天啓を授かり、

聖ミッシェル、聖カトリーヌ、聖マルグリットといった、

天使や聖女たちの姿を目にし、

常に交流していたという乙女ジャンヌは、

およそ500年を経て列聖されることからも窺えるように、

あまりに聖なるものに近かったゆえに、

地上では長く生きられぬ運命にあったのかもしれない。

 

フランスの作家ジャン・ジュネは、いみじくも、

「聖女とは言葉を変えていえば、人間の否定である」

といったが、その魂は神と直接に関係し、

社会の秩序におさまらず、

むしろそれらを破壊する可能性を秘めているために、

悲劇は宿命を帯びているかのようにもみえる。

 

そして、乙女ジャンヌのもうひとつの物語は、

およそ25年後に行われた復権裁判の記録へと綴られる。

映画 ロベール・ブレッソン | ジャンヌ・ダルク裁判

ロベール・ブレッソンの「ジャンヌ・ダルク裁判」を観た。

 

監督にとっては中期にあたる、1961年に撮影された、

フランスの聖女についての、61分のモノクロの作品だ。

 

ジャンヌ・ダルクは、

フランス国内およびイギリスにまたがり、

およそ116年ものあいだ争われた百年戦争の最中に、

フランス国王を救いに行け、という天のお告げにより、

劣勢であったフランス王国軍を率いて戦線に立ち、

いくつかの重要な闘いを勝利に導いた、実在の人物だ。

ほどなくして敵方に捕えられ、

投獄と裁判を経て、異端の罪で火刑に処されたが、

25年後の復権裁判で、処刑判決は無効とされ、

のち1909年に福者に、1920年には聖人となった。 

 

ユリウス暦当時の1412年頃に、

フランス北東部の村ドンレミの農家に生まれ、

13歳頃から神秘体験をするようになったという彼女は、

17歳頃に国王に謁見し承認を得て、司令官として軍を率いた。

わずか数か月で戦局を転換させ、

シャルル7世の王位継承のための戴冠式に尽力するも、

次第に国王と政策を異にするようになり、

不本意な戦における退却時に18歳で捕虜となる。

忠誠を誓った国王にも半ば見捨てられ、

およそ一年後に19歳前後で処刑されたが、

異端の審判をくだした宗教裁判には、

多くの問題や不当な要素があったという、

政治的に利用された、

理不尽な弾劾裁判だったようだ。

 

ブレッソンの描く本作は、

およそ5か月間にわたり行われた裁判とその火刑を、

簡素に印象深く描いている。

現存する裁判の記録原本と、

その25年後の復権裁判の証言を典拠としたという、

監督による脚本と台詞は、鮮やかで深淵だ。

研ぎ澄まされた構図や音響は、

物語の緊張感と一体となっている。

 

ジャンヌ・ダルクを演じる、

作家となる前の、20歳のフロランス・ドゥレは、

聖性をもった超越的な存在というよりは、

勇敢で不敵な若い女性という存在感で、

今日の人物であるかのような現実性を取り戻したかったという、

監督の意図を体現している。

 

西洋史上とりわけ有名な人物のひとりであり、

本国フランスでは国民的なヒロインのようだが、

お墓も肖像画も存在しないということが、

彼女の神秘体験にまけずおとらず、

後世の人々の想像力を刺激しているのではないだろうか。

 

オルレアンの乙女ともよばれる彼女の受難は、

イエス・キリストのそれを喚起するのは勿論だが、

とりわけ本作の主人公は、

同フランスの思想家であり活動家であった、

シモーヌ・ヴェイユを思い起こさせた。

優美でありながら男装し従軍したことや、

敬虔な信仰心をもっていたこと、

若くして客死したことなどに類似性を感じ、

死後に編纂された著作重力と恩寵」に、

久しぶりに目を通す。

 

 ” 世論は、たいへん強い原因である。

 ジャンヌ・ダルクの物語のうちに、

 当時の世論がどれほどの圧力を及ぼしているかが読みとれる。

 だが、その世論といっても、不確かなものであった。

 さらに、キリストについても・・・”

 

不確かな世界のなかで、

あまりに純粋に天の声に殉じた、

そのはげしい魂たちに、清められるかのようだ。 

さくら

ベランダのさくらが開花した。

 

7年前の春に、花屋でみつけた枝ものの桜を、

植木鉢に挿し木した、小ぶりの樹木だ。

種名を啓翁桜/けいおうざくらといい、

毎年、淡いピンク色の花を楽しませてくれる。

 

啓翁桜は、

山形県の特産品として栽培されているが、 

ルーツは九州の福岡県久留米市にあるようだ。

昭和初期に、中国のオウトウを台木にし、

ヒガンザクラを接いだところ、

穂木であったヒガンザクラから枝変わりしたのだという。

表記も、敬翁桜から、

いつのまにか啓翁桜へ変化したそうだ。

 

秋の紅葉をへて、枯葉を落とす頃、

寒々とした枝に、人知れずつぼみは現れる。

冬のあいだ、ふくらみに変化はみられないが、

幹や枝は赤みを増し、

内奥で生長をつづけているのがうかがわれる。

 

寒暖をくりかえし、また雨をはさみながら、 

訪れる春の陽光とあたたかさは、

冬を越した生命たちにとって、ひとしおの喜びだ。

日本では、出会いと別れの季節でもある。

 

 

ピンク色を好み、

春に生まれ、春に逝った、

その季節を名前にもつ、母を思い出す。

絹のコーヒーフィルター

絹のコーヒーフィルターで淹れたコーヒーが

とても美味しかった。

 

家でドリップする際に、 

紙のフィルターをきらしてしまったので、

代用できるものはと画策し、

はぎれのシルクで裁縫したのがきっかけだ。

 

ネル/フランネルや、ケナフなど、

フィルターにより味が変わると聞いたことはあったが、

実際に体験して驚いた。

雑味がでにくいのか、ほんとうに美味しい。

 

感じ方には個人差も、

手製のものだから、ひいき目もあるだろうが、

洗って乾かし、何度も使用できることや、

ごみが減ることも、魅力的だ。

 

絹/シルクは、

蚕の繭からとれる動物性繊維で、

人の肌と同じたんぱく質から成るそうだ。

数年前に、

冬の乾燥による肌のかゆみに悩まされた際、

皮膚科医からシルクの肌着を薦められ着用すると、

ほどなく症状が改善したことを思い出した。

肌との摩擦がすくないということだった。

 

コーヒーは、

シルクのフィルターを通過するとき、

どのような作用を受け、あるいは受けずに、

美味しくドリップされるのだろう。

 

いにしえのシルクロードは、

その計り知れないポテンシャルを、

滔々/とうとうと語り伝えているかのようだ。

展示 みなでつくる方法 吉阪隆正+U研究所の建築

みなでつくる方法 吉阪隆正+U研究所の建築展を、

湯島の国立近現代建築資料館で観た。

 

吉阪隆正/よしざかたかまさは、

1917年東京生まれの建築家で、 

その多岐にわたる活動から、

登山家や冒険家や思想家ともいえるだろう。

 

早稲田大学理工学部建築学科で、

考現学今和次郎に学び、

民家調査や住居学に取り組み、

またル・コルビュジエのアトリエを経て、

建築設計を行う研究所を設立・主宰した。

 

展覧会は、

多くの図面と、模型、映像、

著作からの引用パネルなどで、構成されている。

新宿百人町の自邸 、幾つかの個人邸、

1956年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館、

長崎の海星学園、富山の呉羽中学校、

八王子の大学セミナー・ハウス、

お茶の水アテネ・フランセ

千代田区にあった日仏会館、

島根の江津市庁舎などの、数々のプロジェクト。

 

アテネ・フランセの外壁の、あの独特の色彩は、

教鞭を執ったアルゼンチン・アンデスの夕焼けの色だったと知り、

不思議な感慨を覚えた。

 

 

印象的だったのは、

氏の全人的とも宇宙的ともいえる思想で、

その人間的な温かみと大らかさや、

次のような象徴的な問いに、共感を抱く。

 「私はどこにいるのか?」

 この疑問こそすべての出発点だ。

 

また1923年/6歳で体験した関東大震災と、

おそらく戦中の東京大空襲のことと察せられるが、

後年に言及された「ある住居」からの引用に、

どきっとする。

 天は二度まで火を以って東京の人々を警告したのに、

 この人々はまだ目醒めない。

 海の水が都心を埋めつくしてしまう水害が来るまでだめなのだろうか。  

 

 

最終日だったこともあり、

会場は老若男女で賑わっていた。

そのなかに、オーラルヒストリー/記録映像で、

思い出を語っていたご子息・正邦氏もいらっしゃった。

1980年/63歳で他界されたお父様にそっくりで、

白いお髭は、まるでサンタクロースのようだった。

春やさい

先日、春野菜の天ぷらを食べた。

 

旬をむかえた、

うど、菜の花、たらの芽、ふきのとう、新玉ねぎには、

独特の香りと苦みがあり、

今の時期ならではの、春の味わいだ。

季節のおくりものは

なんてすばらしいのだろう。

 

 

土のなかで越冬した春野菜には、

アクやクセを醸す個性的なインパクトとともに、

健気でしたたかな生命力を感じる。

また栄養学的にも、

時節に適った特徴をもっているようだ。

 

人はクマやリスのように冬眠することはないが、

動物たちと同じように代謝率がさがる冬季には、

脂質や老廃物を蓄積しやすいそうだ。

 

ヨーロッパでは春季療法という、

植物を用いた体質改善法があるそうだが、

春の訪れとともに活発になり、

代謝が高まってゆく身体に、

春野菜のもつ解毒・浄化作用は相乗的で、

理にかなっているということだ。

 

 

わたしたちは、四季をとおして、

身体が必要としているものを欲求し、

より美味しく感じられる感受性をもっている。

 

自然は、わたしたちの内外に存在し、

完璧にデザインされていると

知っているのだ。

映画 ルキノ・ヴィスコンティ | 若者のすべて

ルキノ・ヴィスコンティの「若者のすべて」を観た。

 

1960年制作の本作は、

長編全14作のうち、6本目の監督作品だ。

ジョバンニ・テストーリの短編「ギゾルファ橋」を原案に、

常連のスーゾ・チェッキ・ダミーコ等と共に脚色したという、

イタリア南部の農村から、北部の大都市ミラノへ移住した、

寡婦とその5人の息子たちの物語だ。

 

夫と死別した喪中の母親は、生来の勝気な性格から、

4人の息子たちを連れて、長男の住むミラノへ移り、

安価な地下の借家で、念願の新生活をスタートさせる。

兄弟たちは、それぞれの個性に従って、

大都市へ順応する者、積極的に適応する者、

故郷に哀愁を抱く者、悪にそまり破滅する者があり、

それぞれに異なった運命を辿ることになる。

なかでもフォーカスして語られるのは、

次男シモーネ/レナート・サルヴァトーリと、

三男ロッコ/アラン・ドロンと、

娼婦ナディア/アニー・ジラルドの、

不幸な三角関係の悲劇だ。

 

都市と農村、聖性と暴力、

家族の絆や、故郷へのノスタルジーなど、 

いくつかの主題が重なり合う重層的な本作だが、 

象徴的なシーンのひとつは、

壮麗なドゥオーモ/大聖堂の屋上を舞台に描かれる、

愛し合うロッコとナディアの別離だろう。

聖人君子さながらに自己を顧みぬロッコは、

同じ女性を愛し、また大都市に毒され堕落してゆく

兄シモーネへの憐みと罪悪感から、

兄を救えるのは君だけだとナディアに告げるが、

はからずもすべての者を裏切り不幸にする、

悲劇的なある種の美しさに眩暈がする。

また、ふたりの兄弟に翻弄されるナディアの、

磔刑されたキリストを暗示するような最期も、印象的だ。

 

エピローグで、堅実な四男チーロは、

まだ幼い弟ルーカに、シモーネの破滅について、

聖人ロッコの寛大さが輪をかけたと語り、

物語に陰影を与えている。

そして描かれざる五男ルーカの物語へと希望をつなぎ、

ほがらかに家路をたどるルーカの後ろ姿を見送るように、

物語は幕を閉じる。

 

 

イタリア語の原題「ROCCO E I SUOI FRATELLI」は、

「ロッコと兄弟たち」だが、

5人の兄弟たちの名前をそれぞれタイトルとした、

5つの章により構成されている本作に、

邦題「若者のすべて」は、

よりよく馴染んでいる名訳と感じた。

 

制作当時50代半ばであった監督は、

以降、本領発揮ともいえる豪奢な大作を生み出してゆく。

ヴィスコンティヴィスコンティに成ってゆく、

おのれを完成させてゆくその軌跡に、

ますます興味は深まってゆく。

映画 ロッセリーニ | インディア

ロベルト・ロッセリーニの「INDIA Matri Bhumi」を観た。

「インド 母なる大地」だ。

 

1958年制作の本作は、インドを題材とした、

新聞の三面記事から着想を得たといわれる、

4つのエピソードで構成されている。

 

プロローグは大都市ボンベイ/現ムンバイの

おびただしい群衆への視線からはじまる。

多様な民族・言語・宗教が、

カースト制度とともに共存している、

また植民地時代の支配をうけいれた、

寛容な国民性を映し出す。

 

第1話は象と象つかいの話、またその結婚、

第2話は巨大ダムの建設労務者の話、またその労働移動、

第3話は虎と森の老人の話、またその森の開発、

第4話は飼い主を熱波で失った猿の旅路、の物語。

それらを通して、

インドにおける人間と動物の関係や、

悠久の時の流れに相対/あいたいする近代化の様相が、

ドキュメンタリータッチで描かれている。

 

各地で異なる時期に撮影され、

編集で統合されたという粗い画像だが、

自然の雄大さや美しさ厳しさが伝わってきて、

感動的だ。

 

ナレーションは、

各エピソードの主人公たちによって語られる設定でありながら、

全編を通して同一のナレーターによりイタリア語で語られるため、

異国のおとぎ話や紙芝居をみているような、

不思議な感覚を覚えた。

 

森のなかで木を伐採し材木を運ぶ象たちの、

大きな体にぶら下げられた鈴が鳴り響く、

牧歌的な情景のなかで、思考が停止する。

労働を終えた象たちの水浴びと食事の世話に、

大忙しの象つかいたちがユーモラスだ。

野生の虎と適切な距離を保って暮らしていた、

80才の森の住人のモノローグ、

「陽が昇り眼をさますと 生きる喜びが身体にみなぎるのです」

という言葉が美しい。

開発によりバランスが崩れた森では、

傷ついた虎が人間を襲いだし、

自然の湖や寺院は、人工のダムのなかへ沈み、

飼いならされた猿は野生に戻ることができず、

サーカスの曲芸へと辿り着く。

 

 

時の流れのなかで、

わたしたちが得たものと失ったものに思いを馳せることは、

現在と未来をよりよく生きるために、有意義なことだと思う。

また、いつでも今が一番よいにきまっている、

という建設的な考え方も有用だろう。

 

映画に引用された、

叙事詩マハーバーラタに収められている、

ギータ書からの箴言が、複雑な余韻を残す。

 

真実の何たるかに悩むは 凡なる者の常なり

正しからざる物の中にも 真実の在する事あれば

今はただ行う事 これ肝要なり

チャイ

今年の冬は、チャイをつくってよく飲んだ。

 

紅茶に、数種類のスパイス、

クローブ、カルダモン、シナモン、ジンジャー、ペッパー に、

ローズヒップレモングラスなどをその日の気分で加えて、

牛乳/豆乳とあわせて煮出す。

 

からだが温まり、ほっとする。

 

 

チャイは、インドの植民地時代に、

イギリスへ輸出するために生産された紅茶の、

残りの細かい茶葉を利用して作られたのが、はじまりという。

 

チャイはお茶、マサラはスパイスをさし、

スパイスいりのミルクティーは、

正確にはマサラチャイというそうだ。

 

逆境のなかで、

人々の生活の場からうまれた飲み物は、

時代や国境を越えて、ひろく愛飲されている。

暦では立春をすぎ、

すこしずつ春の気配を感じるこのごろも、

まだ名残おしい冬のチャイにつつまれている。  

電力自由化

2016年4月から、電力の自由化がはじまる。

 

自由という言葉のもつ響きは、

なんて清々しいのだろう。

 

今までは選択する余地がなかったので、

お任せで、見方によっては楽でもあったが、

4月からはどうしようかと、

迷える幸せにあずかっている。

 

わたしたちひとりひとりの取捨選択の総合が、

この国の行方を指し示すことにつながるのだと

ひしひしと感じられるから、責任重大だ。

 

フランスの思想家ジョルジュ・バタイユは、

その著書「宗教の理論」で、

”人類の総体が正しいのは明らかである” と述べている。

 

究極的にはその通りだろうが、

できれば戦争や原発事故は避けたいので、

身近な些細なことだとしても、

できることから最善を尽くしたい。

 

 

 夢のなかでみた地球は

 水と空気が澄んでいて

 太陽の光はいつでも穏やかに降り注ぎ

 植物や動物たちの喜びがこだまして

 人間たちはすべてと調和する知性を獲得していた

 

 

千差万別さまざまな命が、

愛や喜びに由来するエネルギーを発電する、

クリーンでエネルギッシュな日本を想像すると、

とてもわくわくする。

本 岡本太郎 | 沖縄文化論

岡本太郎の「沖縄文化論 忘れられた日本」を読んだ。

 

多岐にわたり創作をくりひろげた芸術家が、

1960年に雑誌「中央公論」に連載した作品だ。

氏がはじめて沖縄を訪れたのは、

アメリカ統治下にあった1959年秋のおよそ半月で、

ひとつの恋といえるほど、沖縄に夢中になったという。   

 

かつてパリ大学・ソルボンヌ校に学び、

民俗学ではオセアニアを専攻したという岡本氏の、

視野の広い、明晰なものの見方・考え方や、

愛に基づいた、偏りすぎることのない、

批判精神や自己分析が、興味深い。 

 

 

沖縄がかつて直面した、

そしていくつかは今も直面している、

人頭税という圧政や、風土病マラリア

気象条件である台風、大戦末期の地上戦、

基地問題などの、過酷な歴史と運命。

そのなかで生まれ、土地に根付いている、

固有の歌や踊り、また信仰のあり方に、

沖縄文化の特性を見出し、

そしてそこに忘れられた古来の日本が生きているという、

斬新で大胆な文化論。

特に沖縄本島に程近い久高島では、

なんのモニュメントもない、一見するところ空地のような、

御嶽/うたきという聖地に衝撃をうけ、その清浄さ・潔さを、

物質にまつわる不浄さ・不潔さと対比する感受性は、

現代のわたしたちに親しいものではないだろうか。

 

一方で、失われゆく無形文化を嘆くばかりの、

当時の沖縄への物足りなさをも、

今いったい何を生み出しているのか、と指摘する。 

 

また、本土における花柳界の舞踊や歌舞伎、

わびさびの文化や形式主義などを通じて、

事あるごとに言及される本国への批判は、

鋭く的確だ。

 

 

2008年にはじめて中公文庫版を読んでから、

再読する度に、新たな感銘を受けているが、

今回もっとも印象にのこったのは、

人間の純粋な生き方というものがどんなに神秘であるかを

伝えたかった、という一文だ。

 

およそ半世紀前に、氏が沖縄との出逢いから、

日本および自己を発見した道のりは、

現在のわたしたちにも、多くの示唆を与え、

また自分自身のこととして、

いきいきと鳴り響いてくるのだった。