映画 エミール・クストリッツァ | UNDERGROUND

エミール・クストリッツァの「アンダグーラウンド」を観た。

 

1995年に制作された長編5作目にあたる本作は、

集大成のような、ベスト盤のような映画だと、

監督は語っている。

 

物語は、 

ふたりの男の間に交わされた友情と裏切りや、

人々を騙し利用しつづけた男と女の人生が、

ユーゴスラビアにおける戦争・紛争、

そして国の解体という歴史とともに綴られた、

171分のスペクタクルな叙事詩だ。

 

1941年のナチスによる首都ベオグラード爆撃を起点とし、

第二次世界大戦末期の占領からの解放、

つづく世界的な冷戦時代における、

パルチザン指導者チトーによる、かりそめの国家統一、

その後の社会主義体制崩壊に伴う、1992年の内戦までの、

50年にわたる旧ユーゴスラビアの歴史を辿る。

 

友情でかたく結ばれていたかのようにみえたふたりの男だが、

恋のために、また政治的な利害のために、裏切りが行われる。

表向きはパルチザンの英雄として地位と権力を得る一方で、

20年間にわたり数十名の縁者たちを地下貯蔵庫にかくまい、

地上ではナチスによる占領が未だ続いていると騙しつづけて、

武器を製造させ、荒稼ぎをした、男と女。

裏切られた男は、物語の終盤で、

かつての相棒と恋人を、はからずも葬ることになる。

 

 

ユーゴスラビアサラエボを故郷にもつ監督は、

本質的に悲劇の要素の色濃い物語を、

きわめて意図的に、喜劇的に仕立てている。

全編を通して、景気のよいフォークロアな音楽が

カーニバルのように鳴りつづける、

凝りに凝ったビジュアル・アーツという印象だ。

俳優たちの巧みさにも、惚れぼれとした。

 

冒頭のベオグラード爆撃による惨事は、

動物園の動物たちとともに描かれたことで、

かえって人間たちの罪の深さがうかびあがり、痛切だ。

そのナチスによる爆撃以上に、

占領解放のための連合軍の爆撃のほうが激しかった、

というナレーションに、どきりとする。

英雄として語られることの多いパルチザンが、

ならず者の犯罪者として描かれているところも、興味深い。

 

ユニークな天国的なラストシーンでは、

ユーゴスラビアを模った土地が、半島から分離しつつ、

ゆっくりと沖へと漂ってゆく。

その島のうえでは、

物語から消滅したはずの登場人物たちが、

すべての重荷から解放され、

音楽とともに歌い踊り、和解する。

「許そう、でも忘れないぞ」という印象的な言葉が、

朗らかに語られることで象徴されるように、

つかの間、この映画を共に生きた私たち観客は、

癒され、清められ、希望を見出すことができる。

 

 

ごく短いシーンだが印象にのこったのは、

路上にホワイトでト音記号と五線がひかれ、

子供たちがそのうえに、音符のごとくちらばり、

リトミックのように舞うシーンだ。

 

ルノワールフェリーニタルコフスキーなどを敬愛する

クストリッツァ監督ならではの、

なにがしの映画からの引用かもしれない、と思った。

そうだとしたら、いつかひょっこり、

オマージュを捧げたその映画に出逢えるだろうか。

そうでなくとも、荒廃した土地に奇跡的に咲くタンポポのような、

このささやかなシーンは、鮮明に記憶に残った。

 

故国の喪失をとおして監督が抱いた希望、

殺し合いにそそいできた情熱を、

よりよい目的のために使ってほしい、という希望が、

タンポポの綿毛のように、風にのって飛んでゆき、

花を咲かせるといいと、心から願う。