佐賀町日記

林ひとみ

佐賀の旅 その弐

はじめての佐賀の旅。

 

お昼を食べるのも忘れて、

ときどきベンチをみつけては、

佐賀名物のボーロをいただきながら、

南のほう、お城跡のほうへ向かって歩く。

 

ずいぶんと大きなお濠に沿って、

見事な樟/くすの並木が続いている。

戦国時代の大名・龍造寺/りゅうぞうじ家の村中城を、

家臣の鍋島家が継いで整備拡張した17世紀頃に

植えられたといわれる樟で、樹齢300年以上にもなるそう。

この街は、ほんとうに樟の木が多い。

お濠をこえてすぐ、

県立図書館、博物館と美術館が左右にひろがっている。

典型的なモダニズムの建築で、図書館と博物館は、

内田洋哉/よしちか氏と第一工房の高橋靗一/ていいち氏との

共同設計、美術館は安井建築設計事務所によるもので、

佐賀の控えめな上質さみたいな気風にもよく馴染んでいるよう。

復元された天守台の、石垣の刻印をみつけて遊んだり、

何かのアートイベントのひとつなのか、

伊万里焼のたくさんの風鈴の音色に魅了されて、

しばし芝に座り込み、日向ぼっこしたり。

風鈴を数えてみたら99個。

風のリズムと磁器のハーモニーが、

不思議な世界に連れていってくれた。

 

かつての泉山や天草など良質な陶石の採れる九州には、

有田の伊万里や鍋島、長崎の波佐見や三河内、

茶の唐津、民芸の小石原や小鹿田、

沈壽官の薩摩などなど、美術品から雑器まで、

たくさんのやきものがつくられている。

そのルーツは大陸、中国や朝鮮の高い技術にある。

わたしも器をつくるとき、

ときどき九州の白い土をつかう。

 

長崎と小倉をむすぶかつての長崎街道

特に貴重なお砂糖や南蛮菓子を運んだことから、

近年シュガーロードともいわれる昔の街道沿いに、

古い町並みが動態保存されている地区がある。

そこへ向かう道すがら、和菓子屋さんの角で、

いちご大福を食べているふたりの女の子に道を訊ねた。

丁度その角に江戸時代の粋な道しるべがあるのが面白い。

1mくらいの石柱に、人差し指で方向を示すマークとともに

「なかさきゑ」「こくらみち」と彫られてある。

話しの流れで「市外の方ですか?何で来られたのですか?」

と聞かれたので「佐賀」に縁があって云々・・と説明するうちに、

佐賀大学芸術地域デザイン学部の学生さんということがわかり、

「このさびれた通りを活性化するためにリサーチしているところです」という。

ひとりは山口、ひとりは佐賀の出身だそう。

だから思わずお伝えしてしまう。

「さびれたというと残念に聞こえるけれど、

 さびれたまま魅力的に発信するのはどうかしら?」

「観光立国といって政府は旗を振っているけれど、

 お客さん向きばかりでなくて、

 住んでいる人を幸せにする街づくりがほんとうだと思う」

「観光地化されていない街ってすごく魅力的」

などとディスカッションしつつ、

先の陶器屋さんのご主人の話を思い出す。

「なんで佐賀に?何もないでしょう」といわれたことや、

佐賀は「クラーク」という小さな水路の多い街であること、

どうしてか台風や地震の影響をあまり受けないこと、などなど。

そして彼女たちの話をきけたのもよかった。

今どきの学生さんはとても自然体にみえる。

慣れ親しんだ世界から、すこし広い未知の世界へ、

羽をひろげているところだろうか。

わたしにも未だにそんなところがあるけれど、

そんなふうに行き当りばったりの旅を楽しんでいると、

あっという間に空港行きのバスの時間になってしまった。

もうすこし見たい知りたいところがあったので、

また来よう。

 

帰りのバスのなかで、

沖縄の竹富島のことを思い出す。

水牛車で町中を練り歩く私たち観光客を避けるように、

島に暮らす人たちは屋内で、

ひっそりとしているようにみえたこと。

目線の高い水牛車から石垣越しに家々が見渡せて、

なんだか居心地がわるかったこと。

また自由が丘に住む友人は、

コロナ以前の休日は観光客の街になってしまって、

ふつうの生活ができないといっていたし、

京都の友人は、インバウンドの人であふれかえって、

ごみの散らかりようがすごいといっていた。

元祖・観光大国のフランスやイタリアの事情はどうだろう。

 

人はなぜ旅に出るのだろう。

それぞれちがうのは当たり前だけれど、

本質的には自分を拡張するためではないだろうか。

いちご大福をほおばる学生たちのように、

未知の世界へむかって羽ばたくように。