佐賀町日記

林ひとみ

夏の札幌-後編 鈴木康広展

昼前から雨が降り出した札幌。

霧のようなものかかって薄暗い。

 

ホテルで傘をお借りして、

路面電車で図書館へ向かう。

館内は広々としてゆとりがあるので、

本もゆったりと棚に収まっているようにみえる。

本の背に目を泳がせる楽しさや、

その陳列からの予期せぬ出会いがうれしい。

その日は脈絡もなく、

声の不思議ー診察室からのアプローチ/一色信彦著、

詩集「絵本 復刻普及版」谷川俊太郎著、

新潮社の三島由紀夫全集37・・・などを手にとる。

ほんの軽い気持ちで開いたページが、

思いもよらず深く意識に残るということもある。

 

帰りがけに、パンフレットスタンドでみつけた

美術作家・鈴木康広の個展を観る。

 

会場は札幌の時計台の程近く、

札幌市民交流プラザの、

札幌文化芸術交流センター SCARTSという場所だった。

道を訊ねた市電の運転手さんは「え?」といい、

チラシの概念図を差し出しても「ん??」といいつつ、

最寄りの停車所を教えてくださる。降りる際には

全く別の方角をさして「あっちのほうだから!」と、

親切丁寧に教えてくれたのだった。

名称が重なり合っていて分かりにくいのと、

昨秋にできた新しい施設のようなので、

まだあまり浸透していないのかもしれない。

 

心細くも地図を片手に辿りつくと、

ガリバーのように巨大な「空気の人」が横たわっていた。

浮輪のごとく膨らんだプラスチック製の透明の人型だけれど、

ただ大きいというだけで、なんとも心が動かされる。

この日は地に横たわっていたが、場合によっては

ヘリウムガスで宙に浮かせることもできるようで、

想像するとわくわくする。

「雪の消息|残像の庭」 と題された展覧会は、

暗闇のなかでかすかな存在の光が発光するような、

気持ちのよい展覧会だった。

 

出品された26の作品は、

真っ暗に設えられた小ぶりの2つ展示室と、

明るい開放的なアトリウムに配置されていた。

なかでも印象的だったのは、

氷でつくった人型が自然に溶けてゆく「氷の人」、

切り株形の器に天井から水が滴り落ち

あたかも年輪のように波紋の広がる「水の切り株」、

水槽のなかに逆さに置かれた天秤に

下から空気の泡をあてる「軽さを測る天秤」、

’ 現在 ’ と表記された実務的なゴム印を捺すと

’ 過去 ’ と捺印される「現在/過去」と、

そのバリエーションの「ここ/そこ」。

 

ごくシンプルで誰にでもわかる作品だけれど、

わたしたちの意識や感覚を揺さぶり拡大させる仕組みになっていて、

それが心地よくポジティブな揺さぶりであることに、

作家の誠実さを感じた。

 

人の存在の不確かさや心もとなさ、

認識の不完全さや、時間の掴みどころのなさなどを

ユニークに可視化して、

その遊びの純粋性が際立っていると思った。

滑稽さと紙一重なところも絶妙だ。

 

今に始まったことではないと思うけれど、

ほんとうに様々色々な表現があふれていて、

そのどれもが必然だということはよくわかる。

表現の自由が解放されているからこそ、

そのなかで共感できるものというのは多くないので、

この展覧会をみることができて、ほんとうによかった。

 

それに変な言い方だけれど、

会場がほどよく空いていたので、

心ゆくまで作品を体験できたことも幸いだった。

 

わたしにとって美術館や図書館は、

たとえるなら神社仏閣や教会などの

祈りの場とも通ずるような、

自分自身とつながる場所なのかもしれない。