佐賀町日記

林ひとみ

建築 21世紀キリスト教会 | 安藤忠雄

渋谷区広尾に2014年に建てられた

安藤忠雄氏設計による「21世紀キリスト教会」へ見学に行った。

 

日曜日11時からの礼拝に参加する。

50名ほどだろうか、比較的若い人々を主に会場は埋まり、

前半30分は讃美歌、後半30分は講壇にあてられ、

この日は「尊敬」と「天国の文化」について、新約聖書を読み解く。

 

プロテスタントの増山牧師は、

かつてビジネスマンであったという異色の経歴からも

聖俗に通じ、広く人の心をつかむ、

明るく親しみやすいお人柄という印象だった。

時代に寄り添った教会の在り方を模索する様に

共感するところが多かった。

 

教会の建物は、コンクリートの打ちっぱなしで、

上からみると二等辺三角形に設計されていることが特徴的だ。

1Fに礼拝堂やオフィスが、

B1にカフェや祈りの部屋などが配された、牧師私設の建物だそうだ。

礼拝堂は木のぬくもりが感じられる空間で、

東を向いた二等辺三角形の先端には、

建物全体をつらぬいてガラスがはめこまれ、外光が穏やかに射し込んでいる。

ごく細い象徴的な十字架が、背面からその自然光に照らされて

宙に浮かびあがるような、現代的な美しい礼拝堂だった。

 

建物はその内部での営みに働きかけるだろうし、

内部での営みは建物に生命と輝きを与えるだろう。

 

人々の拠り所として、

建物も教会も信仰も、すばらしく機能していた。

 

 

聖書を手に、よく知られるヨハネ福音書の冒頭をめくる。

「初めに、ことばがあった。

ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

 

また、十字架にかけられたイエスが、

自分を磔刑する者たちについて言及したと伝えられる、

慈悲深くも絶望的な、ルカの福音書23章34節の言葉をひく。

「父よ。彼らをお赦しください。

彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

 

建築家とその作品を通して、 

図らずも、様々な祈りに触れた安息日だった。

大久保混声合唱団 第40回定期演奏会

大久保混声合唱団の第40回定期演奏会

勝どきの第一生命ホールで聴いた。

 

ほぼ満員の客席は、創立59年という合唱団の

厚みのある歴史を物語っているかのよう。

演奏会は4つのステージで構成されていたが、

とくに後半のふたつのステージを楽しく聴いた。

 

明るい歌声と、白を基調とした衣装が清々しい前半から

休憩をはさみ、後半の「近代日本名歌抄」は、

大正から昭和初期に親しまれた歌謡曲や童謡を

信長貴富/のぶながたかとみが編曲した作品群だ。

本ステージでは「あの町この町」「宵待草」「ゴンドラの唄」

「青い眼の人形」「カチューシャの唄」が演奏されたが、

リラックスした、のびのびとした歌唱に心が和む。

様々な実人生が集い交わるアマチュアの合唱団の、

歌うことを生業とした歌手たちには持ち難い

ある種のリアルさを演奏から感じることができ、有意義だった。

鮮やかな編曲により新しい息吹が吹き込まれた大衆歌は、

黒澤明の映画「生きる」の「いのち短し 恋せよ乙女」とは異質の

明朗な歌として印象にのこった。

 

最終ステージでは、

1983年生まれの作曲家・面川倫一/おもかわのりかずに委嘱された

組曲「サムのブルー」が初演された。

朝日新聞折々のうた」で広く知られる詩人・大岡信

若かりし頃の、宙を舞うような熱気あふれるテキストに寄り添った、

骨太でまっすぐな、衒い/てらいのないサウンドという印象だ。

作曲家が合唱団を理解し、誠意をこめて作曲していること、

合唱団が作品を愛し、大切にしていることが伝わってくる

幸福なコラボレーションだった。

 

新しいものがあちこちで、次々とうまれている。

それらが、破壊ではなく建設を、

疑いではなく肯定を、悲しみの先の喜びを希求する、

純粋で強度のある創造であると、しあわせだ。

 

そろそろ、今年も蝉が鳴きはじめた。

蝉たちの共鳴のすばらしさといったら。

たまたま見たふたつに割れた胴体は、

ほんとうに楽器のように空洞だった。

夏の名歌手たちは、なにを歌っているのだろう。

彼らの言葉が聴けたらいいのに。

旧古河庭園と洋館/大谷美術館

陽射しはつよいが風のきもちよい午後、

北区西ヶ原の旧古河庭園と洋館/大谷美術館へ行った。

 

国指定名勝として東京都が管理している庭園は

バラの見どころとして知られ

春と秋のシーズンは混雑しているようだが、

その日は休日にもかかわらず、

ゆったりとした時間が流れていた。

 

高低差のある敷地30780㎡は

台地・斜面・低地にまたがる地形を活かした

立体的で彫塑的な庭園という印象だった。

小高い丘に建つ石造りの洋館から見渡す

斜面に配された洋風庭園と、低地にひろがる日本庭園は、

それぞれが自律しつつ、ほどよく調和していた。

かつては借景として、

庭園のはるか彼方に富士が望まれたときき、

目を閉じて、イメージしてみる。

 

明治の頃には、

政治家・陸奥宗光/むつむねみつの邸宅であったそうだが、

陸奥氏のご次男が養子にでた際に、その養家である

足尾銅山などの事業を成した財閥・古河家の土地となったという。

 

建築家ジョサイア・コンドル設計による洋館/大谷美術館は、

三代目当主にあたる古河虎之助が1917年/大正6年に建てたもので、

関東大震災や戦争をくぐりぬけ、築99年になるにもかかわらず、

床が軋むことも、くたびれた雰囲気もなく、良好に保存されていた。

所有権をめぐる複雑な事情から、戦後30年ほど放置され、

現在は洋館にかぎり大谷美術館が管理・運営し、

見学を制限していることも幸いしているのかもしれない。

 

イギリス人のジョサイア・コンドル/1852‐1920は

25歳で招聘され来日して以来、生涯を日本で過ごし、

近代建築の創成期に重要な仕事をした建築家だ。

現存する旧岩崎邸や、レプリカではあるものの三菱一号館などで

その仕事に触れることができるが、

旧古河虎之助邸はコンドルの遺作として、

また洋館2Fの居住空間にユニークに和室が組み込まれている構造が

当時の文化状況を偲ばせるようで、とても興味深い。

 

同じくコンドルの設計による洋風庭園と、

京都の庭師・植治こと

七代目小川治兵衛/おがわじへいによる日本庭園を堪能し、

現在は喫茶室として開放されている

洋館1Fの応接室・小食堂・大食堂のうち、

深紅のビロードの壁紙が華やかな大食堂で、ひと息つく。

 

さわやかな風が北から南へ、丘のうえの洋館を通り抜ける。

どこかイングマール・ベルイマンの映画「叫びとささやき」の

赤の部屋を彷彿とさせる幻想的な空間のなかで、

しばしまどろむ、盛夏の昼下がりだった。

展示 フリーダ・カーロと石内都

七夕のころ、

石内都展「Frida is」を資生堂ギャラリーで観た。

 

1947年生まれの写真家・石内都/いしうちみやこは、

かつての生者たちの遺物を女性らしい繊細さで記録した仕事、

近年の「Mother's」や「ひろしま」「Frida by Ishiuchi」などで

よく知られている。

 

本展は

2012年の作品「Frida by Ishiuchi」と

その続編にあたる2016年の「Frida Love and Pain」からの

31点の作品/写真で構成されていた。

 

ギャラリーの壁面はそれぞれ、

原色の青・赤・黄、そして鮮やかなすみれ色にペイントされ、

メキシコの女性画家のヴィヴィットでカラフルな遺品たちは、

白いフレームに縁どられた写真のなかで、なまめかしく息づいていた。

 

フリーダ・カーロ/1907‐1954年は

もちまえの強く類いまれなる個性から、

幼年時に患った感染症ポリオによる足の障害や

10代後半で遭遇したバス事故による後遺症および度重なる手術に、

また画家である夫ディエゴ・リベラとの愛の確執に、負けていない。

 

ポリオのために成長が異なる左右でサイズの違う靴や、

カラフルな素描で埋め尽くされた胴体のギブスは、

まるで彼女の代名詞であるかのような圧倒的な存在感だ。

些細な身の回りの小品、

体温計・空き瓶・割れたサングラスなどからも

ただならぬ気配が漂うが、

それは表現する者と観る者の双方が

大小なり彼女の人生を共有しているからなのだろう。

 

ふと、コンセプチュアルな表現にときにみられる

非自律性という弱点あるいは美点を意識した。

不在の被写体であるフリーダ・カーロの人生を知らぬとき

人は何をどう観てよいのかと戸惑うかもしれない。

あるいはよく知っている場合、感慨は密やかでありながら、

またそのためにいっそう甘美であるかもしれない。

 

 

7月7日、

東京の夜空は、日中の晴天から一転し、

どんよりとしたあつい雲に覆われていた。

織姫と彦星は無事に再会できただろうか。

 

星のひとつとなったフリーダ・カーロ

地上の痛みから解き放たれて

幸福な愛に恵まれていますように。 

六等星 

7月10日は参議院選挙の投票日。

選挙公報に目を通すものの、考えがまとまらない。

 

無性に、漫画家・手塚治虫

晩年の傑作ブラック・ジャック・シリーズの

短編「六等星」を読み返したくなった。

 

ある夏の夜、

ブラック・ジャックピノコのいた

花火大会の会場で、花火の誤爆事故が起こる。

その帰路、夜空を見上げたふたりの上には、

一等星から六等星までいくつもの星が瞬き、

かすかに輝く六等星にさそわれるように、

ある映えない医師・椎竹/しいたけ先生の挿話が語られる。

病院の院長が急死した真中病院では、新たな院長の座をめぐり、

山崎豊子白い巨塔のような駆け引きが繰り広げられていたが、

控えめで目立たないが人のいいベテランの椎竹先生は、

じっとだまって事の成り行きを見守っていた。

やがて院長選のための汚職が表沙汰になり、主だった医師達が逮捕されるなか、

冒頭の花火の誤爆事故による負傷者が運び込まれて、

難しい手術を下働きばかり担当していた椎竹先生が執刀することになる。

思わぬ巡りあわせから実力を発揮することになった椎竹先生は、

正当な評価を得るだろうという余韻のうちに物語は幕を閉じる。

 

星の等級は、

私たちの目に届く明るさによって定められているため、

実際の星のエネルギーと等しいとは限らない。

 

理想的な政治家に対するビジョンが不明瞭ななか、

ひとつのモデルとして、椎竹先生のような、

目立たないが堅実で実務能力のある人物を思い浮かべた。

 

「先生はベテランだ!なぜもっと地位を望まないのですか?」

ブラック・ジャックに問われた椎竹先生は応答する。

「医者は欲が優先しちゃおしまいですよ」と。

 

思えば、戦後1945年までは

私たち国民に選挙権は等しくなかったのだから、

ほんとうに貴重な、ひとりにひとつの票だと思う。 

 

だから喜んで、期日前投票へ行こうと思う。

思うように実を結んでも、結ばなくても。

展示 北大路魯山人の美

展覧会「北大路魯山人の美 和食の天才」を

三井記念美術館でみた。

 

「和食」のユネスコ無形文化遺産登録の記念展として

2015年6月より京都国立近代美術館で開催され、

同年8月に島根の足立美術館を、

2016年4月からは東京を巡回している企画展だ。

 

北大路魯山人/きたおおじろさんじんは

1883年に京都上賀茂神社社家の次男として生まれたが、

生後6か月で養子としてあずけられ、

6歳で再び他家の養子となる複雑な幼年時代を送る。

1903年/20歳で実母をたよって上京し、

まもなく書で認められ書道教授として独立するも、

朝鮮や中国、滋賀や金沢などを渡り歩き、

見聞見識および数寄者らとの交流を深める。

1919年/36歳で鎌倉に移り住むとともに、

大雅堂という古美術店を東京京橋にて共同経営し、

ほどなく会員制の美食倶楽部を始め、

魯山人と名乗るようになる。

1924年/41歳で東京赤坂・日枝神社境内の

星岡茶寮/ほしがおかさりょうを借り受け、

翌年開業、顧問兼料理長となり、

1926年には北鎌倉に星岡窯/せいこうようを築き、

茶寮のための器を創作しはじめる。

1936年/53歳で茶寮を解雇となるも、

作陶をはじめとする創作は海外でも好評を博し、

また様々な独自の逸話をのこして、

1959年/76歳で肝硬変のため逝去した。

 

展覧会は「器は料理の着物」という魯山人の言葉を題し、

その創作の中心であった和食器およそ120点と

数点の書画とで構成されていた。

 

作家ともデザイナーとも趣味人とも言い得ぬ

独特の立ちまわりで采配をふるった、

クリエイティブディレクターとアーティストを合わせたような、

プロジェクトリーダーともいえるだろうか。

 

古陶磁を熟知していたという魯山人ならではの、

志野や織部や伊賀や備前、粉引きや染付や上絵付けといった

様々な技法を用いながら、

なんとも楽しそうに、遊ぶように、おおらかに、

作陶に取り組んでいる様が伝わってくる。

 

織部の大きな長板皿には、

線刻で描かれた草むらのなかに

ひょうきんなコオロギが一匹、ちょこんととまっている。

大鉢に施されたもみじの絵柄は、

器の外側手前に幹が、内側向こうに紅葉が描かれ、

正面から対峙すると1本のもみじの樹が完成し、

ひとつの立体的な絵画をみているようだった。

 

誰からもすかれるようなタイプではなく、

むしろ敵をつくってしまうような

むつかしいところのあった人のようだが、

その創意にあらわれる花鳥風月は、

ユーモラスでどこかやさしい。

 

その思想の随所からは、

無形文化遺産として認められる和食の価値を

充分よく知っていた人なのだろうと感じられる、

親しみやすい展覧会だった。

梅酒つくり

梅雨どきの楽しみに、

旬をむかえた梅を梅酒用に仕込んだ。

 

バラ科サクラ属である梅の実の香りは、

同じバラ科でモモ属にあたる桃の香りと、

同じくバラ科でリンゴ属にあたるりんごの香りを併せたような

奥行きのある芳香で、触れていると気持ちよい。

 

梅の実は、薬にも用いられるほどの効能をもつ反面、

未熟な青梅には青酸が含まれており生食は危険だという。

薬と毒という両義性をもつ、

魅惑のあるいは禁断の果実ともいえるだろう。

 

みりん屋さんに教わった梅酒の作り方は、

青梅をかるく洗浄し、へたを取りのぞき、

本みりんに漬けおくというもので、

クリスマス頃にはおいしい梅酒ができあがるという。

 

そのシンプルな材料と作り方に魅かれて、 

奈良の青梅1kg/70個を、1Lの本みりんに漬け込んだ。

冷暗所で半年の間、健やかに熟成されますように。

 

できあがりが楽しみだ。

メフィストフェレス

文豪ゲーテの戯曲「ファウスト」に登場する

悪魔メフィストフェレスの存在は興味深い。

 

ファウスト」は、

ゲーテが20代で初稿を執筆して以来、

第一部は1808年/著者59歳、

第二部は死後翌年の1833年に出版されたという、

生涯を通じてしたためられた大作だ。

 

ごく一部の散文を除いて

全12111行の詩で構成されている物語のなかで、

ことあるごとに思い返す、第一部・書斎の場面での

メフィストフェレスの自己紹介/詩1335‐1336について、

さまざまな邦訳を、現行版を参照しつつ、

できるかぎり初出本をあたってみた。

 

ファウスト博士から「あなたはなにものか」と問われ

メフィストフェレスは答える。

 

 

我は夫₍か₎の恒に悪を計りて、而も恒に善を生ずる力の一部なり。

  訳:高橋五郎 前川文栄閣/1904年 

 

常に悪を欲し、却て常に善を為す、彼力の一部です。

  訳:森林太郎(鴎外)冨山房/1913年

 

常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力の一部分です。

  訳:相良守峯 育生社・ゲーテ全集1/1947年

 

つねに悪を欲してつねに善をなす力の一部分です。

  訳:大山定一 人文書院ゲーテ全集2/1960年 

 

常に悪を欲し、かえって常に善をなすあの力の一部です。

  訳:高橋健二 河出書房/1951年

 

常に悪を欲し、常に善をなす、あの力の一部分です。

  訳:高橋義孝 新潮社・世界文学全集1/1962年 

 

つねに悪を欲して、しかもつねに善をおこなうあの力の一部です。

  訳:手塚富雄 中央公論社・世界の文学5/1964年

 

いつも悪をのぞんで、しかも、いつも善をつくる、あの力の一部です。

  訳:井上正蔵 集英社・世界文学全集7/1976年

 

私は常に悪を欲し常に善をなすあの力の一部分です。

  訳:柴田翔 講談社・世界文学全集19/1977年

 

たえず悪を欲して、しかもたえず善を行なう、あの力の一部です。

  訳:山下肇 潮出版社ゲーテ全集3/1992年

 

例の、問題の力の片割れです、いつも悪を望んでいて、たえず善をなす力です。

  訳:小西悟 大月書店/1998年

 

私はあの力の一部分 常に悪を欲し常に善をなす あの力の一部分です。

  訳:柴田翔 講談社/1999年

 

悪を欲しながら、いつも善をなしてしまう、あのおなじみさんの一人です。

  訳:池内紀 集英社/1999年

 

悪いことをしたいと思っているのに、結果的に善いことばかりしてしまう。

わたしは、そんな「力」の、ほんの一部分なんだよね。

  訳:荒俣宏 新書館/2011年 

 

あの力の一部なのです。

いつも悪いことをしようとして、結局良いことをしてしまう。 

  訳:和田孝三 創英社/2012年

 

 

記念すべき初邦訳から現行の主要な邦訳を

およそ年代順に並べてみたが、 

大勢に影響はないものの、微妙にニュアンスが異なり、

それぞれの解釈や哲学を垣間見るようで興味深い。

 

ときおり

善悪を逆さまに思い浮かべることがある。

 

つねに善を欲し、かえって常に悪をなす、あの力の一部です。

 

善と悪は一対で協働し、

より大きな秩序に還元されるということだろうか。

勧善懲悪はナンセンスとでもいいたげな、

ゲーテの一筋縄ではいかない精神に魅せられる。

惑星地球

地球はおよそ

時速1666㎞/秒速460mで自転しながら、

時速10万㎞/秒速30㎞で太陽のまわりを公転しているという。 

 

私たちは地上に存在しながらも

その速度を体感することはないため事実を忘れがちだが、

ふとしたときに惑星の驚異的な運動を想像すると

地上に存在していることが奇跡のように感じられる。

 

たとえば 

太陽が地球の周りをまわっていたと信じられていた

17世紀頃のことを想像してみる。

その時代の人々が

21世紀の携帯電話や飛行機やインターネットを目前にしたら、

摩訶不思議な物事として、

驚きを通り越して恐れを感じるかもしれない。

あるいは私たちのことを宇宙人だと思うかもしれない。

 

とすると、私たちがいま宇宙人といって

好奇心と恐れを感じている存在たちは、

タイムスリップしてやってきた未来の私たち

という可能性もあるのかもしれない。

 

惑星地球は、

認識の違いはあるにせよ、17世紀にも21世紀の今日にも、

時速1666㎞/秒速460mで自転しながら、

時速10万㎞/秒速30㎞で太陽のまわりを公転している。

 

あるいは、事実や真実はひとつではなく、

いくつあってもよいのだろう。

火球

6月2日の22時すこし前に南西の空にみた

明るく大きな流れ星は火球/かきゅうといい、

その跡の飛行機雲のようなものは

流星痕/りゅうせいこんというそうだ。

 

日本では平均すると

月に数個程度の頻度で目撃されているという。

 

その夜は

同時刻にかなり多くの人がみていたようだ。

 

空の出来事の神秘にどきどきする。

流れ星

昨夜22時すこし前、

風のある曇った南西の夜空に

不思議な光が流れ落ちるのをみた。

 

就寝前に軽くストレッチをした後

しばらく空を眺めるいつも通りの夜だったが、

比較的空の低い位置に、

かすかに青白く点滅しながら動く綺麗な光が目に入り、

しばらく見とれていた。

きらきらとした規則的な光は、ときおり不規則的に

花火のように広がって光ったようにみえた。

するとまた規則的に点滅しながら動いているようなので、

疲れ目の錯覚かもしれないと考えていた。

 

すると、音もなくすぅーっと

別の光が斜め45度に落下した。

一瞬のことだったが、すこし西寄りの同じ高さの空で、

くすんだオレンジ色と白色が合わさったような光の塊が、

とてもはっきりとドラマティックに落下した。

その跡には飛行機雲のようなものがみえた。

流れ星だろうか。

 

何度かみたことがある

高い空をロマンティックに流れる星とは異質の、

また20年前に北海道の函館山でみた

ジグザグに素早く動くおそらくUFOとも異質の、

不思議な光だった。

 

同じときに同じ空を見上げていた方、

どなたかいらっしゃいますか。

広島と長崎

2016年5月27日夕方

伊勢志摩サミットのために来日していた

アメリカのオバマ大統領が広島を訪れスピーチを行った。

 

翌日の新聞には

その英語原文と日本語訳が掲載され、

日経、朝日、毎日の各紙の邦訳はそれぞれに魅力的で、

読み応えがあった。

 

歴史的に意義深い、

記憶に残るスピーチだったと感じた。

何度も読み返したくなる永久保存版のテキスト。

 

とくに印象に残った一文は、

We're not bound by genetic code to repeat the mistakes of the past.

We can learn. We can choose.

 

 遺伝情報のせいで、

 同じ過ちを繰り返してしまうと考えるべきではない。

 我々は過去から学び、選択できる。/日経 

 

 私たちは遺伝情報によって、

 過去の間違いを繰り返す運命を定められているわけではありません。

 私たちは学び、選ぶことができます。/朝日

 

 私たちは過去の失敗を繰り返すよう

 遺伝子で決められているわけではありません。

 私たちは学ぶことができます。選ぶことができます。 /毎日

 

 

どのようなときにも

私たちには選択する力を通して

自由と責任が与えられている。

 

スピーチのなかでも語られたように、

子供たちはいつの時代でも

純真さや未来を象徴するまぶしい存在だ。

すべての大人はかつて子供であったし、

あるいは大人になっても、

その小さな子供の自分とずっと一緒にいつづける、

というのが、わたしの実感だ。

 

ひょっとすると「小ささ」というのは、

ひとつの「力」の形態なのかもしれない。

たとえば音楽で、

ときに「p」がこの上ない表現であるように。

 

そういう小さな

ひとりひとりの希望を束ねたい。

 

広島と長崎は

無数の死者のたましいに

抱かれている聖地なのだと思った。

太陽チャージャー

数か月前からソーラーチャージャーを使い始めた。

 

太陽光ではじめてi phoneを充電したときの感動は、

人類がはじめて火を発見したときの感動に

比べるべくはないにしても、ほんとうに新鮮な喜びだった。

 

あまねく降り注ぐ太陽の光のエネルギーを、

私たちの生活に則したエネルギーに変換するテクノロジーは、

なんて素晴らしいのだろう。

 

住んでいる集合住宅の設計上、

窓ガラス越しの室内での発電だが、まったく問題はなく、

コンセント電源とくらべても充電時間に遜色はない。

 

充電式電池/単3と単4への

充電・蓄電ができるタイプの製品を選んだが、

生活のところどころで電池を使用しているため、

また雨や曇りの日には、

その電池から機器を充電することもできるため、

たいへん重宝している。

 

ごく小さなことだけれど、

太陽の光でエネルギーを賄えることが清々しい。

 

石炭や石油そして原子力のエネルギーに

感謝と敬意を表しつつ、

多くの人の意識が束ねられた結果として、

新しいエネルギーシステムへ穏やかに移行できたらうれしい。

 

また、空間に無限に偏在しているエネルギー、

フリーエネルギーへのアクセスも期待されているようだ。

 

人の意識とともに、テクノロジーも日々更新されている。

わくわく、楽しみだ。

演奏会 CANTUS ANIMAE The 20th Concert

混声合唱団Cantus Animae/カントゥス アニメの

第20回演奏会を第一生命ホールで聴いた。

 

Cantus Animaeの51人のステージは、

数年前に他界した作曲家/三善晃の作品と、

20回という節目の演奏会のために委嘱された

若手の作曲家3名の作品とで構成され、

20世紀から21世紀に引き継がれる

「つながる魂のうた」と題されていた。

 

委嘱というかたちで

同時代にうみだされた作品がとりわけ興味深いのは、

現在を映し出すとともに、

未来を設定するテンプレートのひとつにもなるからだ。

 

第Ⅰステージの委嘱初演作品は、

団員でもある安藤寛子の「智恵子の手紙」。

彫刻家/高村光太郎の妻智恵子が、

精神を病み恍惚の人となる直前の数年間に

実母に宛てた手紙と遺書をテキストとした本作は、

意欲的で前衛的な、女性ならではの作品という印象だ。

自らを追い詰め、壊れてしまった智恵子の心が

安らかであるようにと祈るばかりだが、

抑圧された女性性の解放という

現代的なテーマのひとつともいえる主題だと感じた。

 

第Ⅱステージの委嘱初演作品である

森田花央里の「石像の歌」は、ドイツの詩人リルケの作品を

作曲家自身の言葉で翻訳したテキストが印象的な、

ロマンティックで瑞々しい作品だ。

愛を求めると同時に恐れてもいる

傷つきやすい相反した心を、

曲の終結部が象徴しているようでユニークだ。

同時に数年前の作品、

竹久夢二の詩からなる組曲「青い小径」も演奏されたが、

どちらも合唱曲についてまわりがちな

野暮ったさを感じさせないところに好感を持った。

 

第Ⅲステージの委嘱初演作品は、

松本望の「二つの祈りの音楽」で、

文学者宗左近/そうさこんの詩による大きな合唱曲だ。

一曲目は、戦争と神を題材にした圧倒的なテキストに、

音楽は負けておらず、共に運命と戦っているようで胸に迫る。

つづく二曲目の、すべてが清められてゆく祈りの音楽に、

自分を委ねて歌うことができる幸せと、

自分を委ねて聴くことができる幸せとが一体となり、

終幕を迎える。

 

ラテン語で「魂の歌」という意をもつCantus Animaeのサウンドは、

ふくよかで立派なため、

それぞれの作品との相性がはっきりしていると感じたが、

そのようなこと以上に、音楽のもつ力は計り知れず、

また尊いものだと確認した。

 

心地よい余韻と臨海の海風につつまれながら、

そのままどこまでも歩いていけるような気がして、

時間を忘れて約3kmの帰路を歩いたのだった。 

本 ピエール・リヴィエールの犯罪 狂気と理性 | ミッシェル・フーコー編著

コレージュ・ド・フランス/国立特別高等教育機関における

哲学者ミッシェル・フーコー率いるゼミナールの共同研究書である、

「ピエール・リヴィエールの犯罪 狂気と理性」を読んだ。

オリジナルは1973年にガリマール出版社より、

邦訳は1975年に河出書房新社より刊行され、

幾度かの新装や改訂や新訳を重ねている作品だ。

 

ノルマンディーの農村に生まれ育った

20歳のピエール・リヴィエールは、

1835年6月3日に、実の母と姉と弟を殺害し、

およそ一か月逃亡したのち、7月2日に逮捕された。

当初「神が命じた」と供述し狂人を装ったことや、

犯人の特異な性質と独特の動機から、

その精神状態をめぐり様々な議論が交わされたが、

裁判では有罪および死刑の判決に至り、

上訴は却下されたものの、国王の特赦をうけ終身禁錮刑に減刑された。

約5年後の1840年に刑務所で自死し、

複雑な残響をのこしたまま、事件は歴史に埋没する。

 

およそ140年後に、コレージュ・ド・フランスのゼミ一同は、

精神医学と刑事裁判の歴史的関係を研究する過程で

リヴィエール事件と出会い、その成果を世に問うこととなる。

本書は、事件の訴訟関連資料と論評の二部から成り、

前半は、可能な限り調査・収集された

裁判関係書類・犯人の手記・当時の新聞記事等が掲載され、

時系列にしたがい、事件の全容をくまなく伝えている。

後半は、フーコーを含めた8名の編者たちによる、

多角的な論評が収められており、

事件の歴史的背景や、犯行と手記の相関性、

裁判の正当性や、司法と精神医学の関係等が考察されている。

 

ともあれ白眉は、質量ともども不思議な魅力をはなつ、

犯人/被告ピエール・リヴィエールによる手記だろう。

本書の原題「Moi, Pierre Rivière, ayant égorgé ma mère, ma sœur et mon frère…

/私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した」に、

その手記の書き出しが引用されていることからも察せられるように、

またフーコーが序論で言及しているように、 

ある種の美しさと驚嘆を喚起させられる。

予審に際し司法官の求めに応じて拘置所で書かれたものだが、

読み書きをろくに知らないと断っているものの、翻訳の力も借りてだろうか、

かなりの記憶力と素朴かつ力強い文章力で、生い立ちや家庭環境、

犯行までのいきさつや動機、犯行後の心情の変化や行動を、 

整然と子細に述べている。

 

産まれたときから両親の折り合いが悪く、

ヒステリックで意地の悪い母親は、穏やかで誠実な父親に対し、

罵詈雑言や借金の苦労を絶え間なく負わせていたため、

自分を犠牲にして父を救おうと思ったと告白している。

そして、父を苦しめていた母と、母に共謀した姉を殺害すること、

また弟については、母と姉を愛していたため、

加えて犯行後に父が自分を憐れむことのないよう、

父がとりわけ愛していた弟を殺害することで、

自分が死刑に殉じても心残りに思わずに、その後を幸福に暮らせるようにと、

犯行を決意したと記している。

 

裁判では、リヴィエールが白痴/狂人であるか否か、

すなわち罪となるか否かが論点となり、

13名の証人たちの供述には、低能/白痴であるという共通の認識や、

気ちがいとしか思われぬ奇行の目撃が多く寄せられ、

また父親もリヴィエールに対して匙を投げていたと見受けられる

客観的な証言も多い。

リヴィエールの供述および手記と、他者による証言には矛盾が多く、

どちらにも真実と主観的な見解が混在しているように見受けられ、

陪席員や医師たちの意見はほとんど二分し、

決定的な判定を導き出せなかったようだ。

専門家たちをはじめ各人におよんだ動揺の形跡が興味深い。

 

殺人という行為は決して肯定できないが、

意識あるいは無意識のいずれにせよ

多少の創作が行われているであろうその手記には、

同情を起こさせるある種の力がある。

自らを犠牲にして父を救ったという動機の深層は、

父親への愛情からというよりはむしろ、

ヒロイックなものであったと感じられるが、

犯行とともに、自分自身をも葬ってしまったかのように、

減刑もむなしく、死を希求し遂げている。

また、リヴィエールが意図したように、

その後に父親は幸福に暮らせたのだろうか。

仮にもし以前より幸福に暮らせたのだとしたら、

どのように事件を解釈したらよいのだろう。

 

映画監督ルネ・アリオは、 フーコーの仕事に共鳴し、

1976年に同名の映画を製作している。

当時助監督を務めたニコラ・フィリベールは、

2007年に「かつて、ノルマンディーで」を制作し、

撮影が行われたノルマンディー地方を30年ぶりに訪れ、

かつて映画に出演した村の人々と再会を果たしている。

翌年の日本公開時に観て以来、

ルネ・アリオの作品を観ることは叶わぬままだが、

本テキストに対峙するのに8年かかったことになる。

 

もう一度「かつて、ノルマンディーで」を観てみようと思う。

そして遠くない未来に、

ルネ・アリオ監督の解釈と創作に触れられることを期待して。