映画 東京裁判 | 小林正樹

映画監督・小林正樹が、5年の歳月をかけて

1983年に完成させた記録映画「東京裁判」を観た。

なぜ戦争が起こったのかという経緯や背景のみならず、

国際裁判をめぐる各国の思惑や各人の人間ドラマが、

277分の密度の高いフィルムにより浮き彫りになり、衝撃的だ。

 

通称・東京裁判、正式には極東国際軍事裁判

/INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FAR EAST は、

パリ不戦条約が交わされた年でもある1928/S03年より

太平洋戦争降伏に至る1945/S20年までの

およそ17年間の日本の戦争犯罪を問う軍事裁判だ。

 

連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は

西側で先行されたニュルンベルク裁判に倣い

1946年1月19日に極東国際軍事裁判所条例/憲章を発効。

昭和天皇45歳の誕生日である4月29日に起訴状全文と、

訴追される国の代表者あるいは指導者28名が発表され、

その運命は裁判を通して最高責任者である元帥に委ねられた。

 

市ヶ谷の旧陸軍省/現市ヶ谷記念館に設置された法廷で

1946年5月3日に開廷された一審制の裁判は、

各国を代表する11人の判事団のもと、

各国の代表からなる11人の検察団と

日本およびアメリカ人による約30人の弁護団の双方により

およそ2年間にわたり審議が展開され、

全員有罪という判決をもって

1948年11月12日に閉廷となる。

 

当初訴因は55項目にわたり、

「平和に対する罪」が36項目、

「殺人及び殺人の共同謀議」が16項目、

「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」が3項目、

という等級ABCの3種の罪に問われた。

冒頭2日間にわたる長大な起訴状朗読に続く

罪状認否/アレインメントでは全員が無罪を主張。

裁判2日目に正式に結成されたという弁護団

裁判の進行について2か月の、最低3週間の猶予を訴えたが、

1週間の休廷をはさみ裁判は続行された。

 

続いて5月13日/法廷4日目より

数日にわたり裁判管轄権問題が審議された。

裁判自体の正当性・公正性について

興味深い意見が交わされる、本裁判の要所のひとつだ。

ある行為を後になって法律をつくって処罰することは如何か、

仮に条項が有効ならば連合国をも拘束するはずである、

という弁護側の動議に、検察側は裁判の意義を激しく主張。

続く2人のアメリカ人弁護人による補足動議では、

国際法は国家利益のために行う戦争を

これまで非合法とみなしたことはない、

国家の行為である戦争の個人責任を問うことは誤りである、

勝者による敗者の裁きは公正たりえない、と異議を唱えた。

そして広島・長崎への原子爆弾投下について言及するくだりは、

国家を超越した一個人の、深慮と勇気が胸にせまる。

英米法に精通したアメリカ人弁護士の協力が必要であるという

日本側からの要求に応じたマッカーサー元帥を代表とする

アメリカという国の良質な一面に触れるようだった。

本件は理由を将来宣告するとして却下され、

うやむやなまま裁判は成立し、

各訴因の検察側の立証、弁護側の反証に突入する。

 

検察側の55項目にわたる立証は、

1946年6月4日より翌1月24日にかけて行われた。

この時点でようやく同時通訳のイヤホンが

整備されたというから、混乱のなかで

手探りで開始された裁判だったのだろう。

論告は主に、侵略戦争の計画遂行の共同謀議、

各国に対する戦争の計画・準備・開始・遂行、

開戦以前の条約違反、捕虜及び一般人の殺害、

戦争法規及び慣例法規違反などが、

満州事変、支那事変、三国同盟、太平洋戦争などの

各段階ごとに行われた。

国内での515のテロ事件や226のクーデター事件に象徴される

革命的情勢のなかでの軍国主義勢力台頭の推移や、

戦争へ向けての教育・宣伝・検閲などの圧政の事実に加え、

自国民もはじめて知ることとなった

満州事変に代表される非道な戦争行為や

南京事件などの暴虐行為が明らかになり、

当時のショックは大きかっただろうと察せられる。

ここに連合国軍による裁判の意義もあったといえるだろう。

 

続いて弁護側の反証は、

1947年2月24日より立証に対照して行われ、

9月10日からの個人反証の段階では、

各被告に1回のみ与えられた証言の機会に注目が集まる。

国家弁護を行ないながら同時に

個人弁護をも成立させる必要のある苦しい立場に、

うち9名の被告は証言台にたたないことを選んだという。

ダイジェスト版である本フィルムでは

幾人かの証言がクローズアップされているが、

そのひとつ、東郷外務大臣と嶋田海軍大臣

真珠湾攻撃におけるフライングの問題についての

証言の対立では、長年の関係不信の結果を、ひいては

国内の不和・分裂・機能不全の一端を垣間みるようだった。

また悪役として名高い東條総理大臣・陸軍大臣

国際法からみて戦争が正しき戦争か否かという問題と、

敗戦の責任問題は明らかに別個とし、

侵略ではなく自衛の戦争であったという主張の一方で、

敗戦の責任は総理大臣であった自分の責任と明言した。

また天皇の免責問題については

「意思と反しましたか知れませんが、とにかく、私の進言、

統帥部その他の責任者の進言によって、

しぶしぶご同意になられたというのが事実でしょう。

陛下は最後の一瞬に至るまで平和のご希望をもっておられました。

なお戦争になってからにおいても然りです」と証言している。

敗戦直後の9月11日、逮捕に際し拳銃による自決を計った氏は、

瀕死の状態を連合国軍により救命され、

裁判を経て死刑に処されたが、集中的な非難を一身に負いつつ、

毅然かつ明晰に答弁する姿は、大器の人であったと見受けられた。

 

昭和に入ってからの日本は

世界恐慌による経済不況や国内情勢の行き詰まりに加え、

列強または大国の隆盛に脅威を覚え、次第に

国の尊厳を傷つけられつつあると認識したようだ。

負けるとわかっていた戦争を、自暴自棄的にあるいは

盲目的に勝たねばならぬとして強行した立場の弱さは

神風特攻隊作戦などの狂気へ昇華されたかのようだ。

被告のひとりである賀屋大蔵大臣は

「ナチと一緒に、挙国一致、超党派的に

侵略計画を立てたという。そんなことはない。

軍部はつっぱしるといい、政治家は困るといい、

北だ南だと国内はがたがたで、

おかげでろくに計画もできず、戦争になってしまった。

それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」 

と象徴的な感想を伝えている。

 

1948年2月11日より

検察側の最終論告と弁護側の最終弁論が行われ、

4月16日をもって審理は終了となる。

証人喚問419名、口供書提出779名の、歴史的大裁判だ。

法廷は約7か月後の11月4日に再開され、

長大な判決文がおよそ1週間にわたり朗読されたという。

11月12日法廷第416日、

最終的に10項目にまとめられた訴因により、

各被告に刑の宣告が行われた。

Death by hanging/絞首刑7名、

Imprisonment for life/終身禁固刑16名、

7年および20年の禁固刑が各1名、

また公判中に病死した被告が2名、

精神障害により免訴となった被告が1名であった。

11月23日マッカーサー元帥は判決通りの刑の執行を決定し、

皇太子/現平成天皇の15歳の誕生日である12月23日に

厳かに刑は執行されたという。

現在7名は公務殉職者として、

安らかに眠っていると信じたい。

 

判決は11名の判事の多数決により判定されたが、

うち3名が反対の意見書を提出し、

なかでもインド代表・パール判事による

「パール判決書/Dissentiment Judgment of Justice Pal」は

その質量ともに圧倒的な、歴史的文献であるという。

法廷において朗読されることのなかったその意見書では、

裁判所条例といえども国際法をこえることは越権である、

国際裁判所の裁判官は最高司令官より上位にたって

裁定する権限をもつべきであると表明し、

この裁判においては日本の行為が侵略であったかを

正すことが本義であったにもかかわらず、

裁判所側がはじめから侵略戦争であったとの前提で

裁判を進めたこと、事後法である等を批判しているという。

「パール判決書」の全訳は、都築陽太郎氏による新訳が

2016年末に幻冬舎から刊行されたばかりなので、

既刊の講談社学術文庫版とともに、

日本語で本判決書の全貌に接することができ、興味深い。

 

また裁判長ウェッブ判事は別個意見として、

開戦の決定がたとえ周囲の進言に従ったとはいえ

日本国最大最高の権限をもつ立憲君主の責任は

免れるものではない、天皇を不起訴とする以上

死刑を含む量刑をもって被告たちを有罪とするのは

公平を欠くものである、という意見書を提出している。

法廷で弁護人と衝突したり、公判中に別件で帰国したりと、

何かとお騒がせな裁判長も、マッカーサー元帥の

天皇不起訴の方針に一物を抱えていたようだ。

 

戦勝国による敗戦国に対する

制裁とも報復とも捉えられ兼ねない、

きわどい、政治的な裁判であっただろうが、

当時誰かが罰せられる必要があったのだろう。

力の強い者が勝ち、力の弱い者が負けるのは自然だが、

殺し合いの結果である以上、どちらにしても辛いはずだ。

また仮にもし自国で裁判を行っていたら

真実は葬られたままで、その罰に対しては

より過激なものになっていた可能性もないとはいえない。

 

日本が大東亜戦争と呼び、

世界が太平洋戦争と呼んだ戦争から70年以上が経過したが、

パール判決書を片手に東京裁判をもうすこし追ってみたい。

どうして戦争はおこったのか、また今現在

どうして世界から戦争はなくならないのか、

そしてみんなで仲良く生きていくためには

どうしたらよいのかを、知りたい。

 

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから

人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」

ユネスコ憲章・1945年11月16日