3月の終わりに、有楽町の出光美術館で
古唐津/こがらつ展を観た。
古唐津とは、桃山時代/16~17世紀にかけて
九州の肥前/佐賀および長崎地域で焼かれた焼き物で、
戦国大名が連れ帰った朝鮮陶工たちを起源とする
近世初期の窯場のひとつだ。
展覧会では、朝鮮陶器というルーツを経糸とし、
同時代に隆盛した国内の桃山陶器などを緯糸として、
古唐津を立体的に読み解く展示構成が明快だった。
およそ180点の品が一堂に会し、
古唐津の草創期より爛熟期にかけての、
様式の推移が時系列に展開され、見応えがあった。
初代・出光左三によるコレクションならではの企画展だろう。
なかでも京・大阪を中心とした茶の湯のネットワークにより
求められた同時代性あるいは共時性というテーマが興味深く、
志野・織部などに代表される桃山陶器や、
六古窯に数えられる伊賀・備前などの陶器に宿る日本独自の美観が、
ほがらかに反映された器量が、うれしい。
また、奥高麗/おくごうらいと呼称される
無文様の淡いびわ色・朽葉色の茶碗がとくに美しかった。
江戸期には朝鮮産と考えられていたという
初期に多く焼かれた井戸形や熊川形の茶碗だが、
そのシンプルな形や釉色の奥行きに魅せられて、
心も時間も透き通るようだった。
全体を通して、
近現代における作家性の表現というような意図は見当たらず、
いずれの焼き物も、健やかで穏やかだ。
時代的な技術の未発達さは仇とならずに、
どこかのびのびと、ほのぼのと、あっけらかんとしている。
秀吉の朝鮮出兵や、中国への出兵計画など、
東アジアへの進出を視野にいれた当時の楽観的な雰囲気を
少なからず反映している、ともいえるのかもしれない。
そして、伊万里/有田での磁器の誕生はもう間もなくだ。
展覧会終了間際であったためか 、
会場は多くの人で賑わっていた。
どちらかというとシニア色に染まっていたのは、
骨董にまつわる地味なイメージのためだろうか。
最後にもう一度、会場を一覧し、
文士・小林秀雄が所持していたという茶碗と対峙する。
かつて20代の混沌とした頃に最も愛読した評論家で、
作品を通して触れたその稀有な精神から、
多くを学んだことを反芻した。
口径15.2㎝の程よい大きさの茶碗は、
口縁のすぐ近く、器の上部に鉄絵で施された
抽象的なほどに単純化された鳥/雁の文様が、
どことなくアンバランスな印象を与えた。
土味や下絵を活かす透明な釉薬に包まれて、
美とはなんであろう。
小林秀雄ではないけれど、久しぶりに、
コンセプチュアルアートとは別の次元の、
概念的な命題を探求したくなった展覧会だった。