木山捷平/きやましょうへいの晩年の短編集
「井伏鱒二 弥次郎兵衛 ななかまど」を読んだ。
備中/岡山出身の木山捷平/1904‐1968は、
終戦間際の1944年12月に40歳で満州へ徴用され、
中国・長春で農地開発公社の嘱託に就き、
ほどなく現地召集をうけて応召したのも束の間、
敗戦をむかえ、同地で明日をも知れぬ難民生活を送り、
1946年8月に命からがら帰国するという、戦争体験をもつ作家だ。
それらが後に長編「大陸の細道」および「長春五馬路」へと
結実し世に評価をうけたことは興味深いが、
本作/講談社文芸文庫に収録されている短編10作および
回想記2作にも、戦争の影は色濃く反映されている。
1956年/小説公園に発表された短編「骨さがし」は、
とりわけユニークでいきいきとした作品だ。
戦死した夫の遺骨を探すために広島から上京した
面識のあるようなないような若い未亡人と、
作家の分身のごとき中年男が、
骨さがしに東京の街へ繰り出す珍道中を描いた物語だ。
郷里で小耳にはさんだという、
戦死者の遺骨を売る店があるのは確か名前に田のつく町、
という真偽の定かではない心細い手がかりをもとに、
飯田橋から靖国神社を経て、神田須田町の闇屋へと辿りつくものの、
どさくさ紛れにすべては水の泡と帰し、
宙に投げ出されたような、コミカルな余韻が漂う。
1965年/群像に発表された「山陰」は、
山陰地方をひととおり回った旅の最後に立ち寄った
虚実の入り混じったような旅行記だ。
なかでも、土産物屋で偶然手にした絵葉書をきっかけに
訪れるくだりを、遠足気分で楽しく読んだ。
706年/慶雲3年に開山された標高約900mの霊山で、
温泉街を流れる三徳川のおよそ7㎞上流に位置する。
山全体を境内とする天台宗の古刹で、
幾つものお堂やお像などを継承しているそうだが、
平安期建立のアクロバティックなその建築により、
ひときわ異彩を放っている名所のようだ。
温泉街から三佛寺までバスでおよそ20分、
宿屋で借りた和装と下駄履きで訪れたため
下車後まもなく足をくじいたという筆者は、
往復に2時間かかるという投入堂までの参拝登山を諦めて、
寺の山門付近をうろうろとしてから
茶屋に入り、ビールと名物の三徳豆腐を賞味し、
参拝登山用の草鞋を土産にするのだが、
なにかとユーモラスな描写や展開が、味わい深い。
1964年/還暦の頃に発表された2つの回想記
戦前に所属した幾つかの同人誌や、
文士の集まりである阿佐ヶ谷会のエピソードが魅力的だ。
文学はもとより、酒や将棋などを肴にしての
若かりし頃の交流奇譚だが、
時代の雰囲気や、新鮮な人物像を伝えながら、
同時に筆者の軌跡も浮かび上がるようで、興味深かった。
木山捷平が描くのは、
市井に生きる一見すると何気のないような人々だ。
けれどもそれらの人々が、
そう見えるほど何気なくはないこと、場合によっては
切実な大小のドラマを生きていることに、
時にどきっとさせられる。
いずれの人々もどこか健気で、
どのような事情や出来事によっても、
くさったり、いじけたり、悪びれたり、
何かにかぶれたりもしないところに、心を動かされる。
また、私小説風のその作品の主人公の
筋金入りのマイペース感は、なんだか立派でもある。
どうしてか、冬に読みたくなる作家なのだが、
透徹した眼差しによる是も非もない精神が、
冷たく乾いた冬の空気と似ているからなのかもしれない。