佐賀町日記

林ひとみ

人新世の資本論 | 斎藤幸平

10月も中旬をすぎて、

急に寒くなってきた。

からだがびっくりして、

セーターをひっぱりだして羽織ったり、

昨冬の残りのカイロを貼ったり。

朝と夜は、冬の気配につつまれて、

空気が澄んで、星がきれい。

 

ウイルスもだいぶ落ちついてきて、

東京でも日に100人を下回る日が続いている。

張りつめた気を、ほんのすこし緩める。

するとそこに空間ができる。

美味しいものを食べて、元気をつけよう。

食欲の秋、そして読書の秋、だもの。

 

近年、話題になっている本、

「人新世の「資本論」」斎藤幸平著を読んだ。

昨年9月に集英社から刊行された新書で、

その読みやすさも手伝って増版を重ねているという、

経済思想と社会思想を専門とする気鋭の著作。

1987年生まれの若い研究者だけれど、

落ち着いてバランスのよい筆致と、

冷静で緻密な分析のうえに、

大胆な結論を導きだすところが魅力的だ。

そして勇敢に、

人類の行き方の可能性のひとつを提示してくれている。

 

マルクスの「資本論」の最新の研究成果を世に問うた、

その画期的な内容を、自分のためにまとめてみたい。

大意は、地球環境危機の原因は資本主義にあるから、

資本主義を止めること、そして社会主義をアップデートした

脱成長コミュニズムに置き換えること。

 

人新世/ひとしんせい/Anthropoceneは、

ノーベル科学賞受賞者のパウル・クルッツェンが名付けた、

人類の活動が地球の表面を覆いつくした新年代のことで、

コンクリート、マイクロ・プラスチック、二酸化炭素などに代表される

産業革命/18世紀以降の環境・気候危機の進行する現代のこと。

人類繫栄のための「資本主義」が、思いがけず

その生存の基盤を切り崩しているという矛盾に立ち向かう時、

著者は丹念にマルクスの思想の変遷をたどり、その転向を突き止め、

晩年に到達した「脱成長コミュニズム」の新境地へと辿りつく。

 

世界的な資本主義と地球環境の危機を、

わたしたちはどのように乗りこえられるのだろうか。

今月はじめに成立した岸田政権は、成長と分配を掲げ、

前・菅政権はカーボン・ニュートラルのレガシーを築いた。

果してそれで乗りこえられるのか、

方向は間違いないのかという疑問に、本書は応えてくれる。

資本主義の行き詰まりと、地球環境危機は、

別々の問題ではなく、同一の問題の、別の現われだと指摘は鋭い。

 

まず資本主義システムの批判からはじまる。

帝国的生活様式・消費主義的生活スタイルをつづける先進国は、

途上国・周辺国から労働力や自然を不平等交換して繁栄してきたが、

グローバル化によってそのフロンティアが消失したため、

もうこれ以上、地球上に搾取できる人も資源もないということが、

問題の本質だという。

それは先進国内での労働者の搾取、

労働条件の悪化、貧富の差の拡大、という形でも表れている。

けれども資本主義は、価値増殖と資本蓄積のため、

さらなる市場を絶えず開拓してゆくシステムで、

利潤を増やすための経済成長を止めることができない

際限のない運動だから、環境危機を前にしても、

資本主義は自ら止まることができない、と厳しい。

 

他方、環境改善を目指す近年の動向についても、

著者は根拠となるデータを用いてその限界を明らかにする。

たとえばSDGsについては単なるアリバイ工作、

パリ協定は楽観的で不十分な先送り・時間稼ぎ対策、

期待のグリーン・ニューディール政策は、「緑の経済成長」という

資本主義の生き残りをかけたビジネス・チャンスになるばかりで、

その目的に反して環境負荷を減らすことはできず、

むしろ負担を増大させる一方であることから、現実逃避だと断じている。

その一例として、

先進国が経済成長と技術開発によって環境問題を解決したと

思い込んでしまう「オランダの誤謬」を紹介し、

資本主義は問題をどこまでも外部化・転嫁するだけで、

地球規模でみるとその危機は深まっているのだが、

帝国的生活様式をつづける先進国の人々には、

絶望的にそれが見えないのだと自省を促す。

 

資本主義システムをつづけるかぎり地球はもたないこと、

経済成長と地球環境維持の両立が不可能だと受け入れたところで、

わたしたちはどうすればよいのだろう。

 

そこで晩期マルクスの到達した

「脱成長コミュニズム」という選択肢が提示され、

「資本主義」そのものを止めなければならないのだと迫る。

けれども私たちはマルクス社会主義というと、

ソ連や中国の一党独裁によるあらゆる生産手段の国有化をイメージし、

時代遅れで、危険なものと感じてしまう。

 

ところが現在、

新しい「マルクス・エンゲルス全集」刊行の

国際的プロジェクト/MEGA/メガが進んでいて、

著者もふくめた世界各国の研究者によって、

貴重な一次資料・新資料がはじめて公開されつつあり、

かつてのイメージとは全く異なる、

マルクスの新しい「資本論」解釈が可能になったのだという。

 

資本論」全3巻は、

第1巻のみマルクスによって完成されたものの、

つづく第2-3巻は、盟友エンゲルスが遺稿を編集した、

未完の作品として知られている。

第1巻を刊行後、続巻を完成させようとするなかで、

マルクスの資本主義批判はさらに深まり、

大転向を遂げることが新資料から明らかになるのだが、

現行の「資本論」には充分に展開されていないので、

マルクスは大きく誤解されたままで、

そのうえ晩期マルクスの到達点は全く知られていないのだと訴える。

その大転換こそ、未完であったことの理由で、

自己否定をも厭わない、なんて苛烈は人なのだろうと驚くばかり。

 

著者はあとがきで、最新のマルクス研究の成果をふまえて、

気候危機と資本主義の関係を分析していくなかで、

晩年のマルクスの到達点が「脱成長コミュニズム」であり、

それこそが現代の危機を乗りこえてゆくための

最善の道であると確信できたと、力説する。

 

マルクスの理論的大転換のポイントは、

自らが唱えた「生産力至上主義」との訣別だ。

それは同時にヨーロッパ中心主義と、

進歩史観史的唯物論の訣別でもある。

この新しいマルクス像は、

まだ誰も唱えたことのないセンセーショナルなものといえそうだ。

 

そうして現代の我々には

アメリカ型新自由主義」でも「ソ連型国有化」でもない

第3の道を切り拓く可能性がみえてくる。

それはコモンあるいはコミュニズムへの移行によって、

人々が地球を、また労働・生産手段を資本から取り戻し、

共有しつつ運営すること。

もちろん「農村に帰れ」「コミューンを作れ」とか、

科学やテクノロジーを否定することではないし、

新しい技術の開発や、途上国の発展は必要ということと矛盾しない。

 

それが誰のための、

どのような開発・発展であるのかが問われているのだ。

そこで「希少性」と「潤沢さ」が俎上に上がる。

資本主義こそ人工的につくられた希少性を、

つまり欠乏を生みだすシステムだということに気づいて、

ラディカルなコモンの潤沢さを選択しよう。

生きていくのに必要な土地や水や電気や食物や労働を、

資本の独占から解放して、共有の富として運営しようという。

資本主義の原理でいけば、そのうち空気にだって

値段がつけられてゆくにちがいないのだ。

 

コモンの「ラディカルな潤沢さ」が回復されるほど、

商品化された領域が減ってゆく。労働時間も減ってゆく。

おのずとGDPは減少する、つまり脱成長ということになる。

ところがそれは貧しさとイコールではない。

たとえば日本のひとりあたりのGDPアメリカより低いが、

その平均寿命はアメリカより6歳近く長いそうだ。

人の幸福、豊かさとはなんだろう。

GDP国内総生産という物差しが古いのでは。

GNH/国民総幸福量にきりかえるべきでは。

物差しが変われば、問題が問題でなくなりそうだし、

別の新しい問題がみえてくるかもしれない。

 

みんなが豊かになるシステムではない

帝国的「生活」様式を変革するには、

帝国的「生産」様式を克服しようという。

垂直・トップダウン型の政府に期待しても、

得票率を省みない政策を打ち出せるわけもなく、

根本の資本主義への変革は見込めないので、

水平・ボトムアップ型のコモンや協同組合、社会運動、

NPOや市民議会から動きはじめる必要があると呼びかける。

そうして政治家が大きな変化に向けて動くことを恐れなくなった時、

政治主義以上の可能性をもつ民主主義がみえてくるだろうと。

 

市民参加型の民主主義社会では、

多様な人々が話し合いでコンセンサスを得るために、

相当の時間と労力が必要になりそうだ。

価値観もバックグラウンドも異なる多様な人々。

けれどもそのことにこそ時間をかける価値があって、

労働とか奉仕の本質は、

ほんとうはそんなろころにあるのかもしれない。

 

またもうひとつの希望、

「3.5%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、

社会が大きく変わるという研究が、ハーヴァ―ド大学の

政治学者エリカ・チェノウェス氏らによって発表されているらしい。

地球の人口はおよそ77億人だから、約2.7億人ということになる。

日本にかぎれば1億2500万人のうちの、約440万人が、

本気で立ち上がると、社会が大きく変わる、と信じてみたい。

 

月末には衆議院選挙が控えている。

街頭演説をする立候補者も、

それに耳を傾ける有権者も、真剣そのものだ。

みんな自分にできることを精いっぱいして生きている。

美しいと思う。

なにが幸いで、災いかなんて、誰にもわからない。

メフィストフェレスも、天使も、

ほんとうによく働いているのだ。

 

あんまり寒いのでエアコンをつける。

ボタンひとつですぐに暖かくなる。

ほんとうにありがたいことだと感謝する一方で、

必要な水や電気や食料にアクセスできない人が、

世界に何十億人いるということ。

 

そんなとき数寄者・青山二郎氏の言葉を思い出す。

 

 ぜいたくな心を清算する(はぶく)要はない

 ぜいたくに磨きを掛けなければいけないのだ

       /「いまなぜ青山二郎なのか」白洲正子著・新潮社1991年

 

そういえばこの方も、マルクスみたいに苛烈な人。

そうやって自己を乗りこえていった人。

GDPからGNHへの価値転換は、

こういうことなのではないかなと思う。

 

そこで提案なのだが、

「脱成長」というと、その本意とは裏腹に、

なにか後ろ向きな感じがつきまとって離れないので、

いっそ「メタ成長」といってしまったほうが上手くいくのではないか。

現在の「成長」の定義を超えてゆく「成長」のことなのだから。

「メタ成長コミュニズム」いかがでしょう。

 

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