今年の梅雨明けは7月16日頃だった。
ちょうどその頃、
前日の現地入りで、
中央線をひたすら西へ向かう。
八王子、高尾、大月、甲府を順に通過する。
都市から遠ざかるにつれて、
太陽のエネルギーを強く大きく感じはじめる。
人間中心の世界から、自然中心の世界へ。
空はひろくて、おだやかだ。
空気は濃くて、やわらかい。
はじめて会う仲間たち12人と
登山口周辺の宿に泊まり、
すでに1500mある標高に身体をなじませる。
夜、見あげなくても、星がすぐ目の前にある。
探さなくてもたくさん、大きく瞬いている。
半月もすぐそこに、とてもきれい。
翌朝4時に起床し、準備運動をして、
5時過ぎから登りはじめた。
みずがき山は、
花崗岩でできた標高2230mの岩峰で、
むきだしになった岩肌をよじ登る、
ほどよくワイルドでアドベンチャーな山だ。
山頂へのコースはふたつあり、
今回は一般的な瑞牆山荘からのルートを登った。
登山口からの高低差は720m、
無理はしないペースで、全員無事での、
往路3時間40分、復路3時間30分の登山だった。
登り始めて1時間、
朝早かったせいか、標高のせいか、
後頭部がずきずき痛みはじめた。
もしや高山病かと案じたが、
雑談で気を紛らわせながら進むと、
いつの間にか治ってしまったようだ。
道中、小さな沢を渡ったり、
桃太郎岩と呼ばれる見所を楽しんだり。
きれいに真ふたつに割れた巨石の、
その60㎝ほどの岩のすき間に入りこんでみると、
ほの暗くひんやりとしていて、
なぜだか安心したのが印象深い。
所々で鎖を手繰りよせたり、
この岩どうやって登ったらいいの、
降りるときはどうすればいいの、
というチャレンジがあったり。
からだ全体でぶつかっていけるところが、
ほんとうに愉しい。
力を引きだしてくれるし、与えてもくれる。
わたしがからっぽになる。
それがたまらなくうれしい。
どうしてだろう。
山頂で、また道中でたびたび、
富士山を臨むことができた。
高温多湿のこの時期、
雲や靄がかかってきれいに見えることは稀ときいたが、
まだ気温の上がりきらない午前中だったこともあって、
とてもよく観ることができた。
富士山をみると、わたしはいつも、
仏文学者・青柳瑞穂氏の随筆
「あたたかさ、やわらかさ、しずけさ」を思い出す。
すこし長いが、冒頭を引用してみる。
「富士山の美しさは、高さにあるよりも、むしろ、線にあると思う。
線と線が描き出す形 ー つまり、その優美な姿にあると思う。
そして、この優美な姿のために、じっさいの標高よりは、
かえって低く見えるのではないだろうか。
もしそうだとすれば、富士山は、
あらゆる山岳の生命であり、誇りである高さを、
容姿のために犠牲にしていることになる。
すなわち、富士山は、
丁度いいあんばいに自分の高さを調節しているのだ。」
「ささやかな日本発掘」講談社文芸文庫/初出1960年新潮社
なんてユニークで美しい洞察だろう。
わたしには、
脳みそはこのように用いるのですよ、というお手本にみえる。
こうした先人の情緒にふれると、
日本人であること、日本に生きていることをうれしく思う。
わたしにとって
ふる里でもある東京に戻ってきて、
山や森を歩くように、
この街や雑踏を歩いていけたらと思うのだった。