東京は今週末、桜の見ごろを迎えている。
また寒さが戻ってきたので、
花も長持ちして、しばらく楽しめそうだ。
3月の上旬はずいぶん春めいた日がつづき、
家のベランダの啓翁桜/けいおうざくらは
いつになく早々と咲きはじめた。けれども、
そろそろ満開の見ごろという春分の祝日に、
それはそれははげしい春の嵐に遭い、たちまち散ってしまった。
儚いというより、あっけない。
もうすぐ4歳になる甥っ子にその話をすると、
「かなしかった?」ときくので、
「すこしかなしかった。でもきっと来年また逢えるからね。」
とこたえたが、4歳児に「来年」という概念があるのかないのか、
はたまた、不思議な余韻につつまれた。
先日、用があって九段下や中目黒を通ったら、
まさに桜の見所のため、
ほんとうにたくさんのお花見のひとたちで賑わっていた、
というより混雑していた。
自分がお花見で訪れたわけではなかったので、
一瞬いらっとしてしまい、おっといけないと思い直した。
すこし空いた時間に靖国神社を歩いてみると、
創立150年になるとのこと。
1869/明治2年当初は「招魂社」と名付けられていたようで、
戊辰戦争で亡くなられた方々を祀ったことを起源に、
そして大東亜戦争に至るまで、およそ246万6千余の霊が
御祭神として祀られているという特異な神社だ。
内外の戦争を抜きには語れない国家の、
あるいは人間の歴史を振り返ると、
その血なまぐささに足がすくんでしまう。
通りがかりにお参りを、というちょっとした気持ちでは
参拝しづらいので、拝殿までは行かず、
といって桜を愛でるというのでもなく、
ただなんとなくお花見の雰囲気に心がいっぱいになった。
平和という言葉はさまざまに定義できるとしても、
お花見を楽しめる世の中を、ひとまず平和と表現したい。