クリスマスの時期に4日間、
音楽学校の冬期講習会を受講した。
講義は連日9~12時の3時間に行われ、
大学受験をひかえる高校生たちをメインに、
数人の社会人がまじった25名前後で、
ソルフェージュと楽典を勉強した。
声楽を勉強していくなかで
必要を感じたので受講したのだが、
いずれも楽譜から音楽を紡ぎだすのに、
欠かせない基礎的な音学力だ。
ソルフェージュは実力によって教室がわかれ、
初級のクラスで勉強したのだが、
それでもついていくのがやっとだった。
聴音を主に、視唱はほんのすこしだったが、
なんといっても聴音がたいへんだった。
ソルフェージュの聴音とは、
ピアノで弾いた旋律を聴いて五線紙に音符を書きとることをいう。
子どものころからピアノに接している人には、
鍵盤をたたいた音が、ドーとかファーとかラーとか、
音名として聴こえるらしいのだけれど、
こちらにはただ様子の異なるボーン・ボーンという音にしか
聴こえてこないから、ほんとうに困った。
聴音のコツは、拍節を数えてまず小節はじめの音を記すこと
と教わったので、拍節を数えるのだけれど、
おおよそ聴こえてくる音の音程がわからないから、
何も書くことができない。
たまに「あ、いまのはド・ミ・ソ・シ!」とわかっても、
4分音符や8分音符にタイや付点やシンコペーションがつくと
まごまごしてしまって、いっこうにはかどらない。
そのうち臨時記号の♯・♭・♮がでてきたり、
基本のハ長調/C-durから平行調のイ短調/a-mollになっただけで、
もうたいへん、先が思いやられるようだった。
なんでもそうだろうけれど、できる人からみたら
どうしてできないのだろう、という世界にちがいないが、
それでも少しずつわかるようになっていくのは楽しかった。
楽典は、音楽の基本的な理論や作法で、
覚えることがたくさんあったけれど、
どうしてそうなのかという構造がよくわかっていないから、
覚えたこともいまいち心もとない。
小学4年生の頃だったか、学校の勉強で、
10mmが1㎝とか、100㎝が1mとか、1000mが1kとか、
1000gが1kgとか、1000mlが1ℓだとか、
そういうことがどうしてもよくわからなかった。
「どうしてそうなの?」というところから、
「そういうふうに決まっている」と父に諭されても、
「誰がどうしてそう決めたの?」といって、
なかなか納得できず受け入れるのに時間がかかった。
今では何の疑問も感じないことだけれど、
楽典を勉強しているとなぜだかそのことを思い出す。
大人になってからはじめた勉強なので、
できなくてふつう、
ほかにできることがいっぱいある、
という図々しさが備わっていて、
幸いとも災いともいえるけれど、
勉強できることがうれしいし、ほんとうに楽しい。
真剣でありながら、
できない、ということを、
どこか楽しんでいるフシもあって、
いいのかよくないのか。
やりたいことができることに感謝する、
2019年のお正月だった。