佐賀町日記

林ひとみ

ルネ・フレミング インナー・ヴォイス

アメリカのオペラ歌手

ルネ・フレミ ング/Renée Flemingの自伝

「THE INNER VOICE : The Making of a Singer

/魂の声 プリマドンナができるまで」を再読した。

 

冒頭でも語られているように本書は

人生の自伝というよりも声の自伝、

「私がいかにして自分の声を発見したか、

 いかにして声を磨きあげたか、そして、

 それがいかに私自身をも磨くことになったか

 という物語である。」という本。

 

度々、部分的に何度も読み返している本だけれど、

ひさしぶりに全編を通して読んでみて、

その内容の豊かさと素晴らしさに、改めて感動した。

本文の執筆が本人によるものか

ライターさんによるものかはわからないけれど、

音楽のようになめらかな文体は読み心地よく、

翻訳の中村ひろ子氏の巧みさにも助けられていると感じた。

 

ルネ・フレミング/1959.2.14-は

アメリカ北東部のペンシルヴァニア州の生まれで、

隣のニューヨーク州ロチェスターで、

ローカルな音楽家声楽家だったという両親のもと

音楽にかこまれた環境で育った。

曽祖母プラハから渡ってきたというから

ヨーロッパの血がすこしはいっているようで、

その娘で祖母にあたる先代も音楽を嗜んでいたそうだから、

クラシックの声楽家を志すようになったのは、

ごく自然な成り行きだったことが伝わってくる。

地元のニューヨーク州立大学・クレイン音楽院に入学し、

イーストマン音楽学校・大学院を経て、

ジュリアード音楽院・博士課程の2年目に、

フルブライト奨学金を得てドイツに留学。

帰国および卒業後はしばらく下積みの時代が続き、

オーディションにチャレンジし続けて、

1988年29歳の時に待望の転機が訪れる。

メト・ナショナル・カウンシルをはじめとした

オーディションやコンクールなどに合格し、

マネージャーを得て、ヒューストン・グランド・オペラの

モーツァルトフィガロの結婚」の伯爵夫人役で、大成功。

時を同じくして結婚、娘をふたり産み育てながら、

世界中のあちこちのオペラハウスに出演し続ける、

順風満帆で目の回るような数年が続いたという。

その後、子どもたちの成長にあわせて、

あちこちを飛び回る多忙なオペラの仕事をセーブし、

リサイタルやコンサートとのバランスを図りつつある頃、

10年ほど連れ添ったパートナーとの離婚をきっかけに、

精神的な危機を体験。

思わぬ長いトンネルをくぐり抜けて、自分を見つめ直し、

自信を取り戻してゆくその過程は、とても人間的だ。

一方で、天性のバイタリティやスタミナによって磨かれた歌声は、

なんとも超人的という印象で、びっくりするばかり。

師事したビヴァリー・ジョンソンは

「鋼鉄の芯をもつ聖なる大地の母」と形容し、

アシスタントたちは「ビロードの鞭」や

「ハリケーン」というそうだから、わかりやすい。

声種は典型的なリリック・ソプラノといわれ、

レパートリーはヘンデルから現代曲初演まで幅広く、

得意とするのは「フィガロの結婚」の伯爵夫人、

ドヴォルザーク「ルサルカ」や

マスネ「マノン」のタイトルロール、

R・シュトラウスばらの騎士」のマルシャリン、

同じく「カプリッチョ」の伯爵夫人などだろうか。

3種類の声が必要といわれる

ヴェルディラ・トラヴィアータ」のヴィオレッタも。

学生の頃にジャズを歌ったり、

映画のサウンド・トラックに参加したり、

最近ではビョークのポピュラーソングをアレンジして

アルバムに収めたり、歌唱や流儀が柔軟なところもユニークだ。

 

本書のオリジナルは2004年に、

翻訳は2006年に春秋社から出版され、 

一説には日本のある音楽大学

声楽科の教材になっているという。 

所どころで触れられる

発声の秘訣はほんとうに興味深いし、

オペラでの経験談や解釈は、とても面白い。

またひとりの女性として、

とくに母親としての在り方には、深い感動を覚えた。

 

本書を初めて読んだのは、

声楽を習い始めてすこし経った2014年頃で、

名前はきいたことがあるけれど、

歌声をきいたことはあったかな、という程度だった。

友人にすすめられて、

図書館で借りて読み始めるとすぐに夢中になり、

たちまち彼女が大好きになった。

宝物を手にするようなときめきを本に感じたのだ。

ある歌手との出会いが、

歌声/OUTER VOICEよりも先に、

書籍/INNER VOICEであったことが、

適当だったかどうかわからないけれど、

私にとってはよかったといえそうだ。

たとえば先に歌声を聴いていたら、

好きになっていたかどうか、

本を読むことになったかどうかわからないから、

人の心の仕組みは不思議だと思う。

 

 「音楽は、傷つきやすかった若き日の私に、

 言葉にできない感情を表現する術としての声を与えてくれた。

 そして今の私には、人びとに語りかける比類なく神秘的な

 力をもった声を与えてくれた。」

 

おそらく4度目の来日公演となった

2017年3月、東京国際フォーラムでの

プラシド・ドミンゴとのコンサートでは、

豆粒大の彼女のステージに接することができた。

あんまり熱心に双眼鏡をのぞいたので、

きもちがわるくなってしまったくらいだ。

とくにヴェルディシモン・ボッカネグラ」の

アメリアとシモンとの二重唱が聴けてうれしかった。 

アンコール・ステージの際には、

ドミンゴ喝采にくらべると、隣席のご婦人が

「あら、またあの女の人も歌うの?」といっていたように、

日本での人気は海外ほどではないらしい。

 

いつかまた、

できればリサイタルを聴くことができたら、

とてもうれしい。