桃の節句が過ぎた頃、
「熊谷守一 生きるよろこび」展を
竹橋の国立近代美術館で観た。
画家・熊谷守一/くまがいもりかずの
没後40年の記念展でもある本展は、
油彩200点と、日記・葉書・スケッチ帳などの
資料およそ80点とが一堂に会した、
はれやかな大回顧展といった趣だった。
その97年の生涯を辿るように
3部に構成された会場はいかにも明快で、
1:闇の守一/1900-10年代
2:守一を探す守一/1920-50年代
3:守一になった守一/1950‐70年代
と年代ごとに展示された作品は、
質量ともに充実し見応えがあった。
熊谷守一/1880‐1977は、
明治13に岐阜県・付知村の商家に生まれ、
裕福だが複雑な幼年時代をおくり、
17歳で上京してのち画家を志すようになったという。
実業家で政治家でもあった父親の反対をおして
20歳で東京美術学校西洋画科撰科に入学、
卒業後は同校/現東京藝大の研究科に在籍しつつ、
1907年/27歳で研究科をでるが、在学中より
白馬会、文部省、二科、光風会などの展覧会に
作品を出品し、一定の評価を得たようだ。
1910年秋に母危篤の報をうけ付知/つけち村に帰郷し、
そのまま5年ちかく滞在することとなり、
山深い土地ならではの日傭/ひようという
材木を川流しで運搬する仕事を経験したという。
1915年/35歳で再び東京に拠点を移し、
美学校時代の友人より生活の援助を受けつつ
絵の仕事を続け、二科展を中心に作品を発表。
1922年/42歳で結婚し、2男3女をもうけたが、
次男と三女は早逝、のちに長女も21歳で病死し、
生活の困窮とともに苦しい時期が続いたという。
1929年/49歳から10年程は二科技塾で指導にあたり、
1940年前後には重要なコレクターとの出会いもあり、
なんとか困難をやり過ごしながら画業を深め、
1950年代/70歳過ぎに、ひろく知られることとなる
代名詞のような簡朴な作風に辿りつき、
1977/S52に97歳で亡くなるまで、
独自の境地に在りつづけた無二の画家だ。
本展でとりわけ印象的だったのは、
ひとりの芸術家の、闇から光へのはげしい反転だ。
1908年/28歳の作品「轢死/れきし」は、
踏切で女性の飛び込み自殺に遭遇したことがきっかけとなり
描かれた生々しい油彩で、経年変化も手伝って
キャンバスの闇にはほとんど何も見とめえないのだが、
そのような死を作品化する作家の天性に、
あるいは危ういエゴイズムに、いささかおののく。
同様に闇と対峙する初期の作品には、
しっとりとした暗さのなかに繊細さが感じられるが、
徐々に明るさが増してくる中期の作品では、
節度のある野生あるいは奔放さが色彩とともに噴出し、
時とともに整理され省略されていく画風の変容が興味深い。
そして色彩やモチーフと自在に戯れる後期は、
まさに真骨頂といえる強度で、本展の名でもある
「生きるよろこび」ここにありといった趣だ。
キャンバスのなかに、魔法のように命を与えられた
他愛のない花や蝶や亀や猫などが、
かわいいような、あやしいような、うれしいような。
否定も肯定も、美も醜も、感傷も感情も、
全く言いたいことは何もないといったふうなのに、
そのすべてを表現しているような不思議な世界だ。
聞き書きをまとめた著書「へたも絵のうち」/1971年や、
同じく聞き書きの著書「蒼蠅/あおばえ」/1976年では、
最晩年の作家のモノローグに接することができ、
なんとも味わい深いが、
そうとうのツワモノであると同時に、
ずいぶんとムツカシイ人であったのだろうと偲ばれる。
わたしは、わたし自身も、仕事も
そんな面白いものではないと思います。
わたしの展覧会をしたって、どうっていうことはない。
やる人もやる人だし、見る人も見る人だと思います。
/「蒼蠅」より
なかなかどうして、
幾重にも屈折する、またとない芸術家に、
養われるような幸福な展覧会だった。