ゴールデンウィークの中日に、
東京町田市にある
旧白洲邸・武相荘/ぶあいそうへ行った。
白洲次郎・正子夫妻の旧邸宅は、
新宿より急行でおよそ30分、
こんもりとした緑につつまれて、穏やかに佇んでいた。
太平洋戦争をまたぎ政治経済の分野において
大役を果たした白洲次郎/1902‐1985と、
日本の伝統芸能および工芸に通じ、
文筆家として活躍した白洲正子/1910‐1998は、
1942年に鶴川村の養蚕農家を農地つきで購入し、
戦争の激化を見越して翌年に移り住んだという。
次郎氏によって命名された「武相荘」とは、
武蔵と相模の国境であるという地理に、
無愛想をかけての愛称ということだ。
明治初期に建てられたと推定される母屋は、
立派な茅葺屋根の木造家屋で、
牛がすんでいた広い土間を板敷へ、
後にはタイル敷へと手直しし、
居間兼応接間として使用したという具合に、
適宜改築を施されながら、60年近くの年月を
白洲家とともに歩んだ、年季のはいった日本家屋だ。
主亡き後2001年より、当時の面影をそのままに
ミュージアムやレストランとして一般公開され、
春夏秋冬の季節展が行われているという。
今季「武相荘の春展」では、
よく知られる次郎氏の遺言書をみることができた。
和紙に墨で「一、葬式無用 一、、戒名不用」とは、
なんと簡潔で気持ちのよい遺言だろう。
また、北側に位置する
こじんまりとした正子氏の仕事場や本棚では、
立入りも撮影も禁止の蔵書をしげしげと一覧した。
熊谷守一の書画集や著作をみつけては喜んだ。
かつての居間や、奥座敷/寝室には、
コレクトされ実用されていたであろう陶磁器や
染織物が展示されていたが、
いかにも魯山人でなくてもいいような
地味でさりげない魯山人作の陶器に、
この家の主をみたような気がした。
南東へ向いた縁側からは、邸内の竹林が眺められ、
折よく筍がニョキニョキと顔を出していた。
「あぁ、こんなにおおきくなってしまって、
もったいない、食べたいなぁ」と内心思う。
聞けば併設のレストランで
庭の筍を用いた料理を提供しているそうなので、
採りきれないほどなのだろう。
散策路となっている小径をくるっとひと回りして、
樹々のなか、土のうえを歩き、深呼吸をする。
木立のなかにひょっこりと家屋が佇み、
どこか山荘のような、
超俗的な世界が展開されている様には、
正子氏の代表作のひとつの「かくれ里」という言葉が
よく合うように思えた。
よく晴れた透明な陽光がきもちのよい日で、
適温の心地よい日和に寛ぐように、
黄や白や黒色の蝶が、ひらひらと飛び回っていた。
次郎氏や正子氏が、ひととき蝶の姿をかりて
遊びにきても、不思議でないような気のするほど、
お二方の気配に満ちた、異次元の武相荘だった。
まろやかに世俗の世界へと舞い戻った数日後、
武相荘所蔵のご夫婦ゆかりの展示品と併せて、
和洋の骨董品が展示販売されるという企画展で、
直接手にして鑑賞することができ、有意義だった。
お値段を知ることもまた楽しかった。
陽気が満ちて、活動的になる季節だけれど、
白洲両氏の著作も読みたい、連休の後半だった。