2016年は映画をよく観た。
数えてみると88本を観たようで、
年に数本という年もあることを考えると、
2016年は映画の年だった。
きっかけは、
自室にビデオデッキとブラウン管TVを設置し、
VHSを再生する環境を整えたことにある。
いくつかのどうしても観たい作品が
VHSでレンタルされていたので、
時代に逆行するようで迷ったが、
一時的にと思い切り、リサイクル品を安価で入手した。
余命いざ知れずのビデオデッキと、
地上波に切り替わり行き場を失ったブラウン管という、
取り残され忘れ去られた機器のコンビが、
忘れ去られたかのようにみえる作品を再生する様は、
どこか甦りに似て、どきどきした。
念願がかない夢中で観た作品のなかで
とくに印象深かったのは、
フランスの監督クロード・ソーテ、エリック・ロメール、
ロベール・ブレッソン、ジャン・ルノアール、
アメリカのロバート・アルトマンなどの作品群だ。
1960年代~80年代に制作された作品が多かったが、
いずれも時代を反映しつつも、
いまなお強度のある新鮮な輝きを放っていた。
簡単には到達できぬ
独自の高みにある監督たちが、すばらしい。
また、邦画では小津安二郎の作品をよく観たが、
独特のテンポと雰囲気に親しみを感じるとともに、
奥ゆかしい台詞や言葉遣いが新鮮でうれしかった。
ふと、昭和の数寄者・青山二郎の言葉を思い出した。
「高度の芸術に完備してゐる芸術の大衆性と
大衆芸術と謂はれる娯楽の大衆が喜ぶ魅力の相違・・」
映画に限らず、様々な表現に対しての、
一理のある見立てだ。
ときに両者を明確に区別することはむつかしく、
また善し悪しや好き嫌いとは別の問題であることが、
奥深く神秘的で、興味は尽きない。
映画はフィクションだけれど、
その体験はリアルなものだと確認した、2016年の暮れだった。