中世史学者であり、ジャンヌ・ダルク研究における第一人者である、
今は亡きレジーヌ・ペルヌー編著による
「ジャンヌ・ダルク復権裁判」を読んだ。
原書は若かりし頃の女史が編纂し、
1953年にフランスで出版されたものだが、
時を経て、高山一彦氏により日本語へ翻訳され、
2002年に白水社より公刊された、処刑裁判と対をなす記録だ。
訳者高山氏によると、主だった復権裁判の校訂記録は、
1841~49年にわたり刊行された、J・キシュラ編纂による、
一連の史料集・全5巻に収められたラテン語の記録と、
1977~88年にかけて刊行された、
P・デュパルク校訂によるフランス語版・全5巻があり、
いずれも教会裁判独特の仰々しく煩雑な手続きや、
同様の主旨が繰り返される数多くの証言からなる、
そのボリュームと冗漫さに、編訳の困難さを感じたという。
そこでペルヌー氏自らのお奨めもあり、
女史による編纂書「Vie et Mort de Jeanne d'Arc
-Les Témoignages du Procès de Réhabilitation,1450-1456
/ジャンヌ・ダルクの生と死 復権裁判の証言、1450-1456」
の本訳が実現したそうだ。
復権裁判という名称で親しまれているが、
正確には「ジャンヌ・ダルク処刑判決無効裁判」といい、
1455年11月7日にジャンヌの母とふたりの兄により請願書が提出され、
1456年7月7日にかつての有罪処刑判決の無効/破棄が宣告されている。
それら原記録の一部は、パリ・ノートルダム教会の書庫に寄贈され、
現在はパリ国立図書館に所蔵されているそうだ。
ことの発端は、処刑裁判の18年後にあたる1449年に、
フランス国王シャルル7世による、
かつてかの地で行われた処刑裁判の調査命令にある。
1450年に行われた非公式な調査および尋問は、
1452年には公式なそれへと引き継がれ、
のべ115名にもおよぶ関係者等による証言から
次々と真実が明かされることとなる。
それらの証言には、多くの驚くべき真実と、
多少の誇張や、記憶のすり替え等が入り混じっているという印象だが、
前裁判で記録された本人による答弁とは別の角度から、
乙女ジャンヌの実像が鮮やかに浮かび上がってくるようで、
非常に興味深い。
故郷ドンレミ村の人々は、
愛称ジャネットの素朴さ、慎ましさ、敬虔さを証言し、
戦を共にした戦友たちは、
19歳の乙女が指揮官として専門家のごとく優れた技量を発揮したこと、
いくつかの奇跡としかいいようのない出来事についても、
感動を伴った証言をしている。
処刑裁判に立ち会った陪席判事たちや書記等の人々は 、
彼女が慎重に聡明に卓越した答弁をしたこと、
そのために感嘆の声があがったことなどを記憶する一方で、
法の名のもとに不正や蛮行が企てられたことも証言している。
裁判の費用を支出し主導したイングランド勢力は、
乙女ジャンヌに魔術的な力を見出し非常に恐れていたという。
そのため彼女が捕虜になった際に大金で買い取り、
裁判を行った教会関係者にかなりの圧力をかけたそうだ。
イングランド勢に積極的に加担していた裁判長は、
正確にはルーアンで法を行使する権限を所持しておらず、
本来は教会牢に同性の牢番を同伴するはずのところを、
世俗牢にイギリス男兵の番人とともに投獄され、
おそらくは暴言や暴力などを加えられたこと、
裁判は傍聴を許可せず非公開の形式で行われ、
告発諸箇条は虚偽を含み、答弁をかなり曲解して作成され、
つけられるべき弁護人をつけられることもなく、
心ある陪席判事たちの公正な意見も、
このような穢れた裁判によって
痛ましくもむごたらしく処刑された悲劇から、
逆説的に映し出され、鮮明になるのは、
乙女ジャンヌの魂の清らかさや、
神秘の力が可能にした数々の奇跡だろう。
おそらく人間は、
大いなる力を慕い敬いながら、どこかで、
その善悪や人知を超えた計り知れない力に、
恐れ/畏れを抱いている。
彼女を異端者として処刑したのも、
のちに聖女として列聖したのも、
どちらも同じ教会という組織であることに
言いようのない感慨を覚えるが、
闇は闇のままではいられず、
いずれ光に吸収される運命にあることを、
聖女は証明したのだと、信じたい。