佐賀町日記

林ひとみ

ルネ・フレミング インナー・ヴォイス

アメリカのオペラ歌手

ルネ・フレミ ング/Renée Flemingの自伝

「THE INNER VOICE : The Making of a Singer

/魂の声 プリマドンナができるまで」を再読した。

 

冒頭でも語られているように本書は

人生の自伝というよりも声の自伝、

「私がいかにして自分の声を発見したか、

 いかにして声を磨きあげたか、そして、

 それがいかに私自身をも磨くことになったか

 という物語である。」という本。

 

度々、部分的に何度も読み返している本だけれど、

ひさしぶりに全編を通して読んでみて、

その内容の豊かさと素晴らしさに、改めて感動した。

本文の執筆が本人によるものか

ライターさんによるものかはわからないけれど、

音楽のようになめらかな文体は読み心地よく、

翻訳の中村ひろ子氏の巧みさにも助けられていると感じた。

 

ルネ・フレミング/1959.2.14-は

アメリカ北東部のペンシルヴァニア州の生まれで、

隣のニューヨーク州ロチェスターで、

ローカルな音楽家声楽家だったという両親のもと

音楽にかこまれた環境で育った。

曽祖母プラハから渡ってきたというから

ヨーロッパの血がすこしはいっているようで、

その娘で祖母にあたる先代も音楽を嗜んでいたそうだから、

クラシックの声楽家を志すようになったのは、

ごく自然な成り行きだったことが伝わってくる。

地元のニューヨーク州立大学・クレイン音楽院に入学し、

イーストマン音楽学校・大学院を経て、

ジュリアード音楽院・博士課程の2年目に、

フルブライト奨学金を得てドイツに留学。

帰国および卒業後はしばらく下積みの時代が続き、

オーディションにチャレンジし続けて、

1988年29歳の時に待望の転機が訪れる。

メト・ナショナル・カウンシルをはじめとした

オーディションやコンクールなどに合格し、

マネージャーを得て、ヒューストン・グランド・オペラの

モーツァルトフィガロの結婚」の伯爵夫人役で、大成功。

時を同じくして結婚、娘をふたり産み育てながら、

世界中のあちこちのオペラハウスに出演し続ける、

順風満帆で目の回るような数年が続いたという。

その後、子どもたちの成長にあわせて、

あちこちを飛び回る多忙なオペラの仕事をセーブし、

リサイタルやコンサートとのバランスを図りつつある頃、

10年ほど連れ添ったパートナーとの離婚をきっかけに、

精神的な危機を体験。

思わぬ長いトンネルをくぐり抜けて、自分を見つめ直し、

自信を取り戻してゆくその過程は、とても人間的だ。

一方で、天性のバイタリティやスタミナによって磨かれた歌声は、

なんとも超人的という印象で、びっくりするばかり。

師事したビヴァリー・ジョンソンは

「鋼鉄の芯をもつ聖なる大地の母」と形容し、

アシスタントたちは「ビロードの鞭」や

「ハリケーン」というそうだから、わかりやすい。

声種は典型的なリリック・ソプラノといわれ、

レパートリーはヘンデルから現代曲初演まで幅広く、

得意とするのは「フィガロの結婚」の伯爵夫人、

ドヴォルザーク「ルサルカ」や

マスネ「マノン」のタイトルロール、

R・シュトラウスばらの騎士」のマルシャリン、

同じく「カプリッチョ」の伯爵夫人などだろうか。

3種類の声が必要といわれる

ヴェルディラ・トラヴィアータ」のヴィオレッタも。

学生の頃にジャズを歌ったり、

映画のサウンド・トラックに参加したり、

最近ではビョークのポピュラーソングをアレンジして

アルバムに収めたり、歌唱や流儀が柔軟なところもユニークだ。

 

本書のオリジナルは2004年に、

翻訳は2006年に春秋社から出版され、 

一説には日本のある音楽大学

声楽科の教材になっているという。 

所どころで触れられる

発声の秘訣はほんとうに興味深いし、

オペラでの経験談や解釈は、とても面白い。

またひとりの女性として、

とくに母親としての在り方には、深い感動を覚えた。

 

本書を初めて読んだのは、

声楽を習い始めてすこし経った2014年頃で、

名前はきいたことがあるけれど、

歌声をきいたことはあったかな、という程度だった。

友人にすすめられて、

図書館で借りて読み始めるとすぐに夢中になり、

たちまち彼女が大好きになった。

宝物を手にするようなときめきを本に感じたのだ。

ある歌手との出会いが、

歌声/OUTER VOICEよりも先に、

書籍/INNER VOICEであったことが、

適当だったかどうかわからないけれど、

私にとってはよかったといえそうだ。

たとえば先に歌声を聴いていたら、

好きになっていたかどうか、

本を読むことになったかどうかわからないから、

人の心の仕組みは不思議だと思う。

 

 「音楽は、傷つきやすかった若き日の私に、

 言葉にできない感情を表現する術としての声を与えてくれた。

 そして今の私には、人びとに語りかける比類なく神秘的な

 力をもった声を与えてくれた。」

 

おそらく4度目の来日公演となった

2017年3月、東京国際フォーラムでの

プラシド・ドミンゴとのコンサートでは、

豆粒大の彼女のステージに接することができた。

あんまり熱心に双眼鏡をのぞいたので、

きもちがわるくなってしまったくらいだ。

とくにヴェルディシモン・ボッカネグラ」の

アメリアとシモンとの二重唱が聴けてうれしかった。 

アンコール・ステージの際には、

ドミンゴ喝采にくらべると、隣席のご婦人が

「あら、またあの女の人も歌うの?」といっていたように、

日本での人気は海外ほどではないらしい。

 

いつかまた、

できればリサイタルを聴くことができたら、

とてもうれしい。

あつい夏

2018年の夏はほんとうに暑かった。

ときどき台風が通り過ぎて

つかの間の涼しさにほっとすることもあったけれど、

またすぐに太陽がギラギラと、

そのうちにメラメラと、

降りそそぐ熱量がすさまじかった。

 

小学校の中学年頃だったか、

夏休みの宿題のひとつに絵日記があった。

クラスメイトのある男の子のそれは、

7月27日「今日もあつかった」

8月11日「今日もあつかった」

8月23日「今日もあつかった」という調子で、

その日の出来事を象徴する絵に添えられた言葉は

ほとんど「今日もあつかった」だった。

当時はなんだかちょっと可笑しいような、

いい加減に済ませたように感じたのだけれど、

あるいはそうでもなかったのかもしれない。

まさに今年の夏は、

ほんとうに毎日「今日もあつかった」。

 

人間もたいへんだったけれど、

植物もさぞたいへんだったと思う。

私たちは必要に応じて、水を飲んだり、

日陰にはいったり、エアコンを使うことができる。

植物は人の羨むような光合成という天性をもつ一方で、

自分の意志で水を得たり、場所を移動することはできない。

その場所で、どのような環境でも生きようとするだけだ。

街路樹はおおかたくったりしているし、

我が家のベランダの植物たちも、

鉢の中でじっと日照りをやり過ごしている。

かなり堪えている様子なので、

できるときは朝と昼と夕と夜に、給水する。

例年の夏は朝と夕だけで問題なかったのだから、

今年の夏のあつさは特別なのだろう。

 

そのような猛暑のつづくなか、

先日4日間、家を空けることがあった。

やむを得ぬこととはいえ、

ベランダの植物たちが気がかりで、

滞在先では東京都江東区に雨が降るように祈った。

雨乞いは天に通じただろうか、

そうこうして帰宅してみると、

やはり植物たちはみな瀕死の状態だった。

彼らの悲鳴がきこえるようで、

大急ぎで給水し、給水し、給水して、

12鉢のうちのほとんどは、

翌日および翌々日にはなんとか一命をとりとめた。

ダメージがのこったものもあったが、

なんとか気を取りなおしてくれたようで、ほっとした。

けれども、水がだいすきな北海道産のミントと、

春に花咲く山形県産の啓翁桜/けいおうざくらは、

致命傷だったのか、どんどん衰弱してゆくばかり。

桜の葉はずいぶん枯れ落ちてしまい、

枝先からのぞく新芽も、やせて元気がない。

なんとか持ちなおしてくれますように。

ミントはほとんどすべて干からびてしまい、

一週間後にはもはやこれまでと諦めかけた。

とすると、まるで錯覚でもみるように、

枯れ果てた茶褐色の枝葉の奥底から、

ほんのちいさな緑がぽつと頭をのぞかせたのだ。

はじめは半信半疑だったけれど、

数日を経てはっきりとした若葉がぽつぽつと、

地面近くから芽吹きだしたので、

まるでキリストの復活の奇跡をみているように歓喜した。

ほんとうによかった。

 

また、数日の干ばつにもめげず、

すこぶる元気だったのは、

4月に挿し木をしたばかりのバラの幼樹だった。

なるほどアフリカでも栽培されているというだけあって、

暑さと乾燥には強いらしい。

新葉をぐんぐん伸ばして、ちいさな棘もピンピンと、

むしろ絶好調といったふう。

 

暦のうえでは初秋といえど、

あつさはもうしばらく続きそうなので、 

すこしでもバラの気持ちで、

元気に9月を迎えたい。

40年

今年2018年の8月で40歳になる。

はじめて到達する年代に、今まで感じたことのない、

ほどよい重みを感じている。

 

たとえば、木の年輪やバウムクーヘンの重なりを

ひとつずつ数えてみる。

1.2.3.4.5・・・10・・・20・・・30・・・と、

30くらいまでは気軽なのだけれど、

40まで数えてみると、それなりに数え応えがあって、

また見応えのある年輪、という感じがするのは

気のせいだろうか。

 

すこし前の世代の人たちは

年齢を数え年で数えるのが一般的だったときく。

新年を迎えると同時に齢をひとつ重ねるなんて、

ずいぶんせっかちで紛らわしいなと感じたものだけれど、

今年40歳をむかえる身になって、はじめて

数え年で数えたい気持ちになったのだから、不思議だ。

なるほど確かにせっかちだし、

当事者でなければ取るに足らないことなのだけれど、

新年を迎えたばかりの元旦に、

「今年で40年生きたのか、よくがんばりました」

という達成感にも似たどっしりとした感慨が

自然と湧き上がったのは、新鮮な体験だった。

 

学生の頃の夏休み、

群馬の祖父母の家に滞在しているときに、

祖母の古くからの友人というおばあさんがふたり、

ふらりとやってきたことがあった。

久しぶりの再会なのかそうでもないのか、

土地柄を感じさせる独特のイントネーションとともに、

そのとき交わされた会話のユニークさを

今でもよく覚えている。

わたしはおせんべいをかじりながら

耳を傾けていたのだけれど、

お茶を飲みながらの和やかな談話は、

いつのまにか年齢のことに及んで、

同年齢らしきおばあさんたちは其々、

「あなたの誕生日はいつだったかしら」「5月よ」

「わたしは3月生まれだから、あなたより2か月も年上よ」

「あら、あなた2か月もお姉さんなの、あなたは何日生まれ?」

「わたしは〇月◇日生まれだから、何処どこの◇〇さんより

10日もお姉さんなのよ」などと、

ほんのすこしでも年長者であることが一大事であるかのように

感嘆し合っていたのだ。

より多く生きることは誇らしいこと

という人生観を垣間見るとともに、

そのときの屈託のない天衣無縫なお姿からはかえって、

おばあさんたちが生きてきた時代の厳しさが偲ばれるようだった。

子どもの死亡率は現在とは比較にならないほど高く、

細菌・ウィルスなどによる疫病や不治の病は身近で、

大きな戦争も経験してきた世代の方々。

生きることの切実さはいつの時代も変わらないだろうけれど、

その様相や生存条件はおおきく異なるのだろう。

なんだか「あなた40歳なの、まだほんの子供なのね」

といわれそうで、うれしいような頼もしいような。

 

中国の思想家・孔子の語るところを

弟子たちが記した「論語」の名文句を思い出す。

「吾15にして学に志す。30にして立つ。40にして惑はず。

 50にして天命を知る。60にして耳順ふ。

 70にして心の欲する所に従ひて矩/のりを踰/こえず。」

人によって歩みの緩急はあるにしても、奥深い人生談だ。

 

新しいフェーズにはいった私の人生が、

より充実したものになりますように。

声楽の発表会

猛暑が続く東京は代々木上原ムジカーザで、

声楽の発表会を鑑賞した。

 

5月から通い始めた声楽教室の発表会と、

フランス歌曲を専門とする先生が敬愛する

ドビュッシー/1862‐1918の没後100年を

記念したミニコンサートを併せての、

ボリュームたっぷりのマチネとソワレだった。

 

声楽を学ぶ色々な方々の歌唱を聴くのは

とても興味深く、勉強にもなったし、

なにより全身全霊で唱う姿に惹きつけられた。

 

いつも思うのは、

声という楽器はほんとうにひとりひとり異なって、

それでいてどの声も素敵だということ。

楽器としての完成度はさまざまだとしても、

それぞれの美質が自然とあられて、とても魅力的で、

豊かだなと思うのだ。

 

熟練した安定感のある歌唱が素晴らしいのはもちろん、

歌唱芸術はそのうえに成立すると思うけれど、

未熟さが垣間見えるパフォーマンスから受ける感動も、

ときにとても強いものだ。

それはなんというか、芸術的な感動とは異なるのだけれど、

何かを強く表現したい、

自分は自分らしく在りたい、

自分を更新してゆきたい、という

ひたむきな情熱のようなものが伝わってきて、

人の本気というのはすごいと思う。

 

発声の基礎的なことに関しては、

むしろそういう発展途上の歌声から、

より多くのことに気づかされるように思う。

他者の歌声を知ることで、

自分をよく知ることができるし、

よいお手本と、よくないお手本と、ふたつ揃って、

はじめてよく理解できるというように。

 

コンサートホールのMUSICASAは、1995年竣工の

鈴木エドワード建築設計事務所の設計による音楽の家で、

自然光のそそぐ天上の高いホールは響きもよく、

あかるい雰囲気の、人気のホールだそう。

 

ニコンサートで演奏された

フランスの作曲家ドビュッシーの音楽は、

ピアノのソロ曲と二重奏曲に、

フルートとヴィオラとハープの三重奏曲という

バラエティーに富んだプログラムだった。

はじめて聴く曲ばかりだったけれど、

たとえば蝉がカラを抜け出して羽ばたくように、

音楽が楽譜から音へと羽ばたいてゆく現場に、

ときめくような時間だった。

とくに、晩年の53歳頃/1915年の作品、

2台のピアノのための「白と黒で」第1曲は、

2人のピアニストの音が絡み合って

情熱的でとても楽しかった。

ピアノは弦楽器であり打楽器なのだと感じた。

 

いくぶん暑さが和らいで

ほっとひと息つく夜の帰り道に、ふと想像してみた。

たとえば私たちの多くが、声楽曲で歌われることの多い

イタリア語やフランス語を理解しないのと同じように、

ほとんど日本語を理解しないであろう国の人々を前に、

やはりあまり日本語を理解しないであろう異国の歌手が

日本歌曲を原語で披露するステージを。

なんだか不思議だ。

と同時に、母国語の歌曲を唄うことに、

あこがれを感じたのだった。

 

合唱の世界では

新旧の作曲家によって日本語の合唱曲が

たくさん生まれているのだから、

日本歌曲がもっとつくられて歌われたらいいなと思う。

あるいはかつての

素敵な日本歌曲をさがしてみるのも楽しそうだ。

 

みんみん、じーじー、と、

蝉の歌をきく帰り道に。

溥儀 | わが半生 「満州国」皇帝の自伝

初夏から梅雨にかけて

溥儀/ふぎの自伝「わが半生/我的前半生」を読んだ。

 

昨夏に記録映画「東京裁判」を観た際に、

法廷で証言をする溥儀に興味をもったことと、

ベルトルッチの映画「ラストエンペラー」を

再観したことが、きっかっけだった。

 

愛新覚羅・溥儀/1908‐67は

まさに歴史に翻弄された元皇帝だ。

ほんの2歳で清朝の第12第・皇帝に即位し、

辛亥革命による王朝の終焉とともに6歳で退位し、

5年後まぼろしのように再び数日間皇帝となり、

いつしか日本人と結託して満州国の皇帝となり、

敗戦とともに捕虜となって、のちに戦争犯罪人として、

のべ15年にわたる収容所生活を送り、

その間に大改造を遂げ人民として再生したという、

特異な運命を生き抜いた人物だ。

 

本書は、中国政府の管理する戦犯収容所にて

思想改造のために、自白と罪の自己認識を目的として

まとめられた回想録を原点としているという。

溥儀が口述したものを、

共に収容されていた弟・溥傑/ふけつが

文章化したものだったようだ。 

その記録が政府や関係者等に配布されて反響を呼び、

本格的に書籍化すべく書き改めるために

ライター・李文逹との共同作業が開始されたのは、

溥儀が特赦をうけて北京植物園に勤めはじめた1960年だったという。

膨大な歴史的資料を紐解きつつ、なんども練り直されて、

1964年に刊行されるとすぐに日本語にも翻訳されたようだ。

絶版と再販を重ね、今回は筑摩書房の叢書/1977年および

文庫/1992年に収録された版を読むことができた。

 

本書でおよそ年代順に語られる人生模様は、

個人史としても歴史としても実に興味深い。

皇帝というものがどのようにつくられるのか、

ひいては人間というものがどのようにつくられるのかを、

みているようでもあった。

およそ270年続いた清王朝

愛新覚羅/あいしんかくら一族としての家系や生い立ちから、

物心ついたばかりの頃の帝王生活につづく

革命後の廃帝生活は恐ろしいほど人間離れしているし、

一族の誇りをかけて再び皇帝になるという野心が

日本軍国主義の野望と奇妙な一致を遂げてゆく様は、

よく練られた悲劇の舞台をみているようだった。

今となっては傀儡国家と皮肉される満州国だけれど、

曲りなりにも14年間成立していたのだから、

よほど心血を注いでのことだったのだと思う。

日本は国土が小さく資源も少ないという認識のもと、

列強国と対等に渡り合うために

満州の資源豊かな荒野を開拓したけれど、

そもそもの焦りや劣等感が自存自衛という名分を得て

死に物狂いの大戦へとつながったのだと思うと、胸が痛む。

遡れば、江戸末期の開国時に交わされた

不平等条約にまで辿り着くようだし、また明治維新でさえ

背景にイギリスやフランスの援助と思惑があったというから、

国家というのは、なんとも込み入った世界情勢と

無縁ではいられないのだろう。

 

一転して感動的なのは、

戦犯・溥儀のメタモルフォーゼのドラマだ。

かつての皇帝は、掃除や洗濯は勿論、

身だしなみを整えることも、靴の紐を結ぶことも、

足を洗うことも、自分でドアを開けることも、

水道の蛇口を開閉することも、

しゃもじ・包丁・はさみ・針・糸・などを

さわったことも、なかったという。

侍従の者にかしずかれて、気位が高く、虚弱で、

ほとんど雲の上に生きていたような人を、

学習と労働による改造計画を通して導いたのは、 

毛沢東主席を筆頭とした中国共産党による新政府だ。

内乱や戦争に明け暮れた広大な中国をおおむね統一し、

ひとりひとりの人民が主人公となる新世界を実現した力は、

本物と思えた。

 

たまたま図書館で

VHS「ラストエンペラー溥儀 来日特集」上下巻を

みつけて観たが、1935年初来日時/29歳の若き皇帝が

ほとんど人身御供のようにみえたし、

その皇帝をなかば盲目的に崇拝する日本国民は

なにかのお芝居のようにみえたのだった。

 

盛夏をむかえ8月が近づいてくると

終戦日が思われるけれど、

今年も小林正樹監督の「東京裁判」を観ようと思う。

 

戦争という悲劇のなかに、

高貴な意図や高邁な理想が紛れ込んでいること、

それが野蛮な戦略に利用されることが、

なんとも気になるのだ。

 

砂の中の砂金のように。

茅の輪くぐり

夏日がつづいている関東地方、

2018年の梅雨は6月29日頃にあけたことを

山手線のトレインチャンネルで知った。

そろそろ夏も本番だ。

 

翌日、6月も最終日のよく晴れた空に、

太陽をぐるっとかこんだ虹のようなものが現れた。

 

ちょうどお昼頃だったので

太陽は真上に高く輝いていたが、

そのまわりにくっきりと、

フラフープのような虹色の輪がかかって、

とても美しかった。

 

調べてみるとそれは

暈/はろ、日暈/ひがさ、などと呼ばれる大気光学現象のようだ。

上空の高い場所で、雲を形成する氷の結晶が

プリズムとなって太陽光を屈折させることでおこるという。

 

折りしも6月30日は

夏越の祓の行事が各地で行われる日だ。

半年間の穢れを祓い、つづく半年間の安泰を祈願して

茅の輪をくぐるように、

空にかかった太陽のまわりの虹が

なんだか世界の茅の輪くぐりのようにみえたのだった。

 

2018年の上半期に感謝しつつ、

つづく下半期も充実したものとなりますように。

図書館

図書館がすきでよく利用する。

 

詳しく調べたい事柄があるときは

蔵書検索のデーターベースがとても便利だし、

区内に在庫がないときは

他区の図書館から取り寄せて借りることもできるし、

新しい世界を求めているとき、

あるいはなんとなく、

なにかと近所の区立図書館に足が向く。

 

時には書店へ行き、

最新の風にあたるのもわくわくするけれど、

特に大型の書店へゆくと眩暈がして、

気持ちわるくなくなってしまうことが時々ある。

すきな本に囲まれているのにうらはらだけれど、

エネルギッシュかつ圧倒的な情報量に、

キャパシティーオーバーになってしまうのかもしれない。

 

また古本屋さんでの

ランダムな本との出会い方や、

店主が采配をふるうユニークなレイアウトも楽しい。

 

本屋さんと図書館は本質的に異なるので、

くらべることはできないけれど、

わたしの場合、図書館へ行くと

たとえば家に帰ったように、なんともほっとするから不思議だ。

子どものころ、

近所に私設の「柿の木文庫」という

本を貸してくださる有志のお宅があって、

絵本を借りによく通ったことが思いだされるけれど、

わたしにとって図書館というサンクチュアリは、

そのような原体験とも結びついているのかもしれない。 

 

ところで図書館の本はすべて

ビニールコーティングされているけれど、

汚れていたり黒ずんでいたりするので、

わたしは借りてくるとまず表面をひと通り、

電解水やメラミンスポンジでクリーニングする。 

するとずいぶんピカピカになるし、

色々な人が触っているのも気にならなくなり、

家で気持よく読むことができる。 

あるいは神経質と思われるかもしれないけれど、

同じように感じている人も多いのではと思いつつ、

借りた人が本を簡単にクリーニングできるようなグッズが

図書館にあったら便利だなと、いつも思う。

 

本は人にとって、

空気や水や食物と同じように、

栄養なのだと思う。

 

そろそろ梅雨もあける頃だろうか。

しとしとと雨の降る静かな日に

いつもより人気の少ない図書館で本の匂いにつつまれたり、

湿気を含んだふにょふにょのページをめくるのも、

季節ならではの味わいかな。 

エルンスト・ルビッチ | To Be or Not to Be

エルンスト・ルビッチ/Erunst Lubitsch の

映画「To Be or Not to Be/生きるべきか死ぬべきか」を観た。

 

第二次大戦中の1942年にアメリカで制作された本作は、

恋愛と戦争サスペンスとが織り込まれた

シニカルなコメディタッチのモノクローム映画だ。

 

物語はポーランドの首都ワルシャワを舞台に、 

第二次世界大戦のきっかけとなった

ナチス・ドイツを筆頭としたポーランドへの

歴史的な侵攻/1939年の直前からはじまる。

主人公は舞台俳優のヨーゼフとマリアのトゥーラ夫妻で、

冒頭では、当時ヨーロッパで勢力を拡大していた

総統ヒットラーを巧みに皮肉った舞台の稽古模様が展開され、

その小気味のよさにドキリとするやら笑っていいやら。

とまれ不穏な情勢のためにプログラムの変更を余儀なくされ、

やむなくシェークスピアの戯曲「ハムレット」を公演することとなる。

一座の看板女優である夫人マリアは、

連日の花束の送り主で熱烈なファンである青年ソビンスキーを

楽屋に招待すべく、メッセージを手紙にて言づける。

劇中、夫ヨーゼフ演じるハムレット王子の名台詞

「To be , or not to be , ー」を合図に訪ねてくるようにと。

素知らぬ夫ヨーゼフは名場面の最中に退場する青年を認めて、

役者としての自らの才能を憂う一方、

夫人マリアはソビンスキーと逢瀬を重ね、

ちょっとしたロマンスを楽しんでいた。

そんな中、ドイツのポーランド侵攻とともに戦争に突入し、

首都ワルシャワも陥落し、

ポーランド空軍所属のソビンスキー中尉は

マリアとの別れを惜しみつつ同盟国イギリスへと旅立つ。

彼の地にて、極秘任務を携えて

イギリスからポーランドへ渡るというシレツキー教授と出会い、

恋するマリアへの伝言「To be , or not to be」を託すことに。

ところがひょんなことから

シレツキー教授がナチスのスパイであることが発覚し、

ワルシャワの地下抵抗組織の情報を携えたシレツキー教授が

占領軍ゲシュタポに情報を通告することを阻止すべく

特務を受けたソビンスキーが帰国したことから、

物語は一気に白熱する。

マリアとヨーゼフの夫妻を巻き込んで、また劇団員を総動員して、

冒頭で上演不可となったゲシュタポを題材とした演劇を下書きに、

大胆な一世一代の大芝居をうって、

スパイ・シレツキー教授の暗殺に成功。

ほっとしたのも束の間、嘘が嘘を、芝居が芝居を呼ぶように、

さらなる危機を乗り越えるべく命がけの芝居を重ねて、

終には一同ポーランドから脱出し、一件落着、

大団円のうちに終幕という、およそ100分の物語だ。

 

 

4月末にメゾン・エルメスのル・ステュディオで観て、

再度DVDを借りて観たのだが、

ほんとうに素晴らしい映画だった。

なんといっても物語がよく練られていて、

ハンガリーの劇作家

メルヒオル・レンジェル/Melchior Lengyelによる脚本も、

役者を演じる芸達者な役者たちも、

ユーモラスで軽妙洒脱な演出も、

ほんとうに素晴らしかった。

 

第二次世界大戦の只中に、

まだ情勢が定まらないときに、

ドイツ・ベルリン生まれでアメリカの市民権をもつ

晩年のルビッチ監督/1892‐1947が、

このような作品を創ったということに、驚く。

 

もちろん公開当時に日本で封切られることはなく、

一説には1989年にようやく公開されたようだけれど、

不謹慎にも、このような上手/うわてな作品を創作する国と

戦争しても勝てるはずがないと思ったのだった。

 

劇中および題名に引用された通称「HAMLET」、

「THE TRAGEDY OF HAMLET , PRINCE OF DENMARK

デンマーク王子ハムレットの悲劇」は、

北欧の伝承物語をもとにウィリアム・シェイクスピアによって

1600年頃に書かれたとされる戯曲だが、

劇中劇が物語を推進してゆくというプロットが

映画ではより徹底され拡大され、

負けず劣らずの群像劇という印象だった。

第3幕第1場の名台詞「To be , or not to be , that is the question」は、

さまざまに解釈できるため翻訳も一様ではないけれど、

そんなところもまた古典の魅力のひとつだろう。

 

映画を機に、

シェイクスピア文学の世界を探検したい、

2018年の関東もそろそろ梅雨入りというところ、

かたつむりが喜ぶシーズンだ。 

バラの樹

子どものころ住んでいた祖父母の家の庭に

淡いピンク色のバラの樹があった。

 

子どもの背丈くらいの若い樹だったと思う。

あるとき祖母が挿し木という栽培方法を教えてくれた。

ある種の植物を、適当なところで切って、土に挿すと、

うまくゆけば育つのだという。

そんなアメーバみたいなことがあるのかと思ったが、

ものは試しで、そのバラの樹を挿し木してみることになった。

祖母が一枝、つづいて私も一枝、

剪定して庭の一角に並べて挿した。

大きな空色のジョーロで、

シャワーのように水をたっぷり注いだ。

 

良く晴れた日だったけれど、何月だったのだろう。

私は小学校の低学年か中学年くらい、

およそ30年ほど前の思い出だ。

 

今は叔父が住んでいるその家の庭で、

淡いピンク色のバラの樹は、ずっと元気に生きている。

もとの親樹はもちろんのこと、

祖母と孫娘の挿した枝はほとんど一体になりながら、

こんもりと大人の背丈ほどに大きくなって、

華やかな八重の花をたくさん咲かせている。

盛りには花の重みにたえかねて、

稲穂のように弧をかいていたから、

よほど伸びのびと生きているのかも。

 

そんな思い出も手伝って、この春、

江東区の集合住宅に住むかつての孫娘は、

ベランダの鉢に、バラの花を挿し木した。

 

昨年11月に、合唱の演奏会で戴いた

一輪の深紅の切り花を、1か月ほど楽しんだあと、

枯れてもなんとなく枯れたまま愛でていた。

水切りを繰返して15㎝ほどになった切り花は、

花から10㎝くらいのところまでは干からびて、

ドライフラワーのようになっていたのだが、

葉が左右に伸びていたところから若葉がでてきて、

その下の茎5㎝ほどは生きているようにみえた。

若葉が出ては萎れ、出ては萎れを繰返していて、

切り花の茎の切り口に、始めはかさぶたのような、

やがて大きくなって腫瘍のような膨らみができて、

根を張っているのかもしれないと驚いた。

いつのまにか冬を越し、春が来て、

その球根らしきものも2.5㎝ほどなったので、

4月12日に、土に挿してみた。

 

その後しばらくは、

新しい環境が気に入ったのか、気に入らないのか、

よくわからないような日々が続いた。

ひと月を経て5月も下旬になろうとする今日この頃、

ふたたび若葉が芽吹きだし、葉の緑色も濃くなってきた。

しばらくはこの場所で生きてみようと、

決めてくれたのだと、よろこんだ。

 

思い出の淡いピンク色のバラの樹のように、

すくすく育ってくれますように。

 

いのちは、そのいのちをみつめることで、

大きくも小さくもなるから、面白い。

ミルチャ・カントル展 | 銀座メゾンエルメス

先日、銀座メゾン・エルメスのギャラリーで

ミルチャ・カントル展を観た。

 

「あなたの存在に対する形容詞」と題された個展は、

1977年ルーマニア生まれの作家による、

存在性という古典的なテーマを

現代的に表現した試みだと感じた。

 

会場にはスタイルの異なる3つの作品が展示されていたが、

そのなかのひとつに、とりわけ明快で美しい作品があった。

「Are You the Wind?/風はあなた?」は、

ふつう風に揺られて鳴るウインドチャイムをドアと連結させて、

観覧者が仮設の扉をスライドさせて展示空間に入ると

一面に吊られた無数のチャイムが鳴り響くという、

ごくシンプルなインスタレーションだった。

建築家レンゾ・ピアノのガラスキューブの透明な空間に、

無機質なウィンドチャイムが幾重にも共鳴して、

星のように遠くあるいは近くで、存在を暗示する音が瞬く。

それらがしだいに波のようにひいてゆく様は自然そのもので、

揺れ動く音に耳を澄ませているだけで心地よい。

その日は観覧者がまばらだったこともあり、

ほどよい静寂につつまれたころ、

再び任意の他者の入場とともに鐘の音が鳴り渡り、

空間が一瞬のうちに変容する様は、とても鮮やかで、

自分が扉をあけて入ったときの驚きと、

他者が扉をあけて入ってきたときの音の楽しさに、

ときめいた。

 

タイトルの通り、

風はわたし、で、

風はあなた、だった。

 

世界を変化させるというよりも、

わたしたちの認識が変化することで、

経験する世界が変わるということを示唆する、

巧まざるして巧みなクリエイション。

 

ゴールデンウィークで賑やかな銀座の街に、

ひとりひとりの存在の音、

きこえない鐘の音を聴きながら、歩いた。

 

生きていること、

存在していることは、

おそらくあらゆる形容にもまして、

すばらしいことと思うのだった。

詩 しゃぼん玉

まんまる

きらきら

 

夢いっぱいに

ふくらんだ

 

しゃぼん玉のような 

こどものひとみが

 

いつしか

 

音もなく

はじけて

しぼんでしまうことがあっても

 

だいじょうぶ

 

地球に

やってきたばかりの

幼いたましいは

 

色々なことを

経験したくて

 

好奇心で

いっぱいだから

 

かくれんぼや

鬼ごっこが

だいすきで

 

ころんだり

ぶつけたり

すりむきながらも

 

知らないこと

初めてのこと

新しいことに

夢中になって

 

そのうちに

しゃぼん玉のことは

忘れてしまう

 

そして

どうかすると

うっかり

 

自分のことも

忘れてしまうかもしれない

 

けれども

いつか

 

風がふいたら

思い出す

 

虹をみつけるように

みつけるでしょう

 

雨上がりの

水たまりに映った

ひとみのなかに

 

まんまる

きらきら

 

しゃぼん玉のような

 

夢がいっぱい

つまっていることを

魔の山 | トーマス・マン

ちょうどひと冬をかけて、

ドイツの文豪トーマス・マン

魔の山/DER ZAUBERBERG」を読んだ。

 

1924年に発表された全2巻の長編小説は、

スイスの高原サナトリウムでの療養生活を舞台とした

青年ハンス・カストルプの7年間にわたる成長物語であり、

同時に、第一次世界大戦直前のヨーロッパの

不穏な雰囲気を描き出した大河小説でもある。

 

物語の主人公ハンス・カストルプは、

将来はエンジニア/造船家として故郷ハンブルク

造船所で働くことになっていた23歳の青年で、

ひょんなことから、見舞いがてら、

いとこのヨーアヒムが結核療養のために滞在している

アルプスのサナトリウムを訪れる。

夏の3週間という滞在予定が、

風邪をひいたことをきっかけに思いがけず結核と診断されて、

戸惑うまま療養生活をはじめることとなり、

高地の超俗的な生活形態のなかで、様々な出会いも手伝って、

人生とは、またいかに生きるべきか、

という哲学的な思索に魂を奪われてゆく。

やがて錬金術的な目覚めと変容を経験し、

第一次大戦の足音とともに参戦を決意することで

自己実現を遂げ、現実の世界へと合流したところで

7年間のおとぎ話は幕をとじる。

 

作家の代表作のひとつされる本作は、

第一次世界大戦をはさんで

12年にわたって書き続けられた大作で、

その戦争体験と深く結びついていることが特徴的だ。

執筆のきっかけとなったのは、1912年に

高原サナトリウムに入院したカーチャ夫人に付き添って

3週間ほど滞在した作家の実体験にあるそうだが、

当初は、書き終えたばかりの「ヴェニスに死す」と同程度の

短編小説になる予定だったという。

ところが翌1913年より執筆を開始してみると

途方もなく大きな物語へと発展することが予感されて、

第一次世界大戦が始まった1914年頃には

上巻の1/3が書き進められていた程度であったそうだが、

戦争中は他の重要な評論やエッセイのために執筆を中断し、

大戦が終結した翌1919年に再び書き進められ、

1924年に完成したという、まさに渾身の大作だ。

 

長大な物語には

幾つものテーマが織り込まれており、

時間と経験のミステリーもそのうちのひとつだが、

作家が本作に注いだ12年という歳月が、

小説の7年という月日と共鳴していること、

主人公は23歳から30歳に、

作家は37歳から49歳に到達したことも、意義深い。

 

壮年の作家の旺盛なエネルギーは縦横無尽で、

生と死、健康と病気、精神と肉体、善と悪などの

本来不可分のあらゆるものを、

自由と放逸、博愛と偽善、革命とテロリズムなどの

似て非なるあらゆるものを、

また神学や哲学について、宗教や歴史について、

音楽や芸術について、思想や政治について、

フリーメイスンやイェズス会の何たるかについて、

そのほか思いつくまま、思いつくかぎりを、

詰めこめるだけ詰めこんだという印象だった。

 

国際サナトリウム「ベルクホーフ」の

いわくありげなふたりの医師と看護婦たちや、

ドイツ、イタリア、ロシア、イギリス、スウェーデン

スイス、オランダ、メキシコ、中国などの各国から集まった

個性豊かな療養患者等の描写が、実に鮮やかで楽しい。

なかでも、主人公の教育者的な役割を演じる

セテムブリーニとナフタの間で交わされる

非常に観念的で弁証法的な議論は、質量ともに圧倒的で、

こと世界大戦によって作家が通過しなければならなかった

多分に政治的な自己究明の軌跡が反映されているようで、

感慨深かった。

 

また幾つかの印象的なドラマが彩りを添えつつ

物語を推進してゆくことも小説の醍醐味だろう。

既婚者ショーシャ夫人への恋心が

奇妙な三角四角の恋愛関係に発展したり、

恋敵でありながら尊敬の対象でもあった

大人物ペーペルコルンのまさかの自殺や、

いとこヨーアヒムの勇敢な軍人的な死、

霊媒体質の少女を通しての心霊体験、

セテムブリーニとナフタの決闘などを通して、

物語はいたずらに高揚を辿ってゆくが、

当時のヨーロッパの破局的な情勢と呼応して、

死のなかから愛がうまれることを希求する

ヒューマニックな終結部に救われるようだった。

  

訳者・高橋義孝氏によると、

原文には言語のくすぐりがちりばめられて、

翻訳では表現しきれないニュアンスがかなりあるという。

ともあれ、安定感のある堅実な翻訳により、

標高1600mのイニシエーションの物語「魔の山」を

無事に通過でき、よかった。

 

その後、歴史的な総統となるヒットラー

南ドイツ・バイエルンの別荘の呼称「ベルクホーフ」は、

小説に依っているのだろうか否か、いずれにしても、

第二次大戦において反戦的な立場を貫いたトーマス・マンは、

非常にドイツ的でありながら、ドイツ人である以上に、

リベラルな国際人あるいは地球人であったのだ。

 

たとえば、地球は丸い、というなんでもことが、

「Der Zauberberg/魔の山」の洗礼を受けて、

どことなく形而上的な意味を帯びてくるようだから、

小説の魔力は深遠だ。

熊谷守一 生きるよろこび

桃の節句が過ぎた頃、

熊谷守一 生きるよろこび」展を

竹橋の国立近代美術館で観た。

 

画家・熊谷守一/くまがいもりかずの

没後40年の記念展でもある本展は、

油彩200点と、日記・葉書・スケッチ帳などの

資料およそ80点とが一堂に会した、

はれやかな大回顧展といった趣だった。

その97年の生涯を辿るように

3部に構成された会場はいかにも明快で、

1:闇の守一/1900-10年代

2:守一を探す守一/1920-50年代

3:守一になった守一/1950‐70年代

と年代ごとに展示された作品は、

質量ともに充実し見応えがあった。

 

熊谷守一/1880‐1977は、

明治13に岐阜県・付知村の商家に生まれ、

裕福だが複雑な幼年時代をおくり、

17歳で上京してのち画家を志すようになったという。

実業家で政治家でもあった父親の反対をおして

20歳で東京美術学校西洋画科撰科に入学、

卒業後は同校/現東京藝大の研究科に在籍しつつ、

日露戦争前後には農商務省樺太調査隊に2年程参加。

1907年/27歳で研究科をでるが、在学中より

白馬会、文部省、二科、光風会などの展覧会に

作品を出品し、一定の評価を得たようだ。

1910年秋に母危篤の報をうけ付知/つけち村に帰郷し、

そのまま5年ちかく滞在することとなり、

山深い土地ならではの日傭/ひようという

材木を川流しで運搬する仕事を経験したという。

1915年/35歳で再び東京に拠点を移し、

美学校時代の友人より生活の援助を受けつつ

絵の仕事を続け、二科展を中心に作品を発表。

1922年/42歳で結婚し、2男3女をもうけたが、

次男と三女は早逝、のちに長女も21歳で病死し、

生活の困窮とともに苦しい時期が続いたという。

1929年/49歳から10年程は二科技塾で指導にあたり、

1940年前後には重要なコレクターとの出会いもあり、

なんとか困難をやり過ごしながら画業を深め、

1950年代/70歳過ぎに、ひろく知られることとなる

代名詞のような簡朴な作風に辿りつき、

1977/S52に97歳で亡くなるまで、

独自の境地に在りつづけた無二の画家だ。 

 

本展でとりわけ印象的だったのは、

ひとりの芸術家の、闇から光へのはげしい反転だ。

1908年/28歳の作品「轢死/れきし」は、

踏切で女性の飛び込み自殺に遭遇したことがきっかけとなり

描かれた生々しい油彩で、経年変化も手伝って

キャンバスの闇にはほとんど何も見とめえないのだが、

そのような死を作品化する作家の天性に、

あるいは危ういエゴイズムに、いささかおののく。

同様に闇と対峙する初期の作品には、

しっとりとした暗さのなかに繊細さが感じられるが、

徐々に明るさが増してくる中期の作品では、

節度のある野生あるいは奔放さが色彩とともに噴出し、

時とともに整理され省略されていく画風の変容が興味深い。

そして色彩やモチーフと自在に戯れる後期は、

まさに真骨頂といえる強度で、本展の名でもある

「生きるよろこび」ここにありといった趣だ。

キャンバスのなかに、魔法のように命を与えられた

他愛のない花や蝶や亀や猫などが、

かわいいような、あやしいような、うれしいような。

否定も肯定も、美も醜も、感傷も感情も、

全く言いたいことは何もないといったふうなのに、

そのすべてを表現しているような不思議な世界だ。

 

日経新聞の名コーナー「私の履歴書」のための

聞き書きをまとめた著書「へたも絵のうち」/1971年や、

同じく聞き書きの著書「蒼蠅/あおばえ」/1976年では、

最晩年の作家のモノローグに接することができ、

なんとも味わい深いが、

そうとうのツワモノであると同時に、

ずいぶんとムツカシイ人であったのだろうと偲ばれる。

 

 わたしは、わたし自身も、仕事も

 そんな面白いものではないと思います。

 わたしの展覧会をしたって、どうっていうことはない。

 やる人もやる人だし、見る人も見る人だと思います。

  /「蒼蠅」より

 

なかなかどうして、

幾重にも屈折する、またとない芸術家に、

養われるような幸福な展覧会だった。

詩 藍の月

昼と夜の

淡いはざま

 

夕暮れどきの

ゆらめく空に

 

おとぎ話のような

三日月が

 

ぼうっと

うかんでいた

 

やわらかな

藍と桜色とに

 

彩られた世界は

めくるめく

 

甘美なシンフォニーを

総奏しているかのようだった

 

青と赤の

優美なドレスを纏った

  

イソヒヨドリ

飛んできて

 

類い稀なる

ソリストのごとく

 

天上的な歌を

奏ではじめた

 

チュルリラル

 

自然界は

言葉や音楽に

 

満ちあふれて

いっぱいです

 

言葉の

完全さと

不完全さとを

 

音楽の

自由さと

不自由さとを

 

ひとつにして

 

きみたちも

きみたちなりに

 

高貴な歌を

唄いなさいな

 

チュチュリルラ

 

湿気をふくんだ

三月の

 

霞がかった

大気につつまれて

 

藍の夕闇のなかに

 

ぼぅっと

朧む三日月は

 

よろこびと

かなしみの

 

涙をたたえて

微笑する

 

永遠なる

父母のように

みえたのだった

さくら 2018

ベランダの啓翁ざくらが開花した。

ピンク色の可愛らしい花に

今年も逢えてうれしい。

 

ひとあし先の2月に花を咲かせる

寒ざくらや河津ざくらは、

春の本格的な訪れをほのめかせて、

人の心を次の季節へと誘う予言者のよう。

 

そして、冬と春がせめぎ合う

ドラマティックなひと時を乗り越えて、

ますます高まる陽気とともに、

もう待ちきれないというように花を開いた

鉢植えの啓翁桜/けいおうざくらは、

ひっそりと、けれどもとびきりの美しさで、

いまこのときを祝福している。

 

私たちの心もさくらのように

春のよろこびにほころぶよう。

 

 

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