佐賀町日記

林ひとみ

帯状疱疹とお正月

2018年のお正月は帯状疱疹とともにやってきた。

 

なにかと気忙しい年末は12月30日の夜に

唐突にはげしい腰痛がはじまった。

大掃除というほどではないが、

普段は手が回りにくい浴室のタイルとか、

冷蔵庫の裏とか、クローゼットの下とか、靴箱とか、

あちこち掃除したので、身体に堪えたのだと思った。

じんじんとした腰の痛みは2~3日つづき、

とくに就寝時に強く感じられて悩ましく、

元旦には骨盤ベルトを装着して、初詣に行列し参拝した。

そうこうするうちに痛みは左側に集約されて、

ぴりぴりしたものになり、気付いたときには

みみず腫れのような、ぼわんとした赤い発疹が

痛みのある左の腰回りに現れて、びっくりした。

新年3日の早朝に「家庭医学大全科」なる

6㎝ほどの分厚い病気の手引きを参照し、

帯状疱疹らしきことが判明したので、

その日の午後に江東区の休日急病診療所へ向かった。

診療所は想像した通り、病人でごったがえし、

具合の悪そうな咳があちこちでこだまして、

さながら野戦病院のごとく、ひるんでしまう。

一見するとインフルエンザと思しき高熱に

苦しめられている人が多いようだった。

帯状疱疹らしき症状が、どことなく場違いのように、

軽症であるように錯覚されて待つこと1時間と少し、

ふたつある診療室では、順番待ちの30名ほどの患者を

テンポよく快活に診察していて見事だった。

ほどなく名前が呼ばれ診察を受けると、

担当の誠実そうな若い男性医師はいささか戸惑いながら、

「ぼくは皮膚科じゃないのですが、

たぶん帯状疱疹でいいと思います。

とりあえず抗ウィルス薬を出しておきますが、

休みが明けたら必ず専門医を受診してください」

と診断し、そばにいたベテランらしい看護婦さんは

「うん、そうね、帯状疱疹ね」と、さしあたって

対応を迫られた若い医師をサポートするように同意した。

一抹の不安は残るものの、仕方もないので、

かかりつけの皮膚科が開業する9日まで、薬を処方してもらった。

 
帯状疱疹/たいじょうほうしんは、

水痘・帯状疱疹ウィルスによる神経痛と発疹を伴う疾患で、

子どもの頃に感染した水疱瘡のウィルスが沈静化した後、

神経節に潜み、何かのきっかけで再活性化し発症するという。

ウィルスは神経を傷つけながら皮膚表面に出てくるので、

身体の片側に、痛みにつづいて帯状の発疹が現れるのが特徴で、

治療はなるべく早く、ということだった。

 

その後、かかりつけの皮膚科に受診し、

応急の診断と処方が的確であったことを聞き、安心した。

今となっては、骨盤ベルトまで持ち出して

腰痛と信じて疑わなかったことが滑稽で、

神社の神様たちも笑っていたかもしれないけれど、

2018年のお正月はいつになく印象的に明けたのだった。

 

抗ウィルス薬のおかげで次第に症状もおちつき、

気持ちに余裕がでてくると、

お正月に診療所で働いていたドクターやナースや

薬剤師や事務の方々の顔が思い出され、

頭が下がるような有難いような気持ちが湧いてくる。

 

そして改めて、日頃は顧みることのない

「家庭医学大全科」をのぞいてみると、

世には本当にたくさんの病気があるのだと戦慄する。

どこにも痛みがなくて、異常も異変もない、

ノーマルな状態が、奇蹟のように感じられてくる。

元気で好きなことができるのは、

ほんとうに幸せなことなのだ。

 

療養にはげみつつ読み進めた

トーマス・マンの長編「魔の山」の一説、

「病気は、いわば生命の放縦な一形式である。」

という表現が、ことさら印象深く響いてくる。

健康と病のコントラストもまた、

人生の興味深い一部なのだろう。

 

思いもよらぬ帯状疱疹の洗礼により、

心身が清浄されたであろうと信じつつ、

2018年も素敵な一年になりますように。

詩 ゆめ

夢をみている

夢をみた

 

夢のなかの

またその夢

 

そばにいる君と鳥と

夢のなかでも遊ぶ

 

わたしたちがいま

生きている時空は

 

本当には

なんだろう

 

わたしも

きみも

あのひとも

 

ほんとうに

みたい物語

 

つくりだす

魔法使い

 

夢をみている

夢をみた

 

夢のなかの

またまたその夢

 

河のほとり

おとぎの国

 

幸福の

鈴の音

 

そばにいる君と鳥と

永遠の夢に棲む

 

夢をみている

夢をみた

 

わたしたちが

生きている地球は

 

丸く青い

夢の惑星

第2回スペイン音楽国際コンクール・声楽部門

先日、港区の高輪区民センター区民ホールで一般公開された

第2回スペイン音楽国際コンクール本選会・声楽部門を観覧した。

 

CD音源審査による予選を経た7名の歌手

/ソプラノ4名、メッゾ2名、テノール1名による競演は、

ほどよい緊張感と情熱につつまれた、見応えのある90分だった。

 

プログラムは各自、課題曲として

作曲家オブラドルス「スペイン古典歌曲集」より1曲以上と、

自由曲としてオブラドルス以外のスペイン作曲家の作品を、

併せて10~12分以内という構成だった。

 

スペイン歌曲という知られざるジャンルのためか、

250席の会場は、審査員6名と、出演者の近親者と思しき数名と、

声楽専攻の学生らしき幾名とで、こじんまりとした雰囲気だった。

はじめて聴く楽曲ばかりだったけれど、

7名それぞれのパフォーマンスから、声という楽器の

ユニークでカラフルな多様性を楽しむことができた。

純朴な、力強い、麗しい、ふくよかな、恰幅のよい、

すっきりとした、艶のある、さまざまな声。

たとえば、何名かの歌手は

課題曲で同じ曲を歌ったのだけれど、

おどろくほど歌い口やニュアンスが様々なので、

ほとんど別の曲を聴いているかのようだった。

 

訓練を重ねた一定の水準以上の歌唱に対して

甲乙をつけるのは簡単ではないけれど、なかでも

とびぬけて素敵な歌声を聴かせてくれた人が、ひとりいた。

きっと会場の誰もが同じように感じただろうと思われるほど、

キラリとしていた。

 

見知らぬ人の演奏を聴くときは、

少なからずこちらも緊張するものだけれど、

彼女の歌唱がはじまってすぐに、そのような隔たりは

雲が風にさらわれるように消えて、

虹を渡って新天地へ運ばれるように、魅了された。

どのような筆圧も筆跡も感じられない、

安々と自然に奏でられたような歌唱に、おのずと拍手は熱くなる。

たとえば天性の歌手は、どんな曲でも

魅力的に歌うことができるのかもしれないと思ってしまう。

 

スペイン音楽コンクールは、

同日にギター部門、ピアノ部門、ヴァイオリン部門も開催され、

夜には結果発表と表彰が行われたよう。

 

結果を見届けることはできなかったけれど、

7名のすべての歌手の歌声と、それから、

中山美紀さんの人を幸せにする素敵な歌唱を

聴くことができてよかった。

大きな拍手をおくります。

トニオ・クレエゲル | トーマス・マン

20世紀ドイツ文学の大家トーマス・マン

初期短編小説「トニオ・クレエゲル」を読んだ。

 

1903年に出版された「TONIO KRÖGER」は、

1901年発表の処女長編「ブッデンブローク家の人々」で

成功を収めた直後、27歳頃に書かれた作品で、

自伝的要素の色濃い、少年時代への追想と邂逅の物語だ。

 

現在は幾つかの日本語訳で作品を楽しむことができるが、

1927年/S2に出版されて以来、名訳として語り継がれている

実吉捷郎/さねよしはやおによる岩波文庫版を選んだ。

 

裕福な穀物商家に生まれた作家の自画像ともいえる 

トニオ・クレエゲルの主題による第1楽章では、

故郷である北ドイツの港町リューベックでの過ぎし日々が

象徴的なふたりの人物とともに描写される。

ひとりは14歳の頃に愛した学友ハンス・ハンゼンで、

並外れて美しく明朗な友人に対する憧憬や愛とともに、

およそ対極的で風変わりな自己への認識が深めらる。

もうひとりは16歳のころに恋した

快活な金髪の娘インゲボルグ・ホルムで、

舞踏の講習会では彼女に見惚れるあまりに

とんだ失態をさらし道化のごとく笑いものになった。

時は流れ、青年は独自の流儀で大人になる。

芸術家としての自己に目覚め、故郷を離れ、

精神と言語の力に天職を見いだし、作家として成功する。

つづく第2楽章は、春の南ドイツ・ミュンヘンを舞台に、

30歳すぎの作家と女友達の画家リザベタ・イワノヴナとの

芸術談義が、なかば独白めいて饒舌に交わされる。

つづいて秋の第3楽章では、

北方デンマークへの旅の途中で13年振りに故郷に立ち寄る。

民衆図書館として再利用されている生家を訪れ、 

警察に手配されている詐欺師と疑われる奇妙な体験をし、

複雑な余韻とともにバルチック海をデンマークへと渡る。

数日コペンハーゲンを観光し、さらに北へ30㎞ほど移動して

ヘルシンゲアのハムレット王子ゆかりの古城クロンボ―近郊の

海岸のホテルに落着く。

最終の第4楽章では、シーズンを過ぎたホテルでの

穏やかな数日ののちに数奇な出来事に遭遇する。

街からバカンスにやってきた賑やかな大勢の一行のうちに、

かつて愛と憧憬の的であったハンスとインゲボルグが

手をたずさえて同行しているを発見したのだ。

すっかり動揺した彼は、

夜にひらかれた舞踏会を覗きにゆくのだけれど、

今回の道化役は彼ではなく、ダンスで転倒した少女で、

彼は少女を抱き起すナイトの役を演じることになったのだ。

けれども思い出のふたりとは視線も言葉も交せぬまま、

彼は自室に舞戻り、友達のリザベタに手紙を綴り、

告白めいた青春の物語は、円を描くように完結する。

 

女流画家リザベタとの間で交わされるのは、

芸術家としてのある種の優越や矜持にはじまり、

一方では病的なまでの異質性や欠落の表明、

創作においての逆説や、詐欺師性についての自覚、

健全な市民と宿命的な芸術家という対比における

芸術を必要としない凡庸で幸福な市民に対する

ひそかな激しい憧憬、いわゆる俗人愛についてなどだが、

物語は美しい手紙とともに静かに幕を閉じる。

「この愛を咎めないで下さい、リザベタさん。

 それはよき、実りゆたかな愛です。

 その中には憧憬があり憂鬱な羨望があり、

 そしてごくわずかの軽侮と、それから溢れるばかりの

 貞潔な浄福とがあるのです。」

 

トーマス・マンは後年/1939年5月10日

プリンストン大学の学生たちのために、

『「魔の山」入門』と題された自作についての講演を行い、

影響を受けたといわれる音楽家について語っている。

ヴァーグナーの例にならってライトモティーフの利用を

 物語の中に移しました。-略ー

 音楽の象徴的な行き方という意味でヴァーグナーに従ったのです。

 これを私は最初に「トニオ・クレエゲル」で試みました。』

 

作家が述べたように、ライトモチーフとして

ある一節が効果的に幾度も挿入されたり、

ロンド形式のごとく物語が高まってゆく様は、なるほど音楽的だ。 

またわたしがトーマス・マンという作家に魅了されたのは、

その鮮烈な描写の筆致だった。 

研ぎ澄まされた密度の高い文章は、

実吉捷郎氏の格調高い文体と相まって、

稀にみる幸福な読書体験を授けてくれた。

 

「最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ」

とはよく知られた一節だが、語られたその言葉の背後から、

語らざる作家の声が、かすかに聴こえるような気がした。

「最も多く愛する者は、常に敗者であり勝者でもあり、

常に悩まねばならぬゆえに幸福たりうるのだ」と。

詩 イヴニング・エメラルド

わたしのなかの

男性はあなた

 

あなたのなかの

女性はわたし

 

表現されることのなかった可能性を

演じ合う

 

土に息を吹きかけて

人間をつくった神々は

 

どうしてこれほどまでに

美しく豊かな世界を

 

完璧につくりだしたのだろう

 

闇や悪の力さえ

 

その光のうちに

吸収されてしまうほどに

 

世界は光り輝いている

 

あまたの奇跡に彩られた

地上の片隅で

 

恋人たちは

めぐり逢い

 

ひとつの光からつくられた

ふたすじの光のごとく

 

世界を経験している 

 

あなたを

過不足なく理解して

 

わたしは

過不足なく愛されたい

 

闇のなかでも健気に輝く

オリーヴ色の宝石をみるように

 

うっとりと

いつも感動をしている

 

あなたに

わたしは

 

力強く

たおされたい

たおしたい

声楽と合唱

2012年から声楽を学びはじめて5年経つ。

 

10年続けて歌えるようになるかどうかといわれると、

かえってチャレンジしたくなるから不思議だ。

 

クラシックの声楽において目指すところは、

腹壁に支えられて安定し、響きの充実した、

健全な歌声を習得しつつ育てることといえるだろうか。

そのためには、パッサージョ/換声点をふくめた

自分の声の性質を理解することが不可欠だ。

 

人の発声器官は

とてもデリケートで、どこかミステリアスでもある。

歌声は、呼気が声帯を通過し、

各共鳴腔/喉頭咽頭・口腔・鼻腔などを

効果的に用いて奏でられる。

声帯を内部にかかえる甲状軟骨/のどぼとけは

耳の後ろあたりから左右の茎突舌骨筋と茎突咽頭筋により

なかば吊り下げられているような不安定な様相で、

効率的に歌うには体幹の筋肉でサポートする必要がある。

だから歌唱の基盤は有機的な全身運動、

ほとんどスポーツと等しい筋運動といえそうだ。

そうしてはじめて音楽表現が成立する、

声の芸術といいたくなるようなもの。

 

身体構造や発声器官のわずかな形状の差異により、

声種はいくつかのカテゴリーに分類されている。

ひとりとして同じ歌声はないけれど、

おおよそ説得力のあるカテゴリーに

自分の声を照らし合わせてみる。

 

私の発声器官は

日本人の女声としては比較的しっかりとしていて、

声帯はおそらく長くて薄い。

そのため音域は広めだけれど、厚みのある声ではなく、

また声の中心をどこにもってゆくかで、迷いやすい。

声種はソプラノやアルトとは思えないので、

メッゾ・ソプラノでよいのではと認識している。

 

声楽を学びながら歌声を育てるなかで、

混声や同声の合唱に参加している。

色とりどりの各人各様の声に出会うことや、

楽しみながら勉強できることが、なによりうれしい。

 

大きな課題である喚声点についても、

他者の歌声から学ぶことは多い。

私の上のパッサージョは E あたりに感じているけれど、

その日の調子、前後の音の関係や母音によって、

ものすごく歌いにくい。のどが奥にひっこんだり、

響きのポイントがみつからなかったり、

呼気圧が強すぎたりすると、たちまちうまくいかなくなる。

その手前のCとかDとか、AとかBあたりも、

弱いというか支えにくく、ずいぶん苦労している。

 

一方、合唱に参加するうえで戸惑うことも少なくない。

たとえば、ある合唱団では、

アルトパートで胸声的な音色を奨励されたかと思えば、

別の合唱団では、

ソプラノパートで線の細い華奢な音色を求められたりする。

 

合唱全体の音色やハーモニーを優先するのは最もなので、

自分らしく建設的に歌える場所を選ぶことは

自分の責任でもある。  

 

声楽は本当に楽しい。

のどがリラックスしてポジションが安定し、

下半身や胴体のコンビネーションがとれて歌えるときは、

声というより存在が解き放たれるような煌きを感じる。

自分の声を育てて伸ばし、確立させる道のりは、

ほんとうに尊くかけがえのない経験だと思う。

 

どこか人生の歩みと似て、

人それぞれの道を全うする喜びに溢れていると思うのです。

 

詩 さくらんぼ

ある朝

目覚めて 

 

ふと

鏡をのぞくと

 

見なれた

わたしの顔に

 

見おぼえのない

ほくろがふたつ

 

ちょいと

くっついていた

 

あら

不思議

 

いつから

あったのだろう

 

いつのまに

できたのだろう

 

毎日みて

いるはずなのに

 

あるいは

 

よくみて

いないのだろうか

 

まるで

新しい自分に

出会ったようで

 

そわそわと

ものめずらし気に

まじまじと

 

できたての

ふたつのほくろに

 

名をつけた

さくらんぼと

 

それは

とんと

 

可愛らしく 

仲睦まじく

 

わたくしのほほに 

ふたつならんで

 

実ったのです

詩 神無月

秋の深まる

神無月

 

あちこちの

いろいろな

 

神様たちは

いっせいに

 

いづもの国へ

むかいます

 

いにしえより

つづく

 

かむはかり

という

 

神様たちの寄合が

ひらかれるのです

 

人々が

一年のうちに

となえた願い事は

 

おおきくも

ちいさくも

 

美しくも

卑しくも

 

等しく

天に届きます

 

偽らざる

人々の真心を

 

それはそれは

ようくご存知ですから

 

神在月

出雲の国では

 

神様たちは

神様たちの

やり方で

 

願いを叶えて

くださるのです

 

ときに

意外なほどさりげなく

 

また

このうえなく完璧に

ぬか床つくり

先日、雨の降りしきる夕刻に、

ぬか床つくりのワークショップへ参加した。

 

近年、近所の酒屋さんの軒先でちょいと購入した

自家製のぬか漬けを食べて、はじめて

その美味しさに魅了されたことがきっかけで、

またローフードや発酵食の観点からも

さまざまな酵素を手軽に摂取できる

頼もしいナチュラルフードだと再認識したのだ。

 

ぬか漬けの起源は奈良時代にまで遡り、古来は

臼で挽いた穀物と大豆を床とした漬物であったという。

その後、江戸時代頃より米ぬかを使用するようになり、

発祥の北九州・小倉には、およそ380年も受け継がれている

由緒あるぬか床があるというから、びっくりする。

 

はじめて作るぬか床の材料は、

お米を精米したときにでる生ぬか1000gに、

水1000ml、自然塩100g、鷹の爪1本という、

きわめてシンプルなものだった。

ふかふかの自然栽培米の生ぬかに

水に塩を溶いた10%の塩水をようくなじませ、

今回は最初漬けに人参・かぶ・オクラを漬けて、

雑菌の繁殖を抑制する鷹の爪をのせ、

2週間ほど朝晩と手を入れて、適宜野菜を交換しながら、

ぬか床を整え、育ててゆくのだという。

 

ぬか床と塩水を混ぜる工程は、

白玉団子をつくるようで気楽で、

手についた生ぬかを舐めてみると、その新鮮な風味から

よい漬け床ができそうだという期待がふくらみ、わくわくした。

 

ワークショップの講師は、

「おふくろ男子」という愛称をもつ若い男性で、

みるからに美味しそうなその佇まいに場が和む。

集まった6名の受講者は、

かつてぬか床が臭い・酸っぱい・塩辛いとか、

カビが生えた・水分の調整がうまくいかないなどの

不良経験をもつ方がほとんどで、

その対処法・保存法・手入れ法などに関心が高まる。

ぬか床をよくするために入れると良いといわれることのある

辛子・山椒・昆布・にぼし・日本酒・卵の殻・にんにくなどは

使用せずに、自然栽培の土づくりにおける肥毒の喩えを用いて、

ごくシンプルにぬか床を整え育てることができるという方法論は

興味深く、理解も深まる。

「無理せずに、ほどよく手をかけて、続けてください」

というアドバイスが心強い。

 

漬ける野菜は、

大根・人参・きゅうり・かぶ・なすなどの

オーソドックスなものから、

ズッキーニ・ベビーコーン・ピーマン・アスパラガス・

長芋・ごぼう・生姜・きのこ・アボカドなどの

ユニークなものまで、あるいはほかにも、

切り方・漬け方の工夫次第で美味しく食べられるという。

季節ごとの漬物づくりがこれから楽しみだ。

 

ひととおりの作業と講義の後、

ごはんとおみおつけと漬物をいただきながら、

質問や感想をシェアしあい、講師の情熱に導かれつつ

塩や水やコーヒーにまつわるこぼれ話を楽しく拝聴した。

 

情報もお腹もいっぱいになり、

ずっしりとしたぬか床を抱えて、家路をほくほくとたどる。

すっかり夜になり、雨も降りつづいていたけれど、

3km/40分ほどの道のりをあっという間に歩く。

 

隅田川にかかる永代橋を渡るとき、

ライトアップされたスカイブルーの照明につつまれて、

ふと今ここに生きていることが

かけがえのない愛おしいことに感じられて、

心がじわじわと、発酵しているようだった。

それはたとえば、仕込んだばかりのぬか床の

ささやかな微生物たちのメッセージということにしたい。

かぼす 2017

今年も、かぼすの季節がやってきた。

 

10月初旬に大分から届いたかぼすは、

気まぐれな9月の天候のせいからだろうか、

例年と比べるといささか不揃いで、

あちこちに傷がついていたが、

ふたつに割ってみると、

いつもと変わらぬジューシーで爽やかな酸味が

部屋いっぱいにひろがり、うれしくなる。

 

さっそく輪切りにしてはちみつ漬けをつくる。

きのこと秋刀魚のパスタに回しかけて食べる。

あぁおいしい、初秋の味覚だ。

 

今年はかぼすの種で、

ローションをつくることにする。

かぼすやゆずやレモンなどの柑橘類の種には

ゲル化作用のあるペクチンが含まれているので、

水やアルコールに浸すと

とろりとした天然の保湿液になるのだ。

 

作り方はとても簡単で、

5粒ほどの種を小瓶やココット皿にいれ、

種がしっかり浸るくらいの水を注ぎ、

冷蔵庫で一晩おけば、2~3日分のローションの出来上がりだ。

洗顔後の肌にカバーすると、

しっとりさっぱりとして、ほんとうに心地よい。

なんて素朴で上質なローションだろう。

 

たとえば日本酒や焼酎でつくると

保存性が高まるので、まとめて作り置きできるという。

また、種は乾燥させたり冷凍したり、

食べるたびにちょこちょこ集めてストックできる

手軽さも気に入っている。

 

乾燥しはじめた秋の空気に、

自然からの何よりのおくりものだ。

 

 

秋の深まりとともに世間は、

10月22日の国政選挙に向けて、にわかに色めきたっている。

あちこちで選挙カーや街頭演説が、

盛んにいろいろなことをアピールしている。

その頑張りには頭が下がるけれども、

この期に本当にアピールする必要があるのは国民のほうで、

どうしてか民意が反映されているようには思えぬ政治に、

がっかりしてもいられない。

 

「誰に、どの政党に投票しますか?」と

受話器のむこうで自動音声システムが再生される。

RDD方式/無作為な電話番号作成方式というけれど、

選挙のたびに必ずかかってくる。

 

「政治はみんなが一緒に生きる道ですから、

いちばん大事な問題でー」

とは、文士・小林秀雄の後年の見解だけれど、

数学者・岡潔との対談集「人間の建設」/新潮社を再読しつつ、

誰に、どの政党に投票するかを、考えたい。

 

秋の夜長、

かぼすの皮を浮べた湯船につかりながら、

ゆっくりと。

 

 

sagacho-nikki.hatenablog.com

 

 

 

詩 いちじく

初夏の明るい

陽射しをあびた

 

青緑色の

いちじくの実をみていると

 

いにしえの

神話をみているようで

どきどきする

 

神様たちも

同じように

恋をしたのだろうか

 

秋になると

そんなことは

すっかり忘れて

 

赤紫色の

熟れた実をかじる

 

なんて甘く

美味しいのだろう

 

恋がひとつ

終わったのに

詩 なし

空がぐうんと

高くなって

 

雲がさまざまな

模様を絵描き出し

 

太陽の光は

透きとおって

 

絹のように

なめらかになり

 

夜の虫たちが

しとやかに

 

愛の重唱を

歌いはじめたら

 

秋ですよ

 

もう

秋ですよ

 

と風は涼やかに

 

頬をかすめて

たわむれる

 

そうして

わたしは

 

十五夜

お月さまのごとく

 

まあるく熟した

梨の果実に

 

くちづける

 

秋よ

ようこそ

 

うまれたての

あたらしい

 

秋よ

ようこそ

映画 東京裁判 | 小林正樹

映画監督・小林正樹が、5年の歳月をかけて

1983年に完成させた記録映画「東京裁判」を観た。

なぜ戦争が起こったのかという経緯や背景のみならず、

国際裁判をめぐる各国の思惑や各人の人間ドラマが、

277分の密度の高いフィルムにより浮き彫りになり、衝撃的だ。

 

通称・東京裁判、正式には極東国際軍事裁判

/INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FAR EAST は、

パリ不戦条約が交わされた1928/S03年より、

太平洋戦争降伏に至る1945/S20年までの、

およそ17年間の日本の戦争犯罪を問う軍事裁判だ。

 

連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は

西側で先行されたニュルンベルク裁判に倣い

1946年1月19日に極東国際軍事裁判所条例/憲章を発効。

昭和天皇45歳の誕生日である4月29日に起訴状全文と、

訴追される国の代表者あるいは指導者28名が発表され、

その運命は裁判を通して最高責任者である元帥に委ねられた。

 

市ヶ谷の旧陸軍省/現市ヶ谷記念館に設置された法廷で

1946年5月3日に開廷された一審制の裁判は、

各国を代表する11人の判事団のもと、

各国の代表からなる11人の検察団と

日本およびアメリカ人による約30人の弁護団の双方により

およそ2年間にわたり審議が展開され、

全員有罪という判決をもって

1948年11月12日に閉廷となる。

 

当初訴因は55項目にわたり、

「平和に対する罪」が36項目、

「殺人及び殺人の共同謀議」が16項目、

「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」が3項目、

という等級ABCの3種の罪に問われた。

冒頭2日間にわたる長大な起訴状朗読に続く

罪状認否/アレインメントでは全員が無罪を主張。

裁判2日目に正式に結成されたという弁護団

裁判の進行について2か月の、最低3週間の猶予を訴えたが、

1週間の休廷をはさみ裁判は続行された。

 

続いて5月13日/法廷4日目より

数日にわたり裁判管轄権問題が審議された。

裁判自体の正当性・公正性について

興味深い意見が交わされる、本裁判の要所のひとつだ。

ある行為を後になって法律をつくって処罰することは如何か、

仮に条項が有効ならば連合国をも拘束するはずである、

という弁護側の動議に、検察側は裁判の意義を激しく主張。

続く2人のアメリカ人弁護人による補足動議では、

国際法は国家利益のために行う戦争を

これまで非合法とみなしたことはない、

国家の行為である戦争の個人責任を問うことは誤りである、

勝者による敗者の裁きは公正たりえない、と異議を唱えた。

そして広島・長崎への原子爆弾投下について言及するくだりは、

国家を超越した一個人の、深慮と勇気が胸にせまる。

英米法に精通したアメリカ人弁護士の協力が必要であるという

日本側からの要求に応じた戦勝国アメリカの、

良質な一面に触れるようだった。

本件は理由を将来宣告するとして却下され、

うやむやなまま裁判は成立し、

各訴因の検察側の立証、弁護側の反証に突入する。

 

検察側の55項目にわたる立証は、

1946年6月4日より翌1月24日にかけて行われた。

この時点でようやく同時通訳のイヤホンが

整備されたというから、混乱のなかで

手探りで開始された裁判だったことがうかがえる。

論告は主に、侵略戦争の計画遂行の共同謀議、

各国に対する戦争の計画・準備・開始・遂行、

開戦以前の条約違反、捕虜及び一般人の殺害、

戦争法規及び慣例法規違反などが、

満州事変、支那事変、三国同盟、太平洋戦争などの

各段階ごとに行われた。

国内での515のテロ事件や226のクーデター事件に象徴される

革命的情勢のなかでの軍国主義勢力台頭の推移や、

戦争へ向けての教育・宣伝・検閲などの圧政の事実に加え、

自国民もはじめて知ることとなった

満州事変に代表される非道な戦争行為や

南京事件などの暴虐行為が明らかになり、

当時のショックは大きかっただろうと察せられる。

ここに裁判の意義のひとつはあったとみえる。

 

続いて弁護側の反証は、

1947年2月24日より立証に対照して行われ、

9月10日からの個人反証の段階では、

各被告に1回のみ与えられた証言の機会に注目が集まる。

国家弁護を行ないながら同時に

個人弁護をも成立させる必要のある苦しい立場に、

うち9名の被告は証言台にたたないことを選んだようだ。

ダイジェスト版である本フィルムでは

幾人かの証言がクローズアップされているが、

そのひとつ、東郷外務大臣と嶋田海軍大臣

真珠湾攻撃におけるフライングの問題についての

証言の対立は、長年の関係不信の結果を、ひいては

国内の不和・分裂・機能不全の一端を垣間みるようだった。

また悪役として名高い東條総理大臣・陸軍大臣

国際法からみて戦争が正しき戦争か否かという問題と、

敗戦の責任問題は明らかに別個とし、

侵略ではなく自衛の戦争であったという主張の一方で、

敗戦の責任は総理大臣であった自分の責任と明言。

また天皇の免責問題については

「意思と反しましたか知れませんが、とにかく、私の進言、

 統帥部その他の責任者の進言によって、

 しぶしぶご同意になられたというのが事実でしょう。

 陛下は最後の一瞬に至るまで平和のご希望をもっておられました。

 なお戦争になってからにおいても然りです」と証言している。

敗戦直後の9月11日、逮捕に際し拳銃による自決を計った氏は、

瀕死の状態を連合国軍により救命され、

裁判を経て死刑に処されたが、集中的な非難を一身に負いつつ、

毅然かつ明晰に答弁する姿は、大器の人であったと見受けられた。

 

昭和に入ってからの日本は

世界恐慌のあおりをうけた経済不況や

国内情勢の行き詰まりに加え、

列強または大国の隆盛に脅威を覚え、次第に

国の尊厳を傷つけられつつあると認識したようだ。

勝算のうすい戦争を、盲目的に

勝たねばならぬとして強行した立場の弱さは

神風特攻隊作戦などの狂気へ昇華されたかのようだ。

被告のひとりである賀屋大蔵大臣は

「ナチと一緒に、挙国一致、超党派的に

 侵略計画を立てたという。そんなことはない。

 軍部はつっぱしるといい、政治家は困るといい、

 北だ南だと国内はがたがたで、

 おかげでろくに計画もできず、戦争になってしまった。

 それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」 

と象徴的な感想を伝えている。

 

1948年2月11日より

検察側の最終論告と弁護側の最終弁論が行われ、

4月16日をもって審理は終了となる。

証人喚問419名、口供書提出779名の、歴史的大裁判だ。

法廷は約7か月後の11月4日に再開され、

長大な判決文がおよそ1週間にわたり朗読されたという。

11月12日法廷第416日、

最終的に10項目にまとめられた訴因により、

各被告に刑の宣告が行われた。

Death by hanging/絞首刑7名、

Imprisonment for life/終身禁固刑16名、

7年および20年の禁固刑が各1名、

また公判中に病死した被告が2名、

精神障害により免訴となった被告が1名であった。

11月23日マッカーサー元帥は判決通りの刑の執行を決定し、

当時の皇太子/平成天皇の15歳の誕生日である12月23日に

厳かに刑は執行されたという。

極刑の7名は公務殉職者として、

安らかに眠っていると信じたい。

 

判決は11名の判事の多数決により判定されたが、

うち3名が反対の意見書を提出し、

なかでもインド代表・パール判事による

「パール判決書/Dissentiment Judgment of Justice Pal」は

その質量ともに圧倒的な、歴史的文献であるという。

法廷において朗読されることのなかったその意見書では、

裁判所条例といえども国際法をこえることは越権である、

国際裁判所の裁判官は最高司令官より上位にたって

裁定する権限をもつべきであると表明し、

この裁判においては日本の行為が侵略であったかを

正すことが本義であったにもかかわらず、

裁判所側がはじめから侵略戦争であったとの前提で

裁判を進めたこと、事後法であること等を批判しているという。

「パール判決書」の全訳は、都築陽太郎氏による新訳が

2016年末に幻冬舎から刊行されたばかりなので、

既刊の講談社学術文庫版とともに、

日本語で本判決書の全貌に接することができる。

 

また裁判長ウェッブ判事は別個意見として、

開戦の決定がたとえ周囲の進言に従ったとはいえ

日本国最大最高の権限をもつ立憲君主の責任は

免れるものではない、天皇を不起訴とする以上

死刑を含む量刑をもって被告たちを有罪とするのは

公平を欠くものである、という意見書を提出している。

法廷で弁護人と衝突したり、公判中に別件で帰国したりと、

何かとお騒がせな裁判長も、マッカーサー元帥の

天皇不起訴の方針に一物を抱えていたようだ。

 

戦勝国による敗戦国に対する

制裁とも報復とも捉えられ兼ねない、

きわどい、政治的な裁判という印象だが、

当時誰かが罰せられる必要があったのかもしれない。

力の強い者が勝ち、力の弱い者が負けるのは自然だが、

殺し合いの結果である以上、どちらにしても辛いはずだ。

また仮にもし自国で裁判を行っていたら

真実は葬られたままで、その罰に対しては

より過激なものになっていた可能性もないとはいえない。

 

日本が大東亜戦争と呼び、

世界が太平洋戦争と呼んだ戦争から70年以上が経過したが、

パール判決書を片手に東京裁判をもうすこし追ってみたい。

どうして戦争はおこったのか、また今現在

どうして世界から戦争はなくならないのか、

そしてみんなで仲良く生きていくためには

どうしたらよいのかを、知りたい。

 

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから

人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」

ユネスコ憲章・1945年11月16日

静かなる情熱 エミリ・ディキンスン

公開中の映画「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」を

神保町の岩波ホールで観た。

 

2016年に制作された

イギリスのテレンス・デイヴィス監督・脚本による

原題「A QUIET PASSION」は、

かつての知られざる詩人の生涯を、

静かに情熱的に、きめ細やかに描き出した伝記映画だ。

 

Emily Dickinson/1830-1886は、

アメリカ北東部のニューイングランド地方である

マサチューセッツ州アマストに生まれ、

生涯を同地で過ごした詩人だ。

17世紀にイギリスの清教徒ピューリタン

入植した歴史をもつ小さな農村アマストにおいて、

英国移民の血を受け継ぐ、町の名士の家柄であったという。

生前発表された作品は

主に新聞紙上にわずか10篇のみで、

ほとんど知られぬ存在だったようだが、

死後に残されたおよそ1800篇の詩は、

その親近者等の尽力により出版されて以来、

ドラマティックに評価・賞讃されつづけ、

現在ではアメリカを代表する詩人のひとりとされている。

その詩は、身近な事柄から、愛や死や人生や神までを、

ユニークでチャーミングに、あどけなくもときに鋭く、

自然と交歓しつつ歌う、稀有な鳥の歌のようだ。

 

けれども、生前は無名であったため、

また作品を公表することに消極的だった節もあり、

その生涯について多くを知るすべはないが、

現存する1000通を越えるレターや

17歳頃のポートレート2枚から、

その一端を垣間見れることは好運だ。

また、いくつかの成就しなかったロマンスの形跡や、

32歳頃から白いドレスを着用し、世間から隠遁し、 

ほとんど屋敷の外へ出なかったという逸話等にみられる

ミステリアスな側面も、

多くの人を惹きつけるトピックスだろう。

 

デイヴィス監督は、17歳頃の詩人が信仰を問われた際に、

教師の意に反する回答をしたことをきっかけに、

女学院を退学するというエピソードから物語をはじめる。

その後、両親・兄・妹等との

家族の強い絆のなかでの充足した裕福な暮らしぶりや、

ごく少数の友人たちとの交遊が、

アマストの生家/現ミュージアムを映像に織り込みつつ、

美しい自然と20篇ほどの詩とを背景に絵描かれ、

ゆるやかに詩人の人生の経過に寄り添う。

 

一方で、冒頭の信仰問答のシーンでは

純粋で意志の強い一面が、どこか英雄的に描かれているが、

場合によっては、その美質が裏目に出て、

父や兄との衝突、苛立ちや苦悩などによる感情の爆発となり、

たびたび自他を損なう、気難しい女性としても描写される。

 

詩人の人生に何らかの重大な出来事があったとされる、

最も多作であった1862年を中心として、64年までの3年間に、

およそ全1800篇の1/3以上の作品が編まれたというが、

映画では、俗説に基づいた失恋とも尊敬の喪失ともとれぬ

ぼんやりとした描写にとどめ、解釈は各自に委ねられていた。

 

当時ブライト病とよばれた腎臓炎で

55歳の生涯を閉じたエミリ・ディキンスン。 

まるで編み物をするように、パンを焼くように、

生活の営みとして、言葉を紡いだ詩人の独自性は、

任意に大文字を使用したり、ダッシュを多用したりと、

風変わりな筆記法にも象徴されているが、

Web上のEmily Dickinson Archiveにて、

原語の各版を、直筆とともに参照できることは、

ほんとうに興味深い。

 

ほとんど屋敷から外へ出る必要のなかったほどに

天国に生きていたであろうと、憧憬を感じつつ、

静かな情熱に導かれて、

私も私の天国に生きようと思う、晩夏の夕暮れだった。

 

はてさて、

映画のなかに、真実の彼女はいたのだろうか。

 

 

   To see the Summer

   Sky

   Is Poetry , though

   never in a Book

   it lie -

   True Poems flee -

                                              F1491A/Franklin Variorum 1998

                                              J1472/Johnson Poems 1955

 

   夏の空

   にみるの

   は詩、といっても

   本のなかにはけっしてない

   それは嘘ー

   真実の詩はにげてゆくー 

詩 ひまわり

ひまわりをみていると

少女であった幼い頃を

思い出す

 

夏休み

降りそそぐまぶしい太陽と

あふれるような蝉の鳴き声

 

背丈よりずっと高く

顔よりも大きい

ひまわりの花は

 

すこし首をうなだれて

少女に話しかけているようだった

 

彼女は天を仰ぎ

空にかかるお月さまのような

その花をみつめて

耳を澄ました

 

じーじーじー

みんみんみん

かなかなかな

 

蝉の鳴き声が交差するなか

少女にしか聴こえない

言葉が語られた

 

あなたのことが大好きです

あなたはわたしの宝物です

 

どきどきと

胸の高鳴りを覚えながら

彼女は

 

ひまわりの種をひとつ

手にとり

ちいさな秘跡として

両手でそっと握りしめた

 

絵日記の

ページをめくるように

夏は過ぎ

 

その種も

いつしかどこかに

置き忘れ

 

少女は

大人になるけれど

 

ひまわりをみていると

やさしい夏の思い出が

 

鮮やかに

よみがえる