佐賀町日記

林ひとみ

静かなる情熱 エミリ・ディキンスン

公開中の映画「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」を

神保町の岩波ホールで観た。

 

2016年に制作された

イギリスのテレンス・デイヴィス監督・脚本による

原題「A QUIET PASSION」は、

かつての知られざる詩人の生涯を、

静かに情熱的に、きめ細やかに描き出した伝記映画だ。

 

Emily Dickinson/1830-1886は、

アメリカ北東部のニューイングランド地方である

マサチューセッツ州アマストに生まれ、

生涯を同地で過ごした詩人だ。

17世紀にイギリスの清教徒ピューリタン

入植した歴史をもつ小さな農村アマストにおいて、

英国移民の血を受け継ぐ、町の名士の家柄であったという。

生前発表された作品は

主に新聞紙上にわずか10篇のみで、

ほとんど知られぬ存在だったようだが、

死後に残されたおよそ1800篇の詩は、

その親近者等の尽力により出版されて以来、

ドラマティックに評価・賞讃されつづけ、

現在ではアメリカを代表する詩人のひとりとされている。

その詩は、身近な事柄から、愛や死や人生や神までを、

ユニークでチャーミングに、あどけなくもときに鋭く、

自然と交歓しつつ歌う、稀有な鳥の歌のようだ。

 

けれども、生前は無名であったため、

また作品を公表することに消極的だった節もあり、

その生涯について多くを知るすべはないが、

現存する1000通を越えるレターや

17歳頃のポートレート2枚から、

その一端を垣間見れることは好運だ。

また、いくつかの成就しなかったロマンスの形跡や、

32歳頃から白いドレスを着用し、世間から隠遁し、 

ほとんど屋敷の外へ出なかったという逸話等にみられる

ミステリアスな側面も、

多くの人を惹きつけるトピックスだろう。

 

デイヴィス監督は、17歳頃の詩人が信仰を問われた際に、

教師の意に反する回答をしたことをきっかけに、

女学院を退学するというエピソードから物語をはじめる。

その後、両親・兄・妹等との

家族の強い絆のなかでの充足した裕福な暮らしぶりや、

ごく少数の友人たちとの交遊が、

アマストの生家/現ミュージアムを映像に織り込みつつ、

美しい自然と20篇ほどの詩とを背景に絵描かれ、

ゆるやかに詩人の人生の経過に寄り添う。

 

一方で、冒頭の信仰問答のシーンでは

純粋で意志の強い一面が、どこか英雄的に描かれているが、

場合によっては、その美質が裏目に出て、

父や兄との衝突、苛立ちや苦悩などによる感情の爆発となり、

たびたび自他を損なう、気難しい女性としても描写される。

 

詩人の人生に何らかの重大な出来事があったとされる、

最も多作であった1862年を中心として、64年までの3年間に、

およそ全1800篇の1/3以上の作品が編まれたというが、

映画では、俗説に基づいた失恋とも尊敬の喪失ともとれぬ

ぼんやりとした描写にとどめ、解釈は各自に委ねられていた。

 

当時ブライト病とよばれた腎臓炎で

55歳の生涯を閉じたエミリ・ディキンスン。 

まるで編み物をするように、パンを焼くように、

生活の営みとして、言葉を紡いだ詩人の独自性は、

任意に大文字を使用したり、ダッシュを多用したりと、

風変わりな筆記法にも象徴されているが、

Web上のEmily Dickinson Archiveにて、

原語の各版を、直筆とともに参照できることは、

ほんとうに興味深い。

 

ほとんど屋敷から外へ出る必要のなかったほどに

天国に生きていたであろうと、憧憬を感じつつ、

静かな情熱に導かれて、

私も私の天国に生きようと思う、晩夏の夕暮れだった。

 

はてさて、

映画のなかに、真実の彼女はいたのだろうか。

 

 

   To see the Summer

   Sky

   Is Poetry , though

   never in a Book

   it lie -

   True Poems flee -

                                              F1491A/Franklin Variorum 1998

                                              J1472/Johnson Poems 1955

 

   夏の空

   にみるの

   は詩、といっても

   本のなかにはけっしてない

   それは嘘ー

   真実の詩はにげてゆくー 

詩 ひまわり

ひまわりをみていると

少女であった幼い頃を

思い出す

 

夏休み

降りそそぐまぶしい太陽と

あふれるような蝉の鳴き声

 

背丈よりずっと高く

顔よりも大きい

ひまわりの花は

 

すこし首をうなだれて

少女に話しかけているようだった

 

彼女は天を仰ぎ

空にかかるお月さまのような

その花をみつめて

耳を澄ました

 

じーじーじー

みんみんみん

かなかなかな

 

蝉の鳴き声が交差するなか

少女にしか聴こえない

言葉が語られた

 

あなたのことが大好きです

あなたはわたしの宝物です

 

どきどきと

胸の高鳴りを覚えながら

彼女は

 

ひまわりの種をひとつ

手にとり

ちいさな秘跡として

両手でそっと握りしめた

 

絵日記の

ページをめくるように

夏は過ぎ

 

その種も

いつしかどこかに

置き忘れ

 

少女は

大人になるけれど

 

ひまわりをみていると

やさしい夏の思い出が

 

鮮やかに

よみがえる

詩 すいか

ぎらきらとした太陽と

麦わら帽子の夏休み

 

ふと 

子どもに戻った私は

 

熱い砂浜をけり

藍の海へ駆けだした

 

しおっぱい

海水とたわむれて

 

魚だったころの

記憶をたどれば

 

まるで

地球の羊水に

くるまれているよう

  

なんて静かで

心地よいのだろう

 

遊びつかれて

浜へとあがれば

 

なにやら

重力とはじめて出合った

両生類のよう

 

のどが渇くのは

肺呼吸のせいかしら

 

お腹が空くのは

夢をみるせいかしら

 

ひょっこりと

恐竜のたまごのような

 

まあるいすいかを

叩いて割って

 

真赤に滴る

血液のような果実に

かぶりつく

 

ごくごく

もぐもぐ

がりっと

 

黒色の種を噛んだ

瞬間に目が覚めた

 

それはまるで

ぎらきらとゆらめく

真昼の蜃気楼

 

創世期の冒険は

夢に現に幻に

詩 くものうえ

たくさんの雨

垂直に降る雨

 

バッハの音楽のよう

なにかをどこかとつなぐ

 

たくさんの風

水平に吹く風

 

ベートーヴェンの音楽のよう

なにかをどこかへはこぶ

 

くものうえ

白くふわふわとした

くものうえ

 

あ、あの人がいい

 

何かに導かれるように

お腹へ入った

 

地球に生まれることを

 

くものうえで

私が選んだ

 

みたい

しりたい

さわりたい

 

天はいつもそうやって

私に合図をおくる

 

わくわく

 

私はいつもそうやって

命を世界にとかしていきたい

黒澤明 | 静かなる決闘 醜聞

映画監督・黒澤明/1910-1998の

比較的初期の作品「静かなる決闘」と「醜聞」を観た。

いずれも見応えのある、力強い作品だった。

 

静かなる決闘」/1949年は、

終戦間際の野戦病院での手術中に

誤って患者のスピロヘータ/梅毒に感染した、

若い医師の苦悩と救済の物語だ。

劇作家・菊田一夫の戯曲「堕胎医」を原作に、

黒澤明谷口千吉が共同で脚本を執筆した群像劇だ。

戦後間もない外科および婦人科の診療所を舞台に、

慕い合う婚約者との愛と病をめぐる医師の葛藤を軸として、

妊娠したものの交際相手に逃げられ自暴自棄になっている

元ダンサーの看護婦として母親としての成長物語、

図らずも戦地で医師にスピロヘータを感染させることとなった

やくざな元兵士との邂逅などが折り重なりつつ、

テンポよく興味深く物語が展開される。

バイタリティーに満ちたモノクロの粗い画像のなかで、

受難の医師を演じる若い三船敏郎が瑞々しく美しい。

たとえば、人を愛するということは、

その人の幸福を願うことなのだろう、そして

苦悩は時として人を聖へと導く天のギフトなのだろう。

 

「醜聞 スキャンダル」/1950年は、

画家と人気声楽家との偽スキャンダルが

確信犯である出版社との裁判にまで発展し、

一癖も二癖もある弁護士を交えて珍走する群像劇だ。

黒澤明菊島隆三による脚本が見事なうえに、

弁護士を怪演する志村喬が愉快で、

一徹な画家を演じる三船敏郎の端正な演技が清々しい。

弁護士の一人娘は結核に臥せっているが、

病という逆境により超人的に透き通った彼女の命と精神が

物語を方向づける原動力となり、感動的だ。

早坂文雄のさりげなくも効果的な音楽と相まって、

ひとつの星がきえて、ひとつの星がうまれる、

なんとも慈悲深くユニークな作品だった。

 

生涯におよそ30本の作品を世に送り出した

黒澤監督が40歳前後に手掛けた2作品だが、

人間を相対化し、

善人と悪人、気位の高い者と低い者、

成功者と落伍者などの何人にも、

奥行きを与えて絶妙に描き出す、

その大器に、ジーンと胸が熱くなる。

 

後のエンターテイメント性は影を潜めつつ、

ある種のうぶさやナイーヴさが魅力的な作品群に、

開きはじめた花が盛りへと向かうような

ときめきを感じたのだった。

山本亭と帝釈天

梅雨らしい雨曇りの日に

東京都葛飾区柴又の山本亭へ行った。

 

日本橋からおよそ14㎞東北に位置し

江戸川をはさんで千葉県と隣接する柴又は、

もっぱら山田洋二監督の映画

男はつらいよ」シリーズの舞台として有名だ。

 

京成線・柴又駅から徒歩10分ほどの

江戸川の袂/たもとに位置する山本亭は、

土地ゆかりの山本工場/カメラ部品の製造業の

創立者・山本栄之助のかつての邸宅で、

現在は葛飾区により一般公開されている書院造のお屋敷だ。

関東大震災後の大正末期に建てられ、

昭和初期に増改築されたという瓦葺の日本家屋は、

南側の庭園に面して翼を広げるように東西にのびる

細長い長方形をした端正な建物だ。

縁側のガラス戸越しに庭園をのぞむ6つの畳の間は

襖が開け放たれ、明るく広々として気持ちがよい。

家屋の倍ほどもある立派な日本庭園は、

滝の流れる音や樹々の葉擦れ、野鳥の声が重なり合って

賑やかな静けさに満ちていた。

折よく薄紫色の花菖蒲がきれいに咲いていたので、

館内の好みの場所でいただけるお抹茶とともに、

ひと時の豊かさに寛いだ。

 

12時の鐘を聴いたような、聴かぬような、 

帰り際に古時計が3つ並んでいるのを目にした。

真ん中のひとつは日本を、

左は北京を、右はウィーンの時刻を指していた。

地球が丸いこと、世界は広いことを思い起こさせ、

意識はぐぐーんと拡大する。

非公開だが別棟に茶室を設えるような、

実業とともに人文に通じていたであろう当主に好意を寄せた。

 

帝釈天/たいしゃくてんとして親しまれている

経栄山 題経寺/きょうえいざん だいきょうじは、

1629年/寛永6年に開山された日蓮宗のお寺だ。

帝釈天とはインドをルーツとする武勇神インドラの和名で、

宗祖である日蓮によって彫られたとされる

帝釈天の板本尊が伝承され、

縁日の庚申/こうしんの日に御開帳されるのだという。

総けやき造りの山門および帝釈堂/喜見城の内外には

夥しいほどの木彫が施され、格別の存在感を放っていた。

また、長く枝を伸ばした瑞龍の松や、湧き出でたご神水

回遊式の庭園・邃溪園/すいけいえんなど、

随所に見所のあるユニークな寺院で、

とりわけ龍の力強いエネルギーが象徴的だった。

 

映画のイメージが先行して

どことなく近寄りがたい柴又だったけれど、

気取りのないさばさばとした下町の風情が新鮮だった。

緩やかにカーブしながら続くおよそ200mの参道は

ほどよく賑わい楽し気で、名物の草団子もとても美味しい。

 

6月の下旬には、夏越の祓/なごしのはらえの

茅の輪/ちのわくぐりで上半期の穢れを祓うけれど、

よもぎ入りの草団子で、過ぎた半年の

邪気を祓いたいな、祓えるかな。

詩 びわ

子どものころ

住んでいた家の庭に

びわの樹があった

 

ごつごつとした幹は

のぼるのにちょうどよく

 

ごわごわとした葉は

ままごとの器になった

 

春と夏のはざまに結ばれる

小さくも

たわわな果実は

 

鳥たちが

ほとんどついばんでしまうのだけれど

 

ときには

ひとつかふたつ

口にして

 

知ったのだ

 

とりつくろうことのない

こびることのない

 

淡い橙色の

野生の味を

詩 すもも

空をわたる

地面に映った

鳥の陰

 

歌を唄う

遠くから届いた

鳥の声

 

陰影を手がかりに

存在を識る

 

マグリットの絵でもなければ

芝生にひろがる陽だまりは

雲のかたちをなぞるのが自然さ

 

つまり思想とは

能力のことだよ

 

と君はいった

 

雲ひとつない

青空を見上げて

 

まるで美味しそうに

すっぱいすももを

ほおばりながら

METとパブリックドメイン

先日、朝日新聞にて

ニューヨークのメトロポリタン美術館

パブリックドメイン著作権が無効となった所蔵作品の

オープンアクセスに関するポリシーを変更したという記事を読んだ。

 

1870年設立のメトロポリタン美術館は、

過去5000年におよぶ世界各国の文化遺産

およそ150万点所蔵している巨大なミュージアムだ。

それらのうちパブリックドメインと認識される作品は

37万5000点超になるという。

 

昨今のデジタル時代に共振するように、

数年前2014年5月16日の声明では、

所蔵作品の高解像度デジタル画像をインターネット上に共有し、

パブリックドメインの作品については

学術的あるいは非営利利用に限り無料で使用可能と宣言された。

美術館のホームページでは、

著作権が有効なコレクションの画像とともに、

およそ20万点のパブリックドメインの作品がアップロードされ、

フリーダウンロードできるようになっていた。

 

続いて今年2017年2月7日にはポリシー変更の発表があり、

学術的および非営利利用という制限が解かれ、

誰でもどのような用途でも自由に無料で使用でき、

商業利用や加工もフリーという声明だった。

 

朝日新聞の訳では、

「所蔵作品を、学んだり楽しんだりしたいと思っている

すべての人たちに、作品へのアクセスを可能にすることが

私たちの使命だ」と語られているとのこと。

 

METに先駆けて、

オランダ・アムステルダム国立美術館などでも

同様の取り組みを実地しているそうだが、 

想定外の、望ましからざる使用や、

心ない加工がなされる可能性を容認したうえでの

大英断だろう。

 

なんてすばらしいのだろう。

世界は確実にポジティブな方向へ進んでいるという

喜びと感動を覚えたのだ。

 

ニューヨークへは未訪だが、

ホームページよりArt→Collection→Public Domainと訪ねてみる。

ふとHokusaiをサーチすると、現時点で512点が抽出され、

すみだ北斎美術館ロゴマークに転用されている

富嶽三十六景 山下白雨/さんかはくう」が3点所蔵されていた。

また同シリーズの名作「神奈川沖浪裏」は2点、

同じく通称赤富士「凱風快晴」は3点所蔵され、

はっきりと刷りの異なりが認められる

浮世絵版画の奥深い世界を垣間見るようで、興味深かった。 

 

新しい技術や環境により、

自ずと新しい在り方が立ち上がってくるのは自然なので、

今までがそうであったように、これからも、

人と美術・芸術との関係は大きく変化してゆくのだろう。

いずれにしても楽しみだ。

旧白洲邸 武相荘

ゴールデンウィークの中日に、

東京町田市にある

旧白洲邸・武相荘/ぶあいそうへ行った。

 

白洲次郎・正子夫妻の旧邸宅は、

新宿より急行でおよそ30分、

小田急線・鶴川駅より徒歩15分ほどの小高い丘のうえに、

こんもりとした緑につつまれて、穏やかに佇んでいた。

 

太平洋戦争をまたぎ政治経済の分野において

大役を果たした白洲次郎/1902‐1985と、

日本の伝統芸能および工芸に通じ、

文筆家として活躍した白洲正子/1910‐1998は、

1942年に鶴川村の養蚕農家を農地つきで購入し、

戦争の激化を見越して翌年に移り住んだという。

次郎氏によって命名された「武相荘」とは、

武蔵と相模の国境であるという地理に、

無愛想をかけての愛称ということだ。

明治初期に建てられたと推定される母屋は、

立派な茅葺屋根の木造家屋で、

牛がすんでいた広い土間を板敷へ、

後にはタイル敷へと手直しし、

居間兼応接間として使用したという具合に、

適宜改築を施されながら、60年近くの年月を

白洲家とともに歩んだ、年季のはいった日本家屋だ。

主亡き後2001年より、当時の面影をそのままに

ミュージアムやレストランとして一般公開され、

春夏秋冬の季節展が行われているという。

 

今季「武相荘の春展」では、

よく知られる次郎氏の遺言書をみることができた。

和紙に墨で「一、葬式無用 一、、戒名不用」とは、

なんと簡潔で気持ちのよい遺言だろう。

また、北側に位置する

こじんまりとした正子氏の仕事場や本棚では、

立入りも撮影も禁止の蔵書をしげしげと一覧した。

青山二郎小林秀雄河上徹太郎の著作は勿論のこと、

南方熊楠宮本常一折口信夫今西錦司といった

民俗学生態学系の蔵書の多さが印象的だった一方で、

稲垣足穂坂口安吾の著作をみとめて意外性を感じ、

熊谷守一の書画集や著作をみつけては喜んだ。

かつての居間や、奥座敷/寝室には、

コレクトされ実用されていたであろう陶磁器や

染織物が展示されていたが、

いかにも魯山人でなくてもいいような

地味でさりげない魯山人作の陶器に、

この家の主をみたような気がした。

 

南東へ向いた縁側からは、邸内の竹林が眺められ、

折よく筍がニョキニョキと顔を出していた。

「あぁ、こんなにおおきくなってしまって、

もったいない、食べたいなぁ」と内心思う。

聞けば併設のレストランで

庭の筍を用いた料理を提供しているそうなので、

採りきれないほどなのだろう。

散策路となっている小径をくるっとひと回りして、

樹々のなか、土のうえを歩き、深呼吸をする。

 

木立のなかにひょっこりと家屋が佇み、

どこか山荘のような、

超俗的な世界が展開されている様には、

正子氏の代表作のひとつの「かくれ里」という言葉が

よく合うように思えた。

 

よく晴れた透明な陽光がきもちのよい日で、

適温の心地よい日和に寛ぐように、

黄や白や黒色の蝶が、ひらひらと飛び回っていた。

次郎氏や正子氏が、ひととき蝶の姿をかりて

遊びにきても、不思議でないような気のするほど、

お二方の気配に満ちた、異次元の武相荘だった。

 

まろやかに世俗の世界へと舞い戻った数日後、

日本橋三越百貨店で開催されていた

白洲次郎と正子の愛した武相荘のもてなし」展へ訪れた。

武相荘所蔵のご夫婦ゆかりの展示品と併せて、

和洋の骨董品が展示販売されるという企画展で、

江戸期・古伊万里白磁や染付、瀬戸の麦藁手などを

直接手にして鑑賞することができ、有意義だった。

なかには室町時代の越前および信楽の陶器も並び、

お値段を知ることもまた楽しかった。

 

今年の5月5日は、端午の節句立夏でもある。

陽気が満ちて、活動的になる季節だけれど、

白洲両氏の著作も読みたい、連休の後半だった。

すみだ北斎美術館

染井吉野が葉桜になりかけ、八重桜が満開に近い頃、

昨年11月にオープンした、すみだ北斎美術館へ行った。

 

江戸時代後期の絵師・葛飾北斎/1760-1849の

ほぼ生誕の地に新設されたという美術館は、

JR両国駅からほど近い緑町公園の一角にあった。

一説によると北斎

89年の生涯に93回も引っ越しをしたそうだが、

そのほとんどを墨田の地で過ごしたという。

 

画家ゆかりの地に建つ

建築家・妹島和代/せじまかずよによる現代的な美術館は、

様々な遊具が点在する公園と交わっていることが特徴的で、

地上4F・地下1F建ての中規模の建物は、

下町の景観にほどよくとけこんでいるという印象だった。

銀色のメタリックなのっぺりとした外観は、

おおよそ立方体のシルエットだが、なんとも不定形で、

所々に鋭角なスリットやカットが施され、

特にエントランスにあたる1F部分は、まちまちに4分割されている。

そのトンネルのような縦長三角形の割れ目から内部へ分け入ると、

透明なガラス壁の向こうに、それぞれ、

美術館の入口・図書室・講義室・バックヤードが配され、

それとなく四方/東西南北へ通り抜けられるよう設計されていた。

 

その日は常設展示室/4Fの一角のみのオープンで、

照明を落とした漆黒の展示室には、北斎の画業を一覧するべく、

所蔵作品の高精度レプリカや、

詳細なタッチパネル式の解説が並んでいた。

同行した友人は「個人コレクターレヴェルの作品で物足りない」と

早々に退室したようだが、身近なようで疎遠な画家について、

理解を深める時間は楽しかった。

また英文の解説を熱心に読んでいる外国の人々が印象的だったが、

彼らには、母国の我々には見えないものが

見えているのかもしれないと思った。

 

B1Fはコインロッカーとお手洗いに充てられ、

特にお手洗いは館内の規模にくらべて

ずいぶんとゆったりした造りであることに共感した。

企画展示室は

3Fおよび4Fの一角に配されているようなので、

またいずれ来館したい、新鮮な建築空間だった。

 

その日は風の強い日だったが、

向かいの公園では親子連れが所狭しと遊び、

週末らしい賑わいをみせていた。

はじめて訪れた場所だったので、

もともと人の集まる公園だったのか、

美術館の存在によって公園も活性化されたのかは分らなかったが、

桜の花吹雪が舞うなかで、子どもたちの歓声や泣声は、

まるで幸福の象徴のように感じられた。

 

人間の営みの本質は、

北斎の生きた江戸時代も、いつかの未来も、

そう変わりはないのだろう。

同時に、刻々と変化する現代の様式を楽しむこともまた

かけがえのないことなのだろう。

美についての覚書

純粋で美しい者は、

そもそも人間の敵なのだということを忘れてはいけない。

 /「天人五衰」著・三島由紀夫

 

 

美は、ただそれだけで、醜いこの世への侮蔑です。

美は誰にも愛せぬものです。

 /「天井桟敷の人々」脚本・ジャック・プレヴェール 訳・山田宏一

 

 

人は美を求めやうと心掛けて

その中から各自の偏見を引出してゐる。

 /「青山二郎全文集」著・青山二郎

 

 

美なんて非常にすぐそばにあるもので、

人間はそういうものに対して非常に自然な態度がとれるものなんですよ。

生活の伴侶ですから。

 /「小林秀雄対話集」より小林秀雄

 

 

美しいものは易しそうな様子をしている。

公衆が軽蔑するのはこれだ。

 /「雄鶏とアルルカン」著・ジャン・コクトー 訳・佐藤朔

 

 

「美」というものはたった一つしかなく、

いつでも新しくいつでも古いのです。

その「つねなるもの」は、しかく大きくも小さくもなります。

子供の描いた絵と、立派な芸術家の仕事では、

美しさにおいて変りはなくとも、大きさにおいて違います。

人間の美しさも、無智な者と智慧にあふれた美しさと、

何れが上というわけではありませんが、違います。

 /「たしなみについて」著・白洲正子

 

 

美ってものは、見方次第なんだよ。

 /「愛する言葉」より岡本太郎 

古唐津 | 出光美術館

3月の終わりに、有楽町の出光美術館

唐津/こがらつ展を観た。

 

唐津とは、桃山時代/16~17世紀にかけて

九州の肥前/佐賀および長崎地域で焼かれた焼き物で、

戦国大名が連れ帰った朝鮮陶工たちを起源とする

近世初期の窯場のひとつだ。

 

展覧会では、朝鮮陶器というルーツを経糸とし、

同時代に隆盛した国内の桃山陶器などを緯糸として、

唐津を立体的に読み解く展示構成が明快だった。

 

およそ180点の品が一堂に会し、

唐津の草創期より爛熟期にかけての、

奥高麗・斑唐津・朝鮮唐津・絵唐津・二彩唐津などに分類される

様式の推移が時系列に展開され、見応えがあった。

初代・出光左三によるコレクションならではの企画展だろう。

なかでも京・大阪を中心とした茶の湯のネットワークにより

求められた同時代性あるいは共時性というテーマが興味深く、

志野・織部などに代表される桃山陶器や、

六古窯に数えられる伊賀・備前などの陶器に宿る日本独自の美観が、

ほがらかに反映された器量が、うれしい。

 

また、奥高麗/おくごうらいと呼称される

無文様の淡いびわ色・朽葉色の茶碗がとくに美しかった。

江戸期には朝鮮産と考えられていたという

初期に多く焼かれた井戸形や熊川形の茶碗だが、

そのシンプルな形や釉色の奥行きに魅せられて、

心も時間も透き通るようだった。

 

全体を通して、

近現代における作家性の表現というような意図は見当たらず、

いずれの焼き物も、健やかで穏やかだ。

時代的な技術の未発達さは仇とならずに、

どこかのびのびと、ほのぼのと、あっけらかんとしている。

秀吉の朝鮮出兵や、中国への出兵計画など、

東アジアへの進出を視野にいれた当時の楽観的な雰囲気を

少なからず反映している、ともいえるのかもしれない。

そして、伊万里/有田での磁器の誕生はもう間もなくだ。

 

展覧会終了間際であったためか 、

会場は多くの人で賑わっていた。

どちらかというとシニア色に染まっていたのは、

骨董にまつわる地味なイメージのためだろうか。

最後にもう一度、会場を一覧し、

文士・小林秀雄が所持していたという茶碗と対峙する。

かつて20代の混沌とした頃に最も愛読した評論家で、

作品を通して触れたその稀有な精神から、

多くを学んだことを反芻した。

口径15.2㎝の程よい大きさの茶碗は、

口縁のすぐ近く、器の上部に鉄絵で施された

抽象的なほどに単純化された鳥/雁の文様が、

どことなくアンバランスな印象を与えた。

土味や下絵を活かす透明な釉薬に包まれて、

何か気になる、不思議なコンポジションの絵唐津だった。

 

美とはなんであろう。

 

小林秀雄ではないけれど、久しぶりに、

コンセプチュアルアートとは別の次元の、

概念的な命題を探求したくなった展覧会だった。 

さくら 2017

今年も、ベランダの啓翁桜が開花した。

 

一年ぶりに、

淡いピンク色の花に逢えて、うれしい。

 

さくらの花の塩漬けをつくってみたいけれど、

咲いている最中の花を摘むことに、

なかなかためらいを感じてしまうのです。

 

 

さくら

sagacho-nikki.hatenablog.com 

 

木山捷平 | 井伏鱒二 弥次郎兵衛 ななかまど

木山捷平/きやましょうへいの晩年の短編集

井伏鱒二 弥次郎兵衛 ななかまど」を読んだ。

 

備中/岡山出身の木山捷平/1904‐1968は、

終戦間際の1944年12月に40歳で満州へ徴用され、

中国・長春で農地開発公社の嘱託に就き、

ほどなく現地召集をうけて応召したのも束の間、

敗戦をむかえ、同地で明日をも知れぬ難民生活を送り、

1946年8月に命からがら帰国するという、戦争体験をもつ作家だ。

それらが後に長編「大陸の細道」および「長春五馬路」へと

結実し世に評価をうけたことは興味深いが、

本作/講談社文芸文庫に収録されている短編10作および

回想記2作にも、戦争の影は色濃く反映されている。

 

1956年/小説公園に発表された短編「骨さがし」は、

とりわけユニークでいきいきとした作品だ。

戦死した夫の遺骨を探すために広島から上京した

面識のあるようなないような若い未亡人と、

作家の分身のごとき中年男が、

骨さがしに東京の街へ繰り出す珍道中を描いた物語だ。

郷里で小耳にはさんだという、

戦死者の遺骨を売る店があるのは確か名前に田のつく町、

という真偽の定かではない心細い手がかりをもとに、

飯田橋から靖国神社を経て、神田須田町の闇屋へと辿りつくものの、

どさくさ紛れにすべては水の泡と帰し、

宙に投げ出されたような、コミカルな余韻が漂う。

  

1965年/群像に発表された「山陰」は、

山陰地方をひととおり回った旅の最後に立ち寄った

ラジウム温泉として名高い三朝温泉での数日を描いた、

虚実の入り混じったような旅行記だ。

なかでも、土産物屋で偶然手にした絵葉書をきっかけに

三徳山/みとくさんの国宝・投入堂/なげいれどうへ

訪れるくだりを、遠足気分で楽しく読んだ。

三徳山は、山岳仏教霊場として

706年/慶雲3年に開山された標高約900mの霊山で、

温泉街を流れる三徳川のおよそ7㎞上流に位置する。

三徳山のふもとの三佛寺/さんぶつじは、

山全体を境内とする天台宗の古刹で、

幾つものお堂やお像などを継承しているそうだが、

なかでも標高520mの断崖絶壁に建つ奥の院投入堂は、

平安期建立のアクロバティックなその建築により、

ひときわ異彩を放っている名所のようだ。

温泉街から三佛寺までバスでおよそ20分、

宿屋で借りた和装と下駄履きで訪れたため

下車後まもなく足をくじいたという筆者は、

往復に2時間かかるという投入堂までの参拝登山を諦めて、

寺の山門付近をうろうろとしてから

茶屋に入り、ビールと名物の三徳豆腐を賞味し、

参拝登山用の草鞋を土産にするのだが、

なにかとユーモラスな描写や展開が、味わい深い。

 

1964年/還暦の頃に発表された2つの回想記

太宰治」と「井伏鱒二」では、

戦前に所属した幾つかの同人誌や、

文士の集まりである阿佐ヶ谷会のエピソードが魅力的だ。

文学はもとより、酒や将棋などを肴にしての

若かりし頃の交流奇譚だが、

時代の雰囲気や、新鮮な人物像を伝えながら、

同時に筆者の軌跡も浮かび上がるようで、興味深かった。

 

木山捷平が描くのは、

市井に生きる一見すると何気のないような人々だ。

けれどもそれらの人々が、

そう見えるほど何気なくはないこと、場合によっては

切実な大小のドラマを生きていることに、

時にどきっとさせられる。

いずれの人々もどこか健気で、

どのような事情や出来事によっても、

くさったり、いじけたり、悪びれたり、

何かにかぶれたりもしないところに、心を動かされる。

また、私小説風のその作品の主人公の

筋金入りのマイペース感は、なんだか立派でもある。

 

どうしてか、冬に読みたくなる作家なのだが、

透徹した眼差しによる是も非もない精神が、

冷たく乾いた冬の空気と似ているからなのかもしれない。