佐賀町日記

林ひとみ

山本亭と帝釈天

梅雨らしい雨曇りの日に

東京都葛飾区柴又の山本亭へ行った。

 

日本橋からおよそ14㎞東北に位置し

江戸川をはさんで千葉県と隣接する柴又は、

もっぱら山田洋二監督の映画

男はつらいよ」シリーズの舞台として有名だ。

 

京成線・柴又駅から徒歩10分ほどの

江戸川の袂/たもとに位置する山本亭は、

土地ゆかりの山本工場/カメラ部品の製造業の

創立者・山本栄之助のかつての邸宅で、

現在は葛飾区により一般公開されている書院造のお屋敷だ。

関東大震災後の大正末期に建てられ、

昭和初期に増改築されたという瓦葺の日本家屋は、

南側の庭園に面して翼を広げるように東西にのびる

細長い長方形をした端正な建物だ。

縁側のガラス戸越しに庭園をのぞむ6つの畳の間は

襖が開け放たれ、明るく広々として気持ちがよい。

家屋の倍ほどもある立派な日本庭園は、

滝の流れる音や樹々の葉擦れ、野鳥の声が重なり合って

賑やかな静けさに満ちていた。

折よく薄紫色の花菖蒲がきれいに咲いていたので、

館内の好みの場所でいただけるお抹茶とともに、

ひと時の豊かさに寛いだ。

 

12時の鐘を聴いたような、聴かぬような、 

帰り際に古時計が3つ並んでいるのを目にした。

真ん中のひとつは日本を、

左は北京を、右はウィーンの時刻を指していた。

地球が丸いこと、世界は広いことを思い起こさせ、

意識はぐぐーんと拡大する。

非公開だが別棟に茶室を設えるような、

実業とともに人文に通じていたであろう当主に好意を寄せた。

 

帝釈天/たいしゃくてんとして親しまれている

経栄山 題経寺/きょうえいざん だいきょうじは、

1629年/寛永6年に開山された日蓮宗のお寺だ。

帝釈天とはインドをルーツとする武勇神インドラの和名で、

宗祖である日蓮によって彫られたとされる

帝釈天の板本尊が伝承され、

縁日の庚申/こうしんの日に御開帳されるのだという。

総けやき造りの山門および帝釈堂/喜見城の内外には

夥しいほどの木彫が施され、格別の存在感を放っていた。

また、長く枝を伸ばした瑞龍の松や、湧き出でたご神水

回遊式の庭園・邃溪園/すいけいえんなど、

随所に見所のあるユニークな寺院で、

とりわけ龍の力強いエネルギーが象徴的だった。

 

映画のイメージが先行して

どことなく近寄りがたい柴又だったけれど、

気取りのないさばさばとした下町の風情が新鮮だった。

緩やかにカーブしながら続くおよそ200mの参道は

ほどよく賑わい楽し気で、名物の草団子もとても美味しい。

 

6月の下旬には、夏越の祓/なごしのはらえの

茅の輪/ちのわくぐりで上半期の穢れを祓うけれど、

よもぎ入りの草団子で、過ぎた半年の

邪気を祓いたいな、祓えるかな。

詩 びわ

子どものころ

住んでいた家の庭に

びわの樹があった

 

ごつごつとした幹は

のぼるのにちょうどよく

 

ごわごわとした葉は

ままごとの器になった

 

春と夏のはざまに結ばれる

小さくも

たわわな果実は

 

鳥たちが

ほとんどついばんでしまうのだけれど

 

ときには

ひとつかふたつ

口にして

 

知ったのだ

 

とりつくろうことのない

こびることのない

 

淡い橙色の

野生の味を

詩 すもも

空をわたる

地面に映った

鳥の陰

 

歌を唄う

遠くから届いた

鳥の声

 

陰影を手がかりに

存在を識る

 

マグリットの絵でもなければ

芝生にひろがる陽だまりは

雲のかたちをなぞるのが自然さ

 

つまり思想とは

能力のことだよ

 

と君はいった

 

雲ひとつない

青空を見上げて

 

まるで美味しそうに

すっぱいすももを

ほおばりながら

METとパブリックドメイン

先日、朝日新聞にて

ニューヨークのメトロポリタン美術館

パブリックドメイン著作権が無効となった所蔵作品の

オープンアクセスに関するポリシーを変更したという記事を読んだ。

 

1870年設立のメトロポリタン美術館は、

過去5000年におよぶ世界各国の文化遺産

およそ150万点所蔵している巨大なミュージアムだ。

それらのうちパブリックドメインと認識される作品は

37万5000点超になるという。

 

昨今のデジタル時代に共振するように、

数年前2014年5月16日の声明では、

所蔵作品の高解像度デジタル画像をインターネット上に共有し、

パブリックドメインの作品については

学術的あるいは非営利利用に限り無料で使用可能と宣言された。

美術館のホームページでは、

著作権が有効なコレクションの画像とともに、

およそ20万点のパブリックドメインの作品がアップロードされ、

フリーダウンロードできるようになっていた。

 

続いて今年2017年2月7日にはポリシー変更の発表があり、

学術的および非営利利用という制限が解かれ、

誰でもどのような用途でも自由に無料で使用でき、

商業利用や加工もフリーという声明だった。

 

朝日新聞の訳では、

「所蔵作品を、学んだり楽しんだりしたいと思っている

すべての人たちに、作品へのアクセスを可能にすることが

私たちの使命だ」と語られているとのこと。

 

METに先駆けて、

オランダ・アムステルダム国立美術館などでも

同様の取り組みを実地しているそうだが、 

想定外の、望ましからざる使用や、

心ない加工がなされる可能性を容認したうえでの

大英断だろう。

 

なんてすばらしいのだろう。

世界は確実にポジティブな方向へ進んでいるという

喜びと感動を覚えたのだ。

 

ニューヨークへは未訪だが、

ホームページよりArt→Collection→Public Domainと訪ねてみる。

ふとHokusaiをサーチすると、現時点で512点が抽出され、

すみだ北斎美術館ロゴマークに転用されている

富嶽三十六景 山下白雨/さんかはくう」が3点所蔵されていた。

また同シリーズの名作「神奈川沖浪裏」は2点、

同じく通称赤富士「凱風快晴」は3点所蔵され、

はっきりと刷りの異なりが認められる

浮世絵版画の奥深い世界を垣間見るようで、興味深かった。 

 

新しい技術や環境により、

自ずと新しい在り方が立ち上がってくるのは自然なので、

今までがそうであったように、これからも、

人と美術・芸術との関係は大きく変化してゆくのだろう。

いずれにしても楽しみだ。

旧白洲邸 武相荘

ゴールデンウィークの中日に、

東京町田市にある

旧白洲邸・武相荘/ぶあいそうへ行った。

 

白洲次郎・正子夫妻の旧邸宅は、

新宿より急行でおよそ30分、

小田急線・鶴川駅より徒歩15分ほどの小高い丘のうえに、

こんもりとした緑につつまれて、穏やかに佇んでいた。

 

太平洋戦争をまたぎ政治経済の分野において

大役を果たした白洲次郎/1902‐1985と、

日本の伝統芸能および工芸に通じ、

文筆家として活躍した白洲正子/1910‐1998は、

1942年に鶴川村の養蚕農家を農地つきで購入し、

戦争の激化を見越して翌年に移り住んだという。

次郎氏によって命名された「武相荘」とは、

武蔵と相模の国境であるという地理に、

無愛想をかけての愛称ということだ。

明治初期に建てられたと推定される母屋は、

立派な茅葺屋根の木造家屋で、

牛がすんでいた広い土間を板敷へ、

後にはタイル敷へと手直しし、

居間兼応接間として使用したという具合に、

適宜改築を施されながら、60年近くの年月を

白洲家とともに歩んだ、年季のはいった日本家屋だ。

主亡き後2001年より、当時の面影をそのままに

ミュージアムやレストランとして一般公開され、

春夏秋冬の季節展が行われているという。

 

今季「武相荘の春展」では、

よく知られる次郎氏の遺言書をみることができた。

和紙に墨で「一、葬式無用 一、、戒名不用」とは、

なんと簡潔で気持ちのよい遺言だろう。

また、北側に位置する

こじんまりとした正子氏の仕事場や本棚では、

立入りも撮影も禁止の蔵書をしげしげと一覧した。

青山二郎小林秀雄河上徹太郎の著作は勿論のこと、

南方熊楠宮本常一折口信夫今西錦司といった

民俗学生態学系の蔵書の多さが印象的だった一方で、

稲垣足穂坂口安吾の著作をみとめて意外性を感じ、

熊谷守一の書画集や著作をみつけては喜んだ。

かつての居間や、奥座敷/寝室には、

コレクトされ実用されていたであろう陶磁器や

染織物が展示されていたが、

いかにも魯山人でなくてもいいような

地味でさりげない魯山人作の陶器に、

この家の主をみたような気がした。

 

南東へ向いた縁側からは、邸内の竹林が眺められ、

折よく筍がニョキニョキと顔を出していた。

「あぁ、こんなにおおきくなってしまって、

もったいない、食べたいなぁ」と内心思う。

聞けば併設のレストランで

庭の筍を用いた料理を提供しているそうなので、

採りきれないほどなのだろう。

散策路となっている小径をくるっとひと回りして、

樹々のなか、土のうえを歩き、深呼吸をする。

 

木立のなかにひょっこりと家屋が佇み、

どこか山荘のような、

超俗的な世界が展開されている様には、

正子氏の代表作のひとつの「かくれ里」という言葉が

よく合うように思えた。

 

よく晴れた透明な陽光がきもちのよい日で、

適温の心地よい日和に寛ぐように、

黄や白や黒色の蝶が、ひらひらと飛び回っていた。

次郎氏や正子氏が、ひととき蝶の姿をかりて

遊びにきても、不思議でないような気のするほど、

お二方の気配に満ちた、異次元の武相荘だった。

 

まろやかに世俗の世界へと舞い戻った数日後、

日本橋三越百貨店で開催されていた

白洲次郎と正子の愛した武相荘のもてなし」展へ訪れた。

武相荘所蔵のご夫婦ゆかりの展示品と併せて、

和洋の骨董品が展示販売されるという企画展で、

江戸期・古伊万里白磁や染付、瀬戸の麦藁手などを

直接手にして鑑賞することができ、有意義だった。

なかには室町時代の越前および信楽の陶器も並び、

お値段を知ることもまた楽しかった。

 

今年の5月5日は、端午の節句立夏でもある。

陽気が満ちて、活動的になる季節だけれど、

白洲両氏の著作も読みたい、連休の後半だった。

すみだ北斎美術館

染井吉野が葉桜になりかけ、八重桜が満開に近い頃、

昨年11月にオープンした、すみだ北斎美術館へ行った。

 

江戸時代後期の絵師・葛飾北斎/1760-1849の

ほぼ生誕の地に新設されたという美術館は、

JR両国駅からほど近い緑町公園の一角にあった。

一説によると北斎

89年の生涯に93回も引っ越しをしたそうだが、

そのほとんどを墨田の地で過ごしたという。

 

画家ゆかりの地に建つ

建築家・妹島和代/せじまかずよによる現代的な美術館は、

様々な遊具が点在する公園と交わっていることが特徴的で、

地上4F・地下1F建ての中規模の建物は、

下町の景観にほどよくとけこんでいるという印象だった。

銀色のメタリックなのっぺりとした外観は、

おおよそ立方体のシルエットだが、なんとも不定形で、

所々に鋭角なスリットやカットが施され、

特にエントランスにあたる1F部分は、まちまちに4分割されている。

そのトンネルのような縦長三角形の割れ目から内部へ分け入ると、

透明なガラス壁の向こうに、それぞれ、

美術館の入口・図書室・講義室・バックヤードが配され、

それとなく四方/東西南北へ通り抜けられるよう設計されていた。

 

その日は常設展示室/4Fの一角のみのオープンで、

照明を落とした漆黒の展示室には、北斎の画業を一覧するべく、

所蔵作品の高精度レプリカや、

詳細なタッチパネル式の解説が並んでいた。

同行した友人は「個人コレクターレヴェルの作品で物足りない」と

早々に退室したようだが、身近なようで疎遠な画家について、

理解を深める時間は楽しかった。

また英文の解説を熱心に読んでいる外国の人々が印象的だったが、

彼らには、母国の我々には見えないものが

見えているのかもしれないと思った。

 

B1Fはコインロッカーとお手洗いに充てられ、

特にお手洗いは館内の規模にくらべて

ずいぶんとゆったりした造りであることに共感した。

企画展示室は

3Fおよび4Fの一角に配されているようなので、

またいずれ来館したい、新鮮な建築空間だった。

 

その日は風の強い日だったが、

向かいの公園では親子連れが所狭しと遊び、

週末らしい賑わいをみせていた。

はじめて訪れた場所だったので、

もともと人の集まる公園だったのか、

美術館の存在によって公園も活性化されたのかは分らなかったが、

桜の花吹雪が舞うなかで、子どもたちの歓声や泣声は、

まるで幸福の象徴のように感じられた。

 

人間の営みの本質は、

北斎の生きた江戸時代も、いつかの未来も、

そう変わりはないのだろう。

同時に、刻々と変化する現代の様式を楽しむこともまた

かけがえのないことなのだろう。

美についての覚書

純粋で美しい者は、

そもそも人間の敵なのだということを忘れてはいけない。

 /「天人五衰」著・三島由紀夫

 

 

美は、ただそれだけで、醜いこの世への侮蔑です。

美は誰にも愛せぬものです。

 /「天井桟敷の人々」脚本・ジャック・プレヴェール 訳・山田宏一

 

 

人は美を求めやうと心掛けて

その中から各自の偏見を引出してゐる。

 /「青山二郎全文集」著・青山二郎

 

 

美なんて非常にすぐそばにあるもので、

人間はそういうものに対して非常に自然な態度がとれるものなんですよ。

生活の伴侶ですから。

 /「小林秀雄対話集」より小林秀雄

 

 

美しいものは易しそうな様子をしている。

公衆が軽蔑するのはこれだ。

 /「雄鶏とアルルカン」著・ジャン・コクトー 訳・佐藤朔

 

 

「美」というものはたった一つしかなく、

いつでも新しくいつでも古いのです。

その「つねなるもの」は、しかく大きくも小さくもなります。

子供の描いた絵と、立派な芸術家の仕事では、

美しさにおいて変りはなくとも、大きさにおいて違います。

人間の美しさも、無智な者と智慧にあふれた美しさと、

何れが上というわけではありませんが、違います。

 /「たしなみについて」著・白洲正子

 

 

美ってものは、見方次第なんだよ。

 /「愛する言葉」より岡本太郎 

古唐津 | 出光美術館

3月の終わりに、有楽町の出光美術館

唐津/こがらつ展を観た。

 

唐津とは、桃山時代/16~17世紀にかけて

九州の肥前/佐賀および長崎地域で焼かれた焼き物で、

戦国大名が連れ帰った朝鮮陶工たちを起源とする

近世初期の窯場のひとつだ。

 

展覧会では、朝鮮陶器というルーツを経糸とし、

同時代に隆盛した国内の桃山陶器などを緯糸として、

唐津を立体的に読み解く展示構成が明快だった。

 

およそ180点の品が一堂に会し、

唐津の草創期より爛熟期にかけての、

奥高麗・斑唐津・朝鮮唐津・絵唐津・二彩唐津などに分類される

様式の推移が時系列に展開され、見応えがあった。

初代・出光左三によるコレクションならではの企画展だろう。

なかでも京・大阪を中心とした茶の湯のネットワークにより

求められた同時代性あるいは共時性というテーマが興味深く、

志野・織部などに代表される桃山陶器や、

六古窯に数えられる伊賀・備前などの陶器に宿る日本独自の美観が、

ほがらかに反映された器量が、うれしい。

 

また、奥高麗/おくごうらいと呼称される

無文様の淡いびわ色・朽葉色の茶碗がとくに美しかった。

江戸期には朝鮮産と考えられていたという

初期に多く焼かれた井戸形や熊川形の茶碗だが、

そのシンプルな形や釉色の奥行きに魅せられて、

心も時間も透き通るようだった。

 

全体を通して、

近現代における作家性の表現というような意図は見当たらず、

いずれの焼き物も、健やかで穏やかだ。

時代的な技術の未発達さは仇とならずに、

どこかのびのびと、ほのぼのと、あっけらかんとしている。

秀吉の朝鮮出兵や、中国への出兵計画など、

東アジアへの進出を視野にいれた当時の楽観的な雰囲気を

少なからず反映している、ともいえるのかもしれない。

そして、伊万里/有田での磁器の誕生はもう間もなくだ。

 

展覧会終了間際であったためか 、

会場は多くの人で賑わっていた。

どちらかというとシニア色に染まっていたのは、

骨董にまつわる地味なイメージのためだろうか。

最後にもう一度、会場を一覧し、

文士・小林秀雄が所持していたという茶碗と対峙する。

かつて20代の混沌とした頃に最も愛読した評論家で、

作品を通して触れたその稀有な精神から、

多くを学んだことを反芻した。

口径15.2㎝の程よい大きさの茶碗は、

口縁のすぐ近く、器の上部に鉄絵で施された

抽象的なほどに単純化された鳥/雁の文様が、

どことなくアンバランスな印象を与えた。

土味や下絵を活かす透明な釉薬に包まれて、

何か気になる、不思議なコンポジションの絵唐津だった。

 

美とはなんであろう。

 

小林秀雄ではないけれど、久しぶりに、

コンセプチュアルアートとは別の次元の、

概念的な命題を探求したくなった展覧会だった。 

さくら 2017

今年も、ベランダの啓翁桜が開花した。

 

一年ぶりに、

淡いピンク色の花に逢えて、うれしい。

 

さくらの花の塩漬けをつくってみたいけれど、

咲いている最中の花を摘むことに、

なかなかためらいを感じてしまうのです。

 

 

さくら

sagacho-nikki.hatenablog.com 

 

木山捷平 | 井伏鱒二 弥次郎兵衛 ななかまど

木山捷平/きやましょうへいの晩年の短編集

井伏鱒二 弥次郎兵衛 ななかまど」を読んだ。

 

備中/岡山出身の木山捷平/1904‐1968は、

終戦間際の1944年12月に40歳で満州へ徴用され、

中国・長春で農地開発公社の嘱託に就き、

ほどなく現地召集をうけて応召したのも束の間、

敗戦をむかえ、同地で明日をも知れぬ難民生活を送り、

1946年8月に命からがら帰国するという、戦争体験をもつ作家だ。

それらが後に長編「大陸の細道」および「長春五馬路」へと

結実し世に評価をうけたことは興味深いが、

本作/講談社文芸文庫に収録されている短編10作および

回想記2作にも、戦争の影は色濃く反映されている。

 

1956年/小説公園に発表された短編「骨さがし」は、

とりわけユニークでいきいきとした作品だ。

戦死した夫の遺骨を探すために広島から上京した

面識のあるようなないような若い未亡人と、

作家の分身のごとき中年男が、

骨さがしに東京の街へ繰り出す珍道中を描いた物語だ。

郷里で小耳にはさんだという、

戦死者の遺骨を売る店があるのは確か名前に田のつく町、

という真偽の定かではない心細い手がかりをもとに、

飯田橋から靖国神社を経て、神田須田町の闇屋へと辿りつくものの、

どさくさ紛れにすべては水の泡と帰し、

宙に投げ出されたような、コミカルな余韻が漂う。

  

1965年/群像に発表された「山陰」は、

山陰地方をひととおり回った旅の最後に立ち寄った

ラジウム温泉として名高い三朝温泉での数日を描いた、

虚実の入り混じったような旅行記だ。

なかでも、土産物屋で偶然手にした絵葉書をきっかけに

三徳山/みとくさんの国宝・投入堂/なげいれどうへ

訪れるくだりを、遠足気分で楽しく読んだ。

三徳山は、山岳仏教霊場として

706年/慶雲3年に開山された標高約900mの霊山で、

温泉街を流れる三徳川のおよそ7㎞上流に位置する。

三徳山のふもとの三佛寺/さんぶつじは、

山全体を境内とする天台宗の古刹で、

幾つものお堂やお像などを継承しているそうだが、

なかでも標高520mの断崖絶壁に建つ奥の院投入堂は、

平安期建立のアクロバティックなその建築により、

ひときわ異彩を放っている名所のようだ。

温泉街から三佛寺までバスでおよそ20分、

宿屋で借りた和装と下駄履きで訪れたため

下車後まもなく足をくじいたという筆者は、

往復に2時間かかるという投入堂までの参拝登山を諦めて、

寺の山門付近をうろうろとしてから

茶屋に入り、ビールと名物の三徳豆腐を賞味し、

参拝登山用の草鞋を土産にするのだが、

なにかとユーモラスな描写や展開が、味わい深い。

 

1964年/還暦の頃に発表された2つの回想記

太宰治」と「井伏鱒二」では、

戦前に所属した幾つかの同人誌や、

文士の集まりである阿佐ヶ谷会のエピソードが魅力的だ。

文学はもとより、酒や将棋などを肴にしての

若かりし頃の交流奇譚だが、

時代の雰囲気や、新鮮な人物像を伝えながら、

同時に筆者の軌跡も浮かび上がるようで、興味深かった。

 

木山捷平が描くのは、

市井に生きる一見すると何気のないような人々だ。

けれどもそれらの人々が、

そう見えるほど何気なくはないこと、場合によっては

切実な大小のドラマを生きていることに、

時にどきっとさせられる。

いずれの人々もどこか健気で、

どのような事情や出来事によっても、

くさったり、いじけたり、悪びれたり、

何かにかぶれたりもしないところに、心を動かされる。

また、私小説風のその作品の主人公の

筋金入りのマイペース感は、なんだか立派でもある。

 

どうしてか、冬に読みたくなる作家なのだが、

透徹した眼差しによる是も非もない精神が、

冷たく乾いた冬の空気と似ているからなのかもしれない。

山陰の旅 鳥取編 

中国山地の北側に位置し

日本海に面して東西にひろがる山陰地方は、

古代にまでさかのぼる歴史をもち、

かつて出雲・石見・隠岐伯耆因幡と呼ばれた国々は

多くの神話の舞台となったことから、

神話の国とも謳われている。

 

島根から東へ、中海/なかうみという湖を越え、

鳥取県北西部の境港/さかいみなとを訪れた。

山陰特産のカニや魚介類が水揚げされる漁港で、

貿易港でも、客船の航路でもあるという大きな港だ。

かつては北前船/きたまえぶねが寄港し、

現在では隠岐の島をはじめとした国内船や、

韓国やロシアへの国際船も出入港するようで、

大型フェリーからイカ釣り漁船まで、

水産庁から海上保安庁まで、大小さまざまな船が停泊していた。

ときおり世界共通の言語である汽笛が鳴ったが、

Buoooーという深みのあるニュートラルなその音を聴くと、

懐かしいような気持ちになるのは、なぜだろう。

 

県中央部に位置する城下町・倉吉は、

かつて城が築かれたという打吹山/うつぶきやまのふもと、

玉川沿いの白壁土蔵/しらかべどぞうの街並みが、

伝統的建造物群保存地区として整備されていた。

白い漆喰壁に、黒い焼杉の腰板が張られ、

屋根に朱い石州瓦を葺いた土蔵や商家が、

江戸・明治期の面影を伝えていた。

ゆるやかなカーブをもつ一枚石の石橋が

小川をまたいで建物の裏口と通りをつないでいたが、

その実用的で何気のない石橋がとても美しかった。

陣屋町/行政の中心地でもあった倉吉には、

現在も市役所があり、建築は丹下健三氏によるそうだが、

昨年10月21日の鳥取県中部地震により、震度6弱を記録したという

市内のあちらこちらの民家の瓦屋根には、

いまだ青いブルーシートが張られたままで、

ぬきさしならぬ現在進行形の、リアルな街並みが印象深かった。

 

岡山との県境にほど近い

県南東部の智頭宿/ちづじゅくは、

江戸時代には宿場町として大そう栄えたという町で、

奈良時代以前に結ばれた兵庫県姫路へ通ずる因幡街道と、

岡山へ通ずる備前街道が交わる地で、杉の産地でもあるという。

同地で山林業や問屋業を営んでいた大庄屋・石谷家の住宅が

国指定重要文化財として公開されており、

部屋数約40に広大な土間・7棟の土蔵・茶室・庭園などを有する

武家屋敷風の大規模なその邸宅からは、

往時の繁栄が偲ばれ、見応えがあった。

 

県北東部にひろがる鳥取砂丘では、

雨と雪との入り混じる、すさまじい強風に、

砂が舞い、目を開けているのがやっとだった。

黄土色の砂の上に、およそ同系色の駱駝/らくだが3頭、

目も脚もたたんで休息していた。

はじめて見るラクダは、なんてユニークなのだろう、

背中に同じくらいの大きさのこぶがふたつ、

犬のようにWoonと吠えたのでびっくりした。

年々縮小しているという東西16㎞・南北2㎞の海岸砂丘は、

雨雪を吸収して、常に内部に水分を保っているそうで、

出現したコバルトブルーのオアシスが、ひときわ神秘的だった。

 

湯治湯として名高い三朝/みささ温泉は、

荒涼とした三徳川/三朝川の周辺に宿や病院が集まり、

大学施設とも連携しているという、珍しいラジウム温泉だ。

白い狼を助けたお礼に神託を得たという伝説の起源をもち、

1164年/長慶2年以来、

楠の木の根元から湧出し続けているという株湯/かぶゆは、

口に含むとわずかに湯の花の味がした。

41~42℃の源泉は、無色透明・ほぼ無臭で、なめらかだ。

放射能ラジウムが崩壊したときに生じる

微量の放射線ラドンガスを体内に吸収すると、

心身が活性化され免疫力が高まるということで、

入浴・飲泉はもちろんだが、より効能を求めるならば、

肺から蒸気を取り入れるのが最も効果的ということだった。

かつて三朝温泉病院は傷痍軍人の療養所として

設立されたという歴史をもつことからも、

傷ついた多くの人を癒し続ける、

懐の深い名湯であり温泉街なのだろう。

再び、ゆっくりと訪れたい霊泉だ。

 

深緑色の小山のもこもことした山並みや、

朱や黒色の石州瓦屋根の家並みが印象的な、 

奥の深い、どこか気品の漂う山陰だった。

山陰の旅 島根編

冬の名残と春の陽気が交差する3月の上旬に

山陰の島根・鳥取へ小旅行をした。

 

島根の出雲大社足立美術館・松江・美保神社

鳥取の境港・倉吉・智頭宿・砂丘を巡り、

玉造と三朝の温泉に宿泊するという

駆け足のバス旅行だったが、

はじめて訪れた山陰地方は、

寒気の影響から薄灰色の雨雲に覆われて、

ひっそりとしていた。

 

海の近くだからだろうか、風が強く、

また小雪が舞うなか参拝をした出雲大社/いづもおおやしろは、

60年毎に行われる遷宮をほぼ終えて、

新装されたばかりということだったが、

虚飾の感じられぬ、さっぱりとした佇まいが美しかった。 

なだらかな勾配をもつ長い参道に、

石・木・鉄・銅と素材の異なる4つの鳥居がたち、

とくに左右に松の植えられた参道が印象的だった。

8世紀頃に記されたとされる歴史書「古事記」にも

記述のみられるという大社は、

時の経過とともにいっそう輝きをます、神話そのものだ。

 

庭園が名高い足立美術館では、

コレクションである横山大観日本画20数点や、

同地/安来市出身の河井寛次郎の陶芸作品、

また北大路魯山人の手掛けた器や調度に、

「細民の美食から大名の悪食までに通じていなくては、

一人前の料理人とはいい難い。」という魯山人節を楽しんだ。

徹底的に設計され整備された庭園は館内から鑑賞する大作品で、

郊外という立地も手伝って、都の寺院などでは望んでも得られぬ借景が

悠々と保たれているところが稀有と感じた。

 

宍道湖畔の城下町・松江では 、

城の内濠沿いに軒を連ねる武家屋敷と老松の並木が

美観をなす塩見縄手/しおみなわてや、

7代藩主で茶人でもあった松平不昧公/ふまいこうによって

1779年/安永8年に建てられ、後に移築された

茶室・明々庵/めいめいあんを訪れた。

厚いかやぶきの屋根に黄土色の土壁の

ゆかりの庵を目前にお抹茶をいただきたかったが、

早朝であったため喫茶の時間外ということで叶わなかった。

また、茶の湯とともに根付いている和菓子をお土産にと

楽しみにしていたのだが、銘菓といわれるそれらの多くには、

赤色2号・黄色4号・青色1号といった

着色料が使用されていたので、ひるんでしまった。 

不昧公の頃も、おなじように着色していたのだろうか。

県立美術館の閉館時間が一定ではなく、

日没後30分という、素敵な文化をもつ水の都は、

しっとりとした空気が心地よい、雨の松江だった。

 

県の最東端の美保関/みほのせきは、

江戸時代に多くの商船が往来した関所であった小さな港町で、

まるで時がとまったような鄙びた風情が新鮮だった。

高台にある美保神社は、

二柱/ふたはしらの神様を祀るため

本殿がふたつ並んでいる珍しい古社で、

森閑とした大樹に囲まれた、朗らかで美しい神社だった。

また、えびす様の総本宮でもあり、

えびす様である事代主神/ことしろぬしのかみは、

出雲大社大国主神/おおくにぬしのみことの息子なので、

両社を参拝することを親子参りというそうだ。

風が舞い雪が踊ったかと思うと太陽がふりそそぐ、

不思議な天の気だった。

 

宍道湖の南岸に位置する玉造温泉

湖へと注ぐささやかな玉湯川の両岸に旅館がならぶ

こじんまりとした温泉街で、歴史のある古湯ということだ。

8世頃に記され、ほぼ完全なかたちで伝承されているという

出雲国風土記」にも記述がみられるそうだから、

八百万の神々も湯あみされたかもしれない。

源泉59.4℃という低張性弱アルカリ高温泉は、

絹のようにきめが細かくなめらかで、

無色透明・無臭のさらさらとした湯ざわりが、心地よい。

はらはらと雪の舞い散る露天風呂では、

居合わせた各地からの旅人との一期一会の談話に

旅情が募るようで、とりわけ近畿特有の

はんなりとした語調が花を添えているようだった。

寒さに凍えた身体がぽっぽと芯から温まり、

挽きぐるみの出雲そばや、宍道湖のしじみ汁、

新鮮なお魚、鯛めしなどを美味しくいただき、

お水がよいところはお料理も美味しいと、感じ入る。

 

どこか、

原始の歴史をもつ矜持の感じられる、島根だった。

詩 ラピスラズリ

純粋さは

否定によって強化される

 

繊細すぎる君は

愛を忘れてしまう

 

あなたを想う独りの時間を

あなたに侵されたくない

 

とうたっている

 

動物でも天使でもなく

無邪気な子供のやり方で

 

青い嵐をおこす

 

わかっている

 

星の位置は

そのうち変わる

 

思い出す

 

生まれてきた

意味を知る

深川のお不動さん

1月の終わりころ、ぎっくり腰にはじめてなった。

朝起きしなに、物を取ろうと、

ほんのすこし前屈した瞬間に、激痛がはしった。

 

背中から腰にかけての鋭い痛みに、

しばらくの間、動けなくなり、

症状が落ちついてから、近所の整体院へ初診に伺うと、

「あぁ、それはぎっくり腰ですね、

 冬の朝に起こりやすいのですよ」ということだった。

 

ぎっくり腰は、

腰の筋肉の断裂・損傷・炎症などによる

急性の腰痛をさす俗称で、原因や症状は様々らしい。

幸い軽症で、数日安静にすれば、

1週間ほどで自然治癒するといわれて、ひと安心。

 

ところが、すこし良くなってくると、

眠る前の習慣のストレッチをして、

また左の股関節周りの筋肉を痛めたり、

すっきりしないまま、2月も中旬に。

 

小康状態には歩くと良いときいて、

先日は江東区門前仲町

深川不動堂の縁日と、富岡八幡宮の青空市へ行った。

 

門前仲町は、お不動さまと八幡さまのある寺町で、

東西に走る永代通り沿いの商店街/約400mと、

そこから北へ伸びるお不動さまの参道/約150mとに、

さまざまな露店が軒を連ねていた。

青果・乾物・惣菜・花木・生地・金物・雑貨など、

みているだけで楽しくて、足どりも軽やかになる。

 

ふと、お不動さまから八幡さまへ向かう道すがら、

ものすごくユーモラスな問答が聞こえてきた。

5~60代くらいの女性がおひとり、

深川不動さん、どこですか?」と道を訪ねると、

犬と散歩している土地のお兄さんらしき人は、

深川不動産?いやぁ、ちょっと・・?」と答えて、びっくり。

メトロの駅から出たばかりで方角がつかめないのか、

女性はもう一度「深川不動さん」ときいてみるけれど、

男性もやはり「深川不動産?」といって、

あたりをきょろきょろと見回している。

わたしは足早に通り過ぎてしまったのだけれど、

参道の目と鼻の先での、なんとも珍妙なやりとりに、

心のなかで大笑いしてしまう。

 

穏やかによく晴れた暖かい一日で、

陽射しには春の気配が満ちていた。

人々もどこか寛いでいるようにみえる。

ひととおり街を楽しんで、

徒歩20分ほどの帰路を辿りながら、

深川不動さん、どこですか?」

深川不動産?いやぁ、ちょっと・・?」

というやりとりを思い出すと、なんだか可笑しくて、

腰の痛みも和らぐような気がするのです。

詩 オレンジ

オレンジ色に

塗られたオレンジ

 

忘れてしまう

忘れてしまったことさえも

忘れてしまう

 

小さな雪の

降る朝に

 

オレンジ色のくちばしの

鳥が2羽

飛んできた

 

過去と未来は

現在とともに

形をかえる

 

花の精は

特別なときに

姿をかえる

 

花瓶のなかには

鳥のくちばしと同じ

 

おしゃべり上手な

オレンジ色のチューリップ

 

ぼくたちの背中には

みえない羽が生えている

 

翼をひろげて

風にのって

飛んでゆける

 

小さな雪の

降る朝に 

 

思い出す

思い出したかったことを

思い出す