佐賀町日記

林ひとみ

映画の年2016

2016年は映画をよく観た。

 

数えてみると88本を観たようで、

年に数本という年もあることを考えると、

2016年は映画の年だった。

 

きっかけは、

自室にビデオデッキとブラウン管TVを設置し、

VHSを再生する環境を整えたことにある。 

いくつかのどうしても観たい作品が

VHSでレンタルされていたので、

時代に逆行するようで迷ったが、

一時的にと思い切り、リサイクル品を安価で入手した。

余命いざ知れずのビデオデッキと、

地上波に切り替わり行き場を失ったブラウン管という、

取り残され忘れ去られた機器のコンビが、

忘れ去られたかのようにみえる作品を再生する様は、

どこか甦りに似て、どきどきした。

 

念願がかない夢中で観た作品のなかで

とくに印象深かったのは、 

フランスの監督クロード・ソーテ、エリック・ロメール

ロベール・ブレッソン、ジャン・ルノアール

スウェーデンイングマール・ベルイマン

アメリカのロバート・アルトマンなどの作品群だ。

1960年代~80年代に制作された作品が多かったが、

いずれも時代を反映しつつも、

いまなお強度のある新鮮な輝きを放っていた。

簡単には到達できぬ

独自の高みにある監督たちが、すばらしい。

 

また、邦画では小津安二郎の作品をよく観たが、

独特のテンポと雰囲気に親しみを感じるとともに、

奥ゆかしい台詞や言葉遣いが新鮮でうれしかった。

 

 

ふと、昭和の数寄者・青山二郎の言葉を思い出した。

「高度の芸術に完備してゐる芸術の大衆性と

大衆芸術と謂はれる娯楽の大衆が喜ぶ魅力の相違・・」

 

映画に限らず、様々な表現に対しての、

一理のある見立てだ。

ときに両者を明確に区別することはむつかしく、

また善し悪しや好き嫌いとは別の問題であることが、

奥深く神秘的で、興味は尽きない。

 

映画はフィクションだけれど、

その体験はリアルなものだと確認した、2016年の暮れだった。

クリスマス

クリスマスになると思い出すことがある。

 

社会人になりたての頃の12月の或る夜、

学生時代からの友人たちと集まり

鍋を囲んだことがあった。

 

当時、西荻窪に姉妹と同居していた友人宅に向かう道すがら、

買い出しの袋をさげて、賑やかな商店街を歩いていた。

白い息をはきながら、何気ない会話をしていたのだと思うが、

「クリスマスだからといって、幸せな人ばかりではないよね」

と、一緒に歩いていた友人がふいに言った。

その言葉が、どこか天上的な響きを伴って、慈しみ深いようで、

なんだかとても印象的だった。

 

暖かい鍋を一緒に囲み、大いに語らい、

楽しい時間を共に過ごした友人たち。

 

今から15年近く前のことだけれど、

クリスマスになるとふと思い出す、魔法の言葉だ。

ローズマリー

ベランダのローズマリー

ひとまわり大きな鉢に植え替えた。

 

株分けから5年ほどたち、

どことなく元気がないようにみえたので

植え替えてみると、鉢の中でびっしりと

とても窮屈そうに根を張っていた。

乾燥や寒さに強く、手のかからない

ローズマリーの生命力旺盛ないでたちに対して、

その根が糸のように華奢であることを

はじめて知った。

 

また、自然にまかせるままに

アンバランスに斜めに伸びていた枝を

まっすぐになるよう角度を調整して植え直したので、

心なしかすくっと気持ちよさそうだ。

 

ローズマリーは、 

地中海沿岸を原産とするシソ科のハーブで、

スープやパスタなどの料理にはもちろんだが、

リンスやスキンローションの一部としても

みずみずしいそのエッセンスを分け与えてくれる。 

 

たとえばせっけんで洗髪したあと

指どおりをよくするため、

ローズマリーを漬けたお酢でリンスをすると

なめらかになり、ふんわりと仕上がる。

 

また、ローズマリーを煮出し

グリセリンを加えたローションは、

洗顔後の肌にさっぱりとなじみ心地よい。

冬季には、かぼすやゆずの種を浸水させた天然のジェルを重ねれば

乾燥にも効果的だ。

 

なにかとお世話になっているローズマリー

いつも今年もありがとうといいながら、

植え替えが終わったころにはすっかり日も暮れ、

藍色と橙色のいりまじった夕空がとても美しかった。

すると、青と赤のボディが印象的なイソヒヨドリ

すぐそばまでやってきて、ヒトを警戒するそぶりもなく、

ベランダのバーにしばらく留まっていた。

まるでローズマリーの木の精がお礼に来たような、

ささやかなうれしいひとときだった。

りんご

今年もりんごの季節がやってきた。

 

毎年12月に入るころ、

群馬の月夜野から収穫したてのりんごが届く。

箱をあけると甘酸っぱいなんともよい香りだ。

今年は9月の長雨の影響で、

形がいびつであったり、色づきが不安定であったり、

ところどころ傷ついたりしているが、

味はいつもと同じようにとても美味しかった。

 

できるだけ自然に栽培されたりんごたちの

厳しい自然条件をくぐりぬけた健気な姿に、

むしろ愛おしさはひとしおだ。

 

フレッシュなりんごを楽しみつつ、 

春頃から使用しているソーラークッカー/エコ作で

焼きりんごにすると、甘みと酸味が凝縮されて際立ち、

とびきり美味しく、また感動的だった。

冬の低い太陽高度でも、よく晴れていれば2時間ほどで調理でき、

りんごの他にもお芋類やスープ類、

すこし時間はかかるがお豆類などが、ほくほくに出来あがる。

12月の東京の安定した冬晴れは、

ソーラークッカー日和ともいえそうだ。 

 

りんごは、アダムとイヴの創世記の頃から、

現代ではApple社のシンボルマークに引用されているように、

どこか神話的で象徴的な果実だ。

赤いりんごを食べながら、

いまここに生きていること、

行く2016年と来る2017年のことを想う、12月だった。

クリスチャン・ボルタンスキー アニミタスーさざめく亡霊たち

美術作家クリスチャン・ボルタンスキーの

東京での初個展「アニミタスーさざめく亡霊たち」を

目黒の東京都庭園美術館で観た。

 

クリスチャン・ボルタンスキー/1944ーは

匿名の人々の生や死をモチーフとした

ホロコーストを連想させる作品群や、心臓音のアーカイブなどの

インスタレーション/空間芸術で知られるフランスの作家だ。

 

「アニミタス/小さな死」と題された本展は、

美術館として公開保存されている歴史的建築物との

コラボレーション的な展覧会という印象で、

本館/旧朝香宮邸に3点、

新館/ホワイトキューブに3点の作品が展示されていた。

 

往年はパブリックスペースとして機能した、優雅な大広間・

応接室・大客室・大食堂などが配された本館1階では、

観覧者があるポイントに接すると、センサーライトのごとく、

ランダムで脈絡のない音声によるセリフが流れ、

不在の存在を喚起させられるようだった。

「そのネックレス、本当によくお似合い」

「なんて言っていいかわからなかったから」

「わたしの声が、聞こえますか?」

などの30種のセンテンスが、

あちらこちらで立ち現れては消えていくさまは、

まさに「さざめく亡霊たち」だろう。

 

プライベートスペースとして設計された本館2階の

居間と寝室には、1984年以降作りつづけられているという

影絵を用いた不気味でユーモラスな「影の劇場」が、

書庫には、採集された心臓音が、赤い電球の点滅とともに、

規則的にときに変則的に大きく鳴り響いていた。

瀬戸内海・豊島/てしまのアーカイブからの12人の心音だそうだが、

現地では心臓音の登録/1540円もでき、

作家には巡礼地や聖地を、

また物語や神話を作るという意図もあるようだが、

それらのパロディとしての一面についても考察させられた。

 

朝香宮邸は、1933年/昭和8年に建てられた

華麗なアール・デコ/1925年様式の洋館で、

宮家の自邸として、首相官邸として、迎賓館として

時代ごとに遍歴を重ねた国指定の重要文化財でもある。

そのため展示方法に制限があり、

作家にとっては必ずしも仕事をしやすい場所ではないようだが、

条件と表現をユニークに融合させているところに好感をもった。

また、多彩な室内装飾にフォーカスした「アール・デコの花弁」展も

同時開催されているため、見どころは尽きなかった。

 

一方、写真家・杉本博氏をアドバイザーとして

2014年に新築された新館の2つのギャラリーでは、

古着の山を金色のエマージェンシー・ブランケットが覆う「帰郷」/2016年と、

その山を取り囲むように、

証明写真からクローズアップされた匿名の人々の目元を

薄く透ける白布にプリントし天井から吊した「眼差し」/2013年が展示され、

何かを告発しているようだったが、それが何であるかは重要ではないのだろう。

また、干し草/イネ科のチモシーが床の一部に敷かれ

その香りがたちこめるもうひとつの展示室では、

チリのアタカマ砂漠に600個の風鈴を設置した「アニミタス」/2015年と、

豊島の山中の森に400個超の風鈴を設置した「ささやきの森」/2016年が、

ヴィデオで再生されていた。

「地球上でもっとも乾燥しているから星座がはっきりみえる高地の砂漠なんだって、

風鈴はボルタンスキーが生まれた時の星の配置になっているんだって」

「へぇ~そんなこといわれても~笑」とキャプションを眺めながら

会話している女学生たちがキュートだった。

 

美術館を後に、隣接する自然教育園を散策し、

落ち葉でいっぱいの遊歩道を歩く。

さくさくと足音が響き渡り、

枯葉の濃厚な香りに包まれ、気持ちよい。

 

自然教育園一帯は、縄文時代中期に人が住みつき、

室町時代には豪族・白金長者が屋敷を構えたといわれ、

江戸時代には高松藩主/松平讃岐守頼重の下屋敷に、

明治時代には陸海軍の火薬庫、

大正時代には宮内省の白金御料地として、

歴史を重ねた土地であるという。

ボルタンスキーの「さざめく亡霊たち」ではないけれど、

もののけたちが住んでいても不思議ではないような豊かな森だ。

姿のみえない無数の野鳥の鳴き声がこだましていた。

 

鮮やかに黄色に染まったイチョウ

透明な秋の太陽をうけてきらきらと輝く

とりわけよく晴れた日の午後だった。

詩 イカロス

私が私の怒りを表現したいとき

私はそれに相応しい場所にいた

 

私が私の哀しみを表現したいとき

私が私の喜びを表現したいとき

 

私はそれぞれに相応しい場所にいた

 

因果は同時に存在している

けれど地上では

すこし時差があるようにみえている

 

太陽の光は8分18秒で地球に届く

 

私たちがより敏感に

今何を信じているのかを明らかにすれば

未来はみえる

 

進化にも

光と影があるのは

万物の法則のようなもの

 

人間の歴史がはじまってから

 

私たちが獲得したもの

私たちが失ったもの

 

人間の歴史の外で

 

受け継がれたもの

変容を遂げたもの

 

羽ばたいたイカロスは

 

太陽に焼かれたというよりは

己の情熱に焼かれたというほうが

正確なのかもしれない

 

そして未来は

今わたしたちの内にある

詩 ナナカマド

 

強い雨の音につつまれて

秋の虫の音につつまれて

 

時間がきえる

 

永遠の彼方に

閉じこめられて

 

読まれることを

待っている書物たち

また

書かれざる物語たち 

 

時なき時を

みつけては

 

夢の世界のように

唐突に

不可思議に

大胆に

 

それぞれの

物語をユニークに

うたいはじめる

 

昔話も

神話も

 

ホメーロス

シェイクスピア

 

聖書も

コーラン

 

矛盾や

不調和さえ

 

世界のうちでは

ハーモニーの一部となり

 

いにしえの 

神様同士の喧嘩のような

 

よどみのない

いきいきとした

 

喜怒哀楽に

彩られている

 

ナナカマド

秋の香り

 

カチカチカチと

秒針が

 

世界を一応

ととのえた 

展示 アイノ・アールト | AINO AALTO Architect and Designer ー Alvar Aaltoと歩んだ25年

フィンランドを代表する建築家アルヴァ・アールトの

公私におけるパートナーとして知られる

アイノ・アールトの展覧会を、

竹中工務店東京本店のギャラリーエークワッドで観た。

 

アルヴァ・アールト/1898-1976は

20世紀前半の、新しい技術や素材による

機能性や合理性といった新しい哲学を掲げた

モダニズム近代主義の時代を生きた建築家だ。

 

フィンランドの首都ヘルシンキに生まれた

アイノ・アールト/1894-1949は、

ヘルシンキ工科大学/現アールト大学在学中に

教会堂や木工・家具工場で実習を積み、

卒業後いくつかの建築事務所勤務を経て、

4歳年下のアルヴァが1923年に立ちあげたばかりの事務所に

1924年/30歳で入所する。6か月後ふたりは結婚し、

以来25年間にわたり、仕事上のパートナーとして、

また妻として、二人の子供の母親として、

半世紀の生涯を力強く生きた先進的な女性だ。

 

220㎡の展示室には、

アールト事務所の初期の代表的なプロジェクトが

アイノの果たした役割とともに紹介されていた。

サナトリウム、個人宅、図書館などの設計において、

アイノはとくにインテリアデザインを担当し、

ときには福祉健康センター、農業協同組合ビル、夏の家など

彼女単独の仕事もあったようだが、いずれにしても、

ふたりの仕事は不可分に結びついていたようだ。

ガラスの器や、椅子やテーブル、テキスタイルなど、

より生活に密着した空間のデザインも、

アルヴァと共作で、ときにアイノ単独で行われたそうだが、

そのなかのいくつかは、テーブルウエアのiittala/イッタラ

家具のArtek/アルテックの定番として現在も愛されつづけ、

どこかで目に手にしている人も多いのではないだろうか。

とくに、アールト夫妻と友人等が共同で設立したArtekの、

脚のカーブが特徴的なバーチ材の椅子やテーブルは、

シンプルでどこか楽し気で、ニュートラルなところがすきだ。

 

会場には、

ふたりが建てた自邸と事務所が一体となった

アールト・ハウス/1935-36年のリヴィングの一角と、

同様に手掛けられた首都ヘルシンキのフォーマルな

レストラン・サヴォイ/1937年の一角が再現されていた。

それぞれにふさわしい適度な装飾性を備えた

ディテールや空間デザインからは、

自邸のリヴィングにおいてはあたたかさや快適さが、

レストランにおいてはエレガンスや清潔さが感じられた。

 

再現レストランに設えられたArtekのチェアとソファは

使用可ということで、壁に沿ったひとつづきの

濃いブルーの布が張られたソファで、ひと息つく。

ひかえめなBGMからは、

シベリウス交響詩フィンランディア」が流れていた。

後に讃美歌「やすかれわがこころよ」のメロディーとして、

またフィンランドの愛国歌として転用された美しい旋律が

どことなく新鮮に聴こえてきた。

 

北欧の短い日照時間、および

低い太陽高度による寒冷な気候は、暖炉やサウナ、

屋内の採光などの設計に反映されて、

建築と風土が密接に結びついていることを改めて感じた。

 

AINO AARTOをクローズアップした展覧会は

母国フィンランンドにおいても

まだ開催されていないそうなので、

遠いこの国にいながら接することのできた

実験的な美しい企画展だったといえるかもしれない。

 

主にアイノがデザインしたという湖畔をのぞむ夏の家

ヴィラ・フローラ/1926年で撮影された、

北欧の短い夏を楽しむ家族4人のプライベートフィルムが、

アイノの54年という決して長くはないけれども

充実した人生を象徴しているようで、印象的だった。

江戸の蒸しそば

先日、アンテナショップ・ふくい南青山291で、

そろそろ新物に切り替わるタイミングであろう

そば粉の在庫品が半額になっていたので、

丁度よいとばかりに購入し、

江戸時代の蒸しそばつくりにチャレンジした。

 

江戸時代初期頃に普及したといわるそば切りだが、

当初は製粉および製麺技術の素朴さゆえに

ぼろぽろと切れやすく扱いにくかったことからか、

現在のように茹でるのでなく、蒸して調理されていたそうだ。

「せいろ」という呼び名はその名残であるという。

 

そばの生麺を作るのははじめてだが、

うどんは何度か簡易に作ったことがあったので、

同じような要領で、

そば粉と水を適当に、様子をみながら手で混ぜ捏ね、

10分ほど寝かせ生地を落ち着かせてから

打ち粉とともに麺棒で薄くのばし、

二つ三つに折り畳んで包丁で切り、

半分を茹で、半分を蒸して、食べ比べてみた。

 

幅もまちまちで、ごわごわと、

全体的に田舎そばのように太めだが、

どちらもなかなか美味しく食べることができた。

茹でたそばは、ほどよくコシが立ち、

風味をバランスよく味わえた一方、

そば湯はさらりとした淡泊なものになった。

蒸したそばは、むちもちとした食感と、

濃厚で力強い味わいが印象的で、

栄養素が茹で湯へ流出しにくいことも

関係しているのかもしれないと思った。

表面の打ち粉もそのままなので、

ざらっとした舌ざわりが新鮮で不思議だった。

 

アウトレットのそば粉ではあったが、

石臼引きの、挽きぐるみ/全粒粉という

そば粉の個性を存分に楽しめた、ゆかいな実験だった。

 

甲乙つける必要もないが、

茹で時間に3分ほど、蒸し時間に15分ほどと、

調理時間やそのエネルギーにやや差があることや、

食べなれているせいもあってか、

再び作って食べたいと思うのは茹でそばだった。

たとえば、そば粉を用いたお団子やお饅頭のようなものを

蒸して調理したらむっちりと美味しいだろうと想像した。

 

時代とともに、

つなぎに小麦や山芋や海藻などを用いて、

細くしなやかに仕上げられた

現在では一般的で当たり前なそば切りだが、

江戸時代の人々は、

次第に洗練されてゆく麺の細さやその食感に

大いに感嘆したのではないだろうか。

 

あらためて新物のそば粉でつくってみよう。 

達人のようにはいかなくとも、春と秋、

それぞれの季節の味を感じられたらうれしい。

かぼす

9月の終わりに

大分から箱いっぱいのかぼすが届いた。

 

毎年、ポン酢や豆乳マヨネーズやドレッシングに、

マリネやミックスジュースやパスタにと大活躍しているが、

今年はじめて、はちみつ漬けを作った。

 

よく洗浄し、薄くスライスしたかぼずに

はちみつを注ぎ、漬けおくというシンプルな作り方だが、

1週間後には皮や種まで美味しく食べることができた。

かぼすにはビタミンCやクエン酸が豊富ということなので、

冬特有の乾燥や風邪の予防にもぴったりだ。

 

また、エキスを絞った後のかぼすを

湯船にうかべて入浴するのも楽しみのひとつだ。

柑橘類のさわやかな香りと、

皮に含まれる天然のオイル、橙皮油/とうひゆが肌に心地よい。

 

ささやかな、秋の夜長の楽しみだ。

 

たとえば、人が生きるということは

ありふれた些細なことの集積でもあるのだろう。 

本 わら一本の革命 | 福岡正信

自然農法の提唱者である

福岡正信著作「自然農法 わら一本の革命」を読んだ。

 

自然農法の実践と哲学を

口語体で平易に記述した指南書ともいえる本作は、

1975年に柏樹社より出版され、

1983年に春秋社に引き継がれ、

増版を重ねながら読み継がれている作品だ。

 

愛知県伊予市に生まれた福岡正信/1913‐2008年は、

岐阜高等農林学校/現岐阜大学農学部を経て

横浜税関の植物検査課に勤務していた25歳の頃、

心身の疲労から急性肺炎を患い、死の恐怖に直面し、

人生を一変させる強烈な価値観の転換を体験する。

徹底的な懊悩の末に「この世にはなにもない」という確信、すなわち

「架空の観念を握りしめていたにすぎなかった」ことを体得したという。

その後、郷里へもどり帰農し原始生活を始めるが、

当時村長であった父親の勧めや、激化する戦争の影響から、

高知の農業試験場で科学農法の指導・研究に8年間携わったのち、

終戦とともに、再び郷里で帰農して以来、

終生、自然農法を実践・提唱しつづけた、独立独歩のパイオニアだ。

 

独特の否定の精神、

人知・人為は一切が無用であるという

一切無用論に貫かれた思想により辿りついたのは、

米と麦の連続不耕起直播、またの名を

緑肥草生米麦混播栽培というユニークな農法だ。

 

秋の畑にまだ稲がある10月上旬頃に

雑草対策と緑肥を兼ねたクローバーの種を稲の頭からばら播き、

つづいて10月中旬頃に麦の種をばら播き、

およそ2週間後の10月下旬に収穫の稲刈りをし、

地力・発芽・保水対策、雑草や雀対策として

脱穀後の生の稲わらを長いまま畑全面に振りまく。

それと前後するように11月中旬以降または下旬に、

鳥や鼠たちに食べられないように、また発芽まで腐らないように、

粘土団子にした稲の籾種を播く。

翌年5月に麦刈りをし、

脱穀後の麦わらを同じように長いまま畑全面に振りまき、

6~7月はあまり水をかけず、

8月以降時々走り水をかける無滞水にし

稔りの秋を迎えるという、奇想天外な米麦の一世一代だ。

 

秋に同じ田畑に麦と米を播き、

その上にわらを振りかけるだけの農法ともいえるが、 

どうしたら何もしないですむかということだけを

何十年も追求してきた結果、

これ以上簡単で、省力的な作り方はなく、

もうこれ以上手を抜くところはなくなってしまった、

という境地に至る福岡翁だ。

 

苗代づくりや田植えはどこへやら、

不耕起・無肥料・無農薬・無除草でありながら、

現行の科学農法以上の収穫量をほこるそうだから、凄い。 

 

奇跡のりんごの木村さんをはじめ、

現代の農業やわたしたちの食生活に、

計り知れない影響を与えていることだろう。

 

「 自然農法は、いつでも科学の批判に耐えられる理論をもっています。

 そればかりか自然農法は、科学を根本的に批判し、

 指導する哲学をもっているから、

 科学農法にいつも先行するものだと断言しておきます。」

 

徹底的な否定の精神を、建設的に用いて道を切り拓いた

ユニバーサルな傑人の偉業「わら一本の革命」に、

あっぱれと感嘆するばかりだ。

 

「この世ほど、すばらしい世界はない。」

という翁の言葉が、植物の種のように、

わたしという土地に健やかに深く根付きますように。

もりとざる

蕎麦の「もり」と「ざる」の由来や違いには、

さまざまな事情が複雑に絡み合い現在に至る

ひとくちには語りつくせぬストーリーがあるようだ。

 

蕎麦は、一説には日本では縄文時代から栽培され、

古くは「そばがき」や「そば焼き」として食べられ、

麺として食べられるようになったのは

16世紀末/江戸時代初期頃からということだ。

 

そば切りと呼ばれた麺は、皿やせいろに盛られ、

つけ汁とともに食べられた今に通じるスタイルだが、

江戸時代中期・元禄の頃、

江戸の新材木町にあった信濃屋が始まりといわれる

「ぶっかけそば」が流行したことで、

皿やせいろに盛られた元来のそば切りは「もりそば」と呼ばれ

区別されたということだ。

また、江戸時代中期に、

江戸の深川洲崎にあった伊勢屋が始まりとされる

竹ざるに盛った「ざるそば」は、

器の違いだけだが評判で広く知られたそうだ。

当時、一目置かれたお店だったのかもしれない。

 

時代が下り、明治になると

「もりそば」に海苔をのせて、器の区別もあいまいな

「ざるそば」が誕生するが、もりと明確に区別するために

「ざる汁」という贅沢と考えられた濃厚なつけ汁を用いたそうだ。

 

また現在でも、

そばの芯だけを挽いた更科粉を玉子でつないだ「ざる」、

一番粉を用いた「もり」と、

そば切り自体で区別しているお店もあるようだ。

 

いずれにしても、

もりは並、ざるは上、という感覚だろうが、

個人的には、

シンプルでごまかしがきかない「もり」に惹かれる。

 

とはいえ、現在広く流通するのは、

器やつけ汁や麺によるのではない、

学生の頃、アルバイト先のお蕎麦屋さんに教わった

「海苔なしがもり、海苔つきがざる」だろう。 

それら食文化の遍歴の

成り行きやいい加減さがなんとも面白い。

長い年月に洗われた歴史や伝統には

そのような曖昧で軟派な一面が

多分に内包されて然るべきなのだろう。

 

ところで、江戸時代初期には

そば切りを蒸して調理していたそうなので、

生そばを買ってきてチャレンジしてみた。

せいろを持っていないので、

クッキングシートをひいた蒸し鍋で蒸すこと30分、

火は通っているようだが、水分が足りないような、

ぼそぽそしているような、珍妙な出来あがりだった。

茹でることを想定した規格だからなのか、

近いうちに、珍道中ついでに

黎明期のそば切り作りにトライしてみようと思った。

 

もうすぐ新そばのシーズンでもあるので、

よりいっそう楽しみだ。

雨の9月

東京は

曇りや雨の多い、涼しい9月だった。

 

雨の日のしっとりとした静けさも心地よいが、

雨上がりの透明な空気を胸いっぱいに歩くのは

とりわけ気持ちがいい。

太陽の光がきらきらと、水かさを増した隅田川に反射し、

傍らでハトは羽を広げて日干しをしている。

ひさしぶりの太陽に、みなほっとしているようだ。

寄り道をしながら

いつまでも歩いていたい気分になる。

 

ふと金木犀/きんもくせいの香りに、足がとまる。

こってりと甘い、ユニークな香りだ。

原産は中国南部で、

日本には江戸時代初期に渡来したという、 

秋の季語でもある樹花だ。

四季の巡り、自然のインテリジェンスがまたうれしい。

 

そういえば数日前、

雨の合間にベランダに出ると 、

クローバーとミントの寄せ植えの鉢の余白に

何か知らない植物が発芽していた。

ハーフサイズのうずらの卵のような形態の

種とも卵とも見分けのつかないものが

2~3か月前から土のうえにあったのだが、

長雨の間にぱっくりふたつに割れて

いつのまにか芽が5㎝ほど伸び、

米粒大の小さな葉が3枚ついている。

ときおりの強い雨風にも、

クローバーの陰に守られているようだった。

 

鳥たちの贈りものだろうか、

どんな植物か、生長が楽しみだ。

 

雨と太陽、

それぞれの豊かさに育まれた9月だった。

展示 ジュリア・マーガレット・キャメロン展 | 三菱一号館美術館

「ジュリア・マーガッレト・キャメロン展」を

三菱一号館美術館で観た。

 

ジュリア・マーガレット・キャメロン/1815-79は、

イギリス領であったインドのカルカッタに生まれ、

英国の上層中流階級の社交生活を謳歌するなかで

1863年にカメラを手にし、独自の芸術的表現を探求した写真家だ。

 

彼女の生誕200年を記念して

ヴィクトリア&アルバート博物館が企画した本展は、

6か国にわたる国際巡回展であり、日本初の回顧展ということで、

オリジナルのヴィンテージプリントを含む

約150点の写真や書簡などで構成されていた。

 

独学で発展の途上にある写真の技術を習得したJ・M・キャメロンは、

記録媒体としての写真の役割を一歩進めて、

彼女の言葉でいう「ハイ・アート」の表現を試みていることが特徴的だ。

身近な人物や著名人をモデルとした内面を写し撮るような肖像や、

敬虔なクリスチャンという信仰心が反映された聖母子のモチーフ、

往年の絵画や神話を題材としたファンタジックな作品には、

ソフトフォーカスによる実在のゆらぎや、

当時のモノクロの淡い画質が神秘的で、とても優美だった。

 

会場の三菱一号館美術館は、

イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計による

日本初のオフィスビルを2010年に復元した建物で、

オリジナルは1894/明治27年に竣工、

老朽化のため1968/昭和43年に解体され、

その際に保存された部材を一部再利用するなど、

細部にわたり、かなり忠実に復元されているそうだ。

とはいえ、2~3階にまたがる展示室は現代的な空間に整えられ、

当時の面影をもっとも感じさせるのは、

赤みのあるレンガ造りの外観と、

かつての銀行営業室を転用したクラシックなカフェだろう。

 

作品保護のために20℃に管理された展示室の空調で

冷えた身体を温めるべく、

ハーブティーを飲みながら軽食を待っていたが、

いっこうにサーブされないので尋ねてみると、

どこかのタイミングで伝票が行方不明になり、

注文は消滅していたようだった。

 

それもまたおとぎ話や魔法のようで面白く、

たとえば、どこでもドアのように、

よく似ているけれど、微妙に異なる別の現実に

シフトしたのかもしれないと、

イマジネーションで遊んでみる。

 

不思議だが、印象的な、

菊あるいは重陽節句、9月9日だった。

アルテピアッツァ美唄 | 安田侃

8月の終わりに、北海道の美唄/びばいにある、

彫刻家・安田侃のホームグラウンドのひとつの

野外彫刻公園・アルテピアッツァ美唄へ行った。

 

札幌から北へおよそ60km、

JRの特急電車で35分ほどの美唄市は、

1913~73年に有数の炭鉱都市として栄えた町で、

美唄駅から約5km、バスで20分ほどの道のりを

山間部へと辿った終着点に、

三菱炭鉱住宅の跡地を再生したアルテピアッツァ美唄はある。

その日は雨で、深緑の山々に霧がたちこめていた。

 

1945年に美唄市に生まれた安田侃/やすだかんは、

大理石やブロンズを用いた、抽象的でどこか神話的なフォルムの、

量感のあるパブリック作品を広く手掛けている彫刻家だ。

大理石の名産地である北イタリアのピエトラサンタを拠点に

とくにイタリアと日本で活躍する作家で、

東京の庭園美術館やミッドタウンや国際フォーラム、

渋谷区文化総合センター大和田、トルナーレ日本橋浜町

香川県直島のベネッセミュージアムや、

札幌駅やコンサートホールKitaraなどの、

存在感のある、場と響き合う作品が印象的だ。

 

イタリア語で芸術広場を意味する ARTE PIAZZA は、

1992年の開園以来、少しずつ創り続けられているプロジェクトで、

現在は彫刻作品が大小40点ほど、

野外と屋外に半分ずつ展示されていた。

よく整ったなだらかな緑の丘に点在する彫刻は、

どれも思わず触れたくなるような優美さで、

観ていると無心になる。

足元には、芝生に混じってクローバーやオオバコ、

タンポポに似た黄色い花が愛らしく、

蝶やトンボが飛び交って楽し気だ。

広場の奥の森のなかにも作品が展示されているようだが、

入り口に「熊に注意」のアナウンスボードがあり、

鬱蒼とした森のなかは雨のためにほとんど人影がなく、

どうも人の領域ではない気がして、引き返した。

展示場として再利用されている、木造の小学校校舎と体育館の、

山小屋風の赤い屋根が、あたり一面の緑によく映えて朗らか。

 

めずらしく北海道に台風が上陸するとかしないとかで、

次第に雨足が強まり、

工房を備えた小屋の一角にあるカフェでひと休みする。

雨の音と、鳥の声、緑のにおいが、心地よい。

ログハウス風の屋内には人がまばらで、とても静か。

 

どこかなつかしさを覚えるような、

いつまでもそこにいたいような。

またいつか、幾度でも訪れたい、

雨の降りしきる、豊かな秋の入り口だった。