佐賀町日記

林ひとみ

詩 ナナカマド

 

強い雨の音につつまれて

秋の虫の音につつまれて

 

時間がきえる

 

永遠の彼方に

閉じこめられて

 

読まれることを

待っている書物たち

また

書かれざる物語たち 

 

時なき時を

みつけては

 

夢の世界のように

唐突に

不可思議に

大胆に

 

それぞれの

物語をユニークに

うたいはじめる

 

昔話も

神話も

 

ホメーロス

シェイクスピア

 

聖書も

コーラン

 

矛盾や

不調和さえ

 

世界のうちでは

ハーモニーの一部となり

 

いにしえの 

神様同士の喧嘩のような

 

よどみのない

いきいきとした

 

喜怒哀楽に

彩られている

 

ナナカマド

秋の香り

 

カチカチカチと

秒針が

 

世界を一応

ととのえた 

展示 アイノ・アールト | AINO AALTO Architect and Designer ー Alvar Aaltoと歩んだ25年

フィンランドを代表する建築家アルヴァ・アールトの

公私におけるパートナーとして知られる

アイノ・アールトの展覧会を、

竹中工務店東京本店のギャラリーエークワッドで観た。

 

アルヴァ・アールト/1898-1976は

20世紀前半の、新しい技術や素材による

機能性や合理性といった新しい哲学を掲げた

モダニズム近代主義の時代を生きた建築家だ。

 

フィンランドの首都ヘルシンキに生まれた

アイノ・アールト/1894-1949は、

ヘルシンキ工科大学/現アールト大学在学中に

教会堂や木工・家具工場で実習を積み、

卒業後いくつかの建築事務所勤務を経て、

4歳年下のアルヴァが1923年に立ちあげたばかりの事務所に

1924年/30歳で入所する。6か月後ふたりは結婚し、

以来25年間にわたり、仕事上のパートナーとして、

また妻として、二人の子供の母親として、

半世紀の生涯を力強く生きた先進的な女性だ。

 

220㎡の展示室には、

アールト事務所の初期の代表的なプロジェクトが

アイノの果たした役割とともに紹介されていた。

サナトリウム、個人宅、図書館などの設計において、

アイノはとくにインテリアデザインを担当し、

ときには福祉健康センター、農業協同組合ビル、夏の家など

彼女単独の仕事もあったようだが、いずれにしても、

ふたりの仕事は不可分に結びついていたようだ。

ガラスの器や、椅子やテーブル、テキスタイルなど、

より生活に密着した空間のデザインも、

アルヴァと共作で、ときにアイノ単独で行われたそうだが、

そのなかのいくつかは、テーブルウエアのiittala/イッタラ

家具のArtek/アルテックの定番として現在も愛されつづけ、

どこかで目に手にしている人も多いのではないだろうか。

とくに、アールト夫妻と友人等が共同で設立したArtekの、

脚のカーブが特徴的なバーチ材の椅子やテーブルは、

シンプルでどこか楽し気で、ニュートラルなところがすきだ。

 

会場には、

ふたりが建てた自邸と事務所が一体となった

アールト・ハウス/1935-36年のリヴィングの一角と、

同様に手掛けられた首都ヘルシンキのフォーマルな

レストラン・サヴォイ/1937年の一角が再現されていた。

それぞれにふさわしい適度な装飾性を備えた

ディテールや空間デザインからは、

自邸のリヴィングにおいてはあたたかさや快適さが、

レストランにおいてはエレガンスや清潔さが感じられた。

 

再現レストランに設えられたArtekのチェアとソファは

使用可ということで、壁に沿ったひとつづきの

濃いブルーの布が張られたソファで、ひと息つく。

ひかえめなBGMからは、

シベリウス交響詩フィンランディア」が流れていた。

後に讃美歌「やすかれわがこころよ」のメロディーとして、

またフィンランドの愛国歌として転用された美しい旋律が

どことなく新鮮に聴こえてきた。

 

北欧の短い日照時間、および

低い太陽高度による寒冷な気候は、暖炉やサウナ、

屋内の採光などの設計に反映されて、

建築と風土が密接に結びついていることを改めて感じた。

 

AINO AARTOをクローズアップした展覧会は

母国フィンランンドにおいても

まだ開催されていないそうなので、

遠いこの国にいながら接することのできた

実験的な美しい企画展だったといえるかもしれない。

 

主にアイノがデザインしたという湖畔をのぞむ夏の家

ヴィラ・フローラ/1926年で撮影された、

北欧の短い夏を楽しむ家族4人のプライベートフィルムが、

アイノの54年という決して長くはないけれども

充実した人生を象徴しているようで、印象的だった。

江戸の蒸しそば

先日、アンテナショップ・ふくい南青山291で、

そろそろ新物に切り替わるタイミングであろう

そば粉の在庫品が半額になっていたので、

丁度よいとばかりに購入し、

江戸時代の蒸しそばつくりにチャレンジした。

 

江戸時代初期頃に普及したといわるそば切りだが、

当初は製粉および製麺技術の素朴さゆえに

ぼろぽろと切れやすく扱いにくかったことからか、

現在のように茹でるのでなく、蒸して調理されていたそうだ。

「せいろ」という呼び名はその名残であるという。

 

そばの生麺を作るのははじめてだが、

うどんは何度か簡易に作ったことがあったので、

同じような要領で、

そば粉と水を適当に、様子をみながら手で混ぜ捏ね、

10分ほど寝かせ生地を落ち着かせてから

打ち粉とともに麺棒で薄くのばし、

二つ三つに折り畳んで包丁で切り、

半分を茹で、半分を蒸して、食べ比べてみた。

 

幅もまちまちで、ごわごわと、

全体的に田舎そばのように太めだが、

どちらもなかなか美味しく食べることができた。

茹でたそばは、ほどよくコシが立ち、

風味をバランスよく味わえた一方、

そば湯はさらりとした淡泊なものになった。

蒸したそばは、むちもちとした食感と、

濃厚で力強い味わいが印象的で、

栄養素が茹で湯へ流出しにくいことも

関係しているのかもしれないと思った。

表面の打ち粉もそのままなので、

ざらっとした舌ざわりが新鮮で不思議だった。

 

アウトレットのそば粉ではあったが、

石臼引きの、挽きぐるみ/全粒粉という

そば粉の個性を存分に楽しめた、ゆかいな実験だった。

 

甲乙つける必要もないが、

茹で時間に3分ほど、蒸し時間に15分ほどと、

調理時間やそのエネルギーにやや差があることや、

食べなれているせいもあってか、

再び作って食べたいと思うのは茹でそばだった。

たとえば、そば粉を用いたお団子やお饅頭のようなものを

蒸して調理したらむっちりと美味しいだろうと想像した。

 

時代とともに、

つなぎに小麦や山芋や海藻などを用いて、

細くしなやかに仕上げられた

現在では一般的で当たり前なそば切りだが、

江戸時代の人々は、

次第に洗練されてゆく麺の細さやその食感に

大いに感嘆したのではないだろうか。

 

あらためて新物のそば粉でつくってみよう。 

達人のようにはいかなくとも、春と秋、

それぞれの季節の味を感じられたらうれしい。

かぼす

9月の終わりに

大分から箱いっぱいのかぼすが届いた。

 

毎年、ポン酢や豆乳マヨネーズやドレッシングに、

マリネやミックスジュースやパスタにと大活躍しているが、

今年はじめて、はちみつ漬けを作った。

 

よく洗浄し、薄くスライスしたかぼずに

はちみつを注ぎ、漬けおくというシンプルな作り方だが、

1週間後には皮や種まで美味しく食べることができた。

かぼすにはビタミンCやクエン酸が豊富ということなので、

冬特有の乾燥や風邪の予防にもぴったりだ。

 

また、エキスを絞った後のかぼすを

湯船にうかべて入浴するのも楽しみのひとつだ。

柑橘類のさわやかな香りと、

皮に含まれる天然のオイル、橙皮油/とうひゆが肌に心地よい。

 

ささやかな、秋の夜長の楽しみだ。

 

たとえば、人が生きるということは

ありふれた些細なことの集積でもあるのだろう。 

本 わら一本の革命 | 福岡正信

自然農法の提唱者である

福岡正信著作「自然農法 わら一本の革命」を読んだ。

 

自然農法の実践と哲学を

口語体で平易に記述した指南書ともいえる本作は、

1975年に柏樹社より出版され、

1983年に春秋社に引き継がれ、

増版を重ねながら読み継がれている作品だ。

 

愛知県伊予市に生まれた福岡正信/1913‐2008年は、

岐阜高等農林学校/現岐阜大学農学部を経て

横浜税関の植物検査課に勤務していた25歳の頃、

心身の疲労から急性肺炎を患い、死の恐怖に直面し、

人生を一変させる強烈な価値観の転換を体験する。

徹底的な懊悩の末に「この世にはなにもない」という確信、すなわち

「架空の観念を握りしめていたにすぎなかった」ことを体得したという。

その後、郷里へもどり帰農し原始生活を始めるが、

当時村長であった父親の勧めや、激化する戦争の影響から、

高知の農業試験場で科学農法の指導・研究に8年間携わったのち、

終戦とともに、再び郷里で帰農して以来、

終生、自然農法を実践・提唱しつづけた、独立独歩のパイオニアだ。

 

独特の否定の精神、

人知・人為は一切が無用であるという

一切無用論に貫かれた思想により辿りついたのは、

米と麦の連続不耕起直播、またの名を

緑肥草生米麦混播栽培というユニークな農法だ。

 

秋の畑にまだ稲がある10月上旬頃に

雑草対策と緑肥を兼ねたクローバーの種を稲の頭からばら播き、

つづいて10月中旬頃に麦の種をばら播き、

およそ2週間後の10月下旬に収穫の稲刈りをし、

地力・発芽・保水対策、雑草や雀対策として

脱穀後の生の稲わらを長いまま畑全面に振りまく。

それと前後するように11月中旬以降または下旬に、

鳥や鼠たちに食べられないように、また発芽まで腐らないように、

粘土団子にした稲の籾種を播く。

翌年5月に麦刈りをし、

脱穀後の麦わらを同じように長いまま畑全面に振りまき、

6~7月はあまり水をかけず、

8月以降時々走り水をかける無滞水にし

稔りの秋を迎えるという、奇想天外な米麦の一世一代だ。

 

秋に同じ田畑に麦と米を播き、

その上にわらを振りかけるだけの農法ともいえるが、 

どうしたら何もしないですむかということだけを

何十年も追求してきた結果、

これ以上簡単で、省力的な作り方はなく、

もうこれ以上手を抜くところはなくなってしまった、

という境地に至る福岡翁だ。

 

苗代づくりや田植えはどこへやら、

不耕起・無肥料・無農薬・無除草でありながら、

現行の科学農法以上の収穫量をほこるそうだから、凄い。 

 

奇跡のりんごの木村さんをはじめ、

現代の農業やわたしたちの食生活に、

計り知れない影響を与えていることだろう。

 

「 自然農法は、いつでも科学の批判に耐えられる理論をもっています。

 そればかりか自然農法は、科学を根本的に批判し、

 指導する哲学をもっているから、

 科学農法にいつも先行するものだと断言しておきます。」

 

徹底的な否定の精神を、建設的に用いて道を切り拓いた

ユニバーサルな傑人の偉業「わら一本の革命」に、

あっぱれと感嘆するばかりだ。

 

「この世ほど、すばらしい世界はない。」

という翁の言葉が、植物の種のように、

わたしという土地に健やかに深く根付きますように。

もりとざる

蕎麦の「もり」と「ざる」の由来や違いには、

さまざまな事情が複雑に絡み合い現在に至る

ひとくちには語りつくせぬストーリーがあるようだ。

 

蕎麦は、一説には日本では縄文時代から栽培され、

古くは「そばがき」や「そば焼き」として食べられ、

麺として食べられるようになったのは

16世紀末/江戸時代初期頃からということだ。

 

そば切りと呼ばれた麺は、皿やせいろに盛られ、

つけ汁とともに食べられた今に通じるスタイルだが、

江戸時代中期・元禄の頃、

江戸の新材木町にあった信濃屋が始まりといわれる

「ぶっかけそば」が流行したことで、

皿やせいろに盛られた元来のそば切りは「もりそば」と呼ばれ

区別されたということだ。

また、江戸時代中期に、

江戸の深川洲崎にあった伊勢屋が始まりとされる

竹ざるに盛った「ざるそば」は、

器の違いだけだが評判で広く知られたそうだ。

当時、一目置かれたお店だったのかもしれない。

 

時代が下り、明治になると

「もりそば」に海苔をのせて、器の区別もあいまいな

「ざるそば」が誕生するが、もりと明確に区別するために

「ざる汁」という贅沢と考えられた濃厚なつけ汁を用いたそうだ。

 

また現在でも、

そばの芯だけを挽いた更科粉を玉子でつないだ「ざる」、

一番粉を用いた「もり」と、

そば切り自体で区別しているお店もあるようだ。

 

いずれにしても、

もりは並、ざるは上、という感覚だろうが、

個人的には、

シンプルでごまかしがきかない「もり」に惹かれる。

 

とはいえ、現在広く流通するのは、

器やつけ汁や麺によるのではない、

学生の頃、アルバイト先のお蕎麦屋さんに教わった

「海苔なしがもり、海苔つきがざる」だろう。 

それら食文化の遍歴の

成り行きやいい加減さがなんとも面白い。

長い年月に洗われた歴史や伝統には

そのような曖昧で軟派な一面が

多分に内包されて然るべきなのだろう。

 

ところで、江戸時代初期には

そば切りを蒸して調理していたそうなので、

生そばを買ってきてチャレンジしてみた。

せいろを持っていないので、

クッキングシートをひいた蒸し鍋で蒸すこと30分、

火は通っているようだが、水分が足りないような、

ぼそぽそしているような、珍妙な出来あがりだった。

茹でることを想定した規格だからなのか、

近いうちに、珍道中ついでに

黎明期のそば切り作りにトライしてみようと思った。

 

もうすぐ新そばのシーズンでもあるので、

よりいっそう楽しみだ。

雨の9月

東京は

曇りや雨の多い、涼しい9月だった。

 

雨の日のしっとりとした静けさも心地よいが、

雨上がりの透明な空気を胸いっぱいに歩くのは

とりわけ気持ちがいい。

太陽の光がきらきらと、水かさを増した隅田川に反射し、

傍らでハトは羽を広げて日干しをしている。

ひさしぶりの太陽に、みなほっとしているようだ。

寄り道をしながら

いつまでも歩いていたい気分になる。

 

ふと金木犀/きんもくせいの香りに、足がとまる。

こってりと甘い、ユニークな香りだ。

原産は中国南部で、

日本には江戸時代初期に渡来したという、 

秋の季語でもある樹花だ。

四季の巡り、自然のインテリジェンスがまたうれしい。

 

そういえば数日前、

雨の合間にベランダに出ると 、

クローバーとミントの寄せ植えの鉢の余白に

何か知らない植物が発芽していた。

ハーフサイズのうずらの卵のような形態の

種とも卵とも見分けのつかないものが

2~3か月前から土のうえにあったのだが、

長雨の間にぱっくりふたつに割れて

いつのまにか芽が5㎝ほど伸び、

米粒大の小さな葉が3枚ついている。

ときおりの強い雨風にも、

クローバーの陰に守られているようだった。

 

鳥たちの贈りものだろうか、

どんな植物か、生長が楽しみだ。

 

雨と太陽、

それぞれの豊かさに育まれた9月だった。

展示 ジュリア・マーガレット・キャメロン展 | 三菱一号館美術館

「ジュリア・マーガッレト・キャメロン展」を

三菱一号館美術館で観た。

 

ジュリア・マーガレット・キャメロン/1815-79は、

イギリス領であったインドのカルカッタに生まれ、

英国の上層中流階級の社交生活を謳歌するなかで

1863年にカメラを手にし、独自の芸術的表現を探求した写真家だ。

 

彼女の生誕200年を記念して

ヴィクトリア&アルバート博物館が企画した本展は、

6か国にわたる国際巡回展であり、日本初の回顧展ということで、

オリジナルのヴィンテージプリントを含む

約150点の写真や書簡などで構成されていた。

 

独学で発展の途上にある写真の技術を習得したJ・M・キャメロンは、

記録媒体としての写真の役割を一歩進めて、

彼女の言葉でいう「ハイ・アート」の表現を試みていることが特徴的だ。

身近な人物や著名人をモデルとした内面を写し撮るような肖像や、

敬虔なクリスチャンという信仰心が反映された聖母子のモチーフ、

往年の絵画や神話を題材としたファンタジックな作品には、

ソフトフォーカスによる実在のゆらぎや、

当時のモノクロの淡い画質が神秘的で、とても優美だった。

 

会場の三菱一号館美術館は、

イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計による

日本初のオフィスビルを2010年に復元した建物で、

オリジナルは1894/明治27年に竣工、

老朽化のため1968/昭和43年に解体され、

その際に保存された部材を一部再利用するなど、

細部にわたり、かなり忠実に復元されているそうだ。

とはいえ、2~3階にまたがる展示室は現代的な空間に整えられ、

当時の面影をもっとも感じさせるのは、

赤みのあるレンガ造りの外観と、

かつての銀行営業室を転用したクラシックなカフェだろう。

 

作品保護のために20℃に管理された展示室の空調で

冷えた身体を温めるべく、

ハーブティーを飲みながら軽食を待っていたが、

いっこうにサーブされないので尋ねてみると、

どこかのタイミングで伝票が行方不明になり、

注文は消滅していたようだった。

 

それもまたおとぎ話や魔法のようで面白く、

たとえば、どこでもドアのように、

よく似ているけれど、微妙に異なる別の現実に

シフトしたのかもしれないと、

イマジネーションで遊んでみる。

 

不思議だが、印象的な、

菊あるいは重陽節句、9月9日だった。

アルテピアッツァ美唄 | 安田侃

8月の終わりに、北海道の美唄/びばいにある、

彫刻家・安田侃のホームグラウンドのひとつの

野外彫刻公園・アルテピアッツァ美唄へ行った。

 

札幌から北へおよそ60km、

JRの特急電車で35分ほどの美唄市は、

1913~73年に有数の炭鉱都市として栄えた町で、

美唄駅から約5km、バスで20分ほどの道のりを

山間部へと辿った終着点に、

三菱炭鉱住宅の跡地を再生したアルテピアッツァ美唄はある。

その日は雨で、深緑の山々に霧がたちこめていた。

 

1945年に美唄市に生まれた安田侃/やすだかんは、

大理石やブロンズを用いた、抽象的でどこか神話的なフォルムの、

量感のあるパブリック作品を広く手掛けている彫刻家だ。

大理石の名産地である北イタリアのピエトラサンタを拠点に

とくにイタリアと日本で活躍する作家で、

東京の庭園美術館やミッドタウンや国際フォーラム、

渋谷区文化総合センター大和田、トルナーレ日本橋浜町

香川県直島のベネッセミュージアムや、

札幌駅やコンサートホールKitaraなどの、

存在感のある、場と響き合う作品が印象的だ。

 

イタリア語で芸術広場を意味する ARTE PIAZZA は、

1992年の開園以来、少しずつ創り続けられているプロジェクトで、

現在は彫刻作品が大小40点ほど、

野外と屋外に半分ずつ展示されていた。

よく整ったなだらかな緑の丘に点在する彫刻は、

どれも思わず触れたくなるような優美さで、

観ていると無心になる。

足元には、芝生に混じってクローバーやオオバコ、

タンポポに似た黄色い花が愛らしく、

蝶やトンボが飛び交って楽し気だ。

広場の奥の森のなかにも作品が展示されているようだが、

入り口に「熊に注意」のアナウンスボードがあり、

鬱蒼とした森のなかは雨のためにほとんど人影がなく、

どうも人の領域ではない気がして、引き返した。

展示場として再利用されている、木造の小学校校舎と体育館の、

山小屋風の赤い屋根が、あたり一面の緑によく映えて朗らか。

 

めずらしく北海道に台風が上陸するとかしないとかで、

次第に雨足が強まり、

工房を備えた小屋の一角にあるカフェでひと休みする。

雨の音と、鳥の声、緑のにおいが、心地よい。

ログハウス風の屋内には人がまばらで、とても静か。

 

どこかなつかしさを覚えるような、

いつまでもそこにいたいような。

またいつか、幾度でも訪れたい、

雨の降りしきる、豊かな秋の入り口だった。

映画 ココ、言葉を話すゴリラ | バーベット・シュローダー

「ココ、言葉を話すゴリラ/Koko le gorille qui parle」を

銀座メゾンエルメスのル・ステュディオで観た。

 

おもにフランスおよびアメリカで活躍する

映画界のプロデューサー・監督・俳優である

バーベット・シュローダーが

1978年に監督したドキュメンタリー作品で、

手話をあやつるローランドゴリラとヒトとの

種をこえた交流あるいは研究の物語だ。

 

1971年にサンフランシスコの動物園で生まれたゴリラのココは、

生後まもなく手話を習得しはじめ、

撮影当時、350の単語をつかいこなし、

500以上の単語を理解することができたという。

スタンフォード大学で心理学を専攻していたペニー・パターソンは、

心理学者ベアトリクスとアレンのガードナー夫妻の研究のもとに

ココに手話を教えているが、

その交流は心からのもののようで、感動的でもある。

やがて動物園からココの返却を求められるが、

1976年にゴリラ財団を設立して研究・保護を続け、

現在も45歳になったココとパターソン博士との

運命的な友情は続いているようだ。

 

ココのコミュニケーションはときにユニークで興味深い。

硬くなったパンを「石のクッキー」、

パイプでたしなむ葉タバコを「パイプフード」、

ネコの写真をみて「トラ」、と表現をする。

 

手話で「くすぐって」と自分の体を指して要求し、

くすぐると大喜びをし、「もうおしまい」と告げると、

「もっとくすぐって」と催促する姿は、

まるでヒトの子供のようだ。

 

それらの類まれな交流に、

ほほえましさと同時に、ある種の違和感を覚えたのは、

ひとつには、ココが声を発することなく、

手話という沈黙のコミュニケーションをとる一方で、

パターソン女史は手話と同時に話し言葉を用いて働きかけるため、

一方的・威圧的に感じられたということがあるかもしれない。

それは研究の本質と通じているともいえるだろう。

 

また、追いかけっこをしようと誘うココと、

それらに応じきれないヒトとの、

身体能力のギャップも、印象的だった。

 

車にのり、郊外の広い丘に遊びに行く。

手綱を解き、のびのびと樹々の間を

アクロバティックに動き回るココの姿は、野生そのものにみえる。

やがて、帰るために車へ向かう人々のあとを、

その自由意思でついてゆき、自ら乗車するココの後ろ姿は、

ほとんどヒトと同化している。

 

ゴリラのココの幸福は

私たちヒトの幸福の尺度では計れないが、

それでも彼女が幸福であることを願わずにはいられない、

ニュートラルな、やさしい映画だった。

本 長崎原爆記・死の同心円 | 秋月辰一郎

1945年8月9日に長崎で原子爆弾を体験した

医師・秋月辰一郎/あきづきたついちろうの著作、

「長崎原爆記」と「死の同心円」を読んだ。

 

福島の原子力発電所の事故以来、

思いがけず人工放射線が身近なものとなり、

ふとしたきっかけで読みはじめたが、

あらためて原爆および被爆の事実に圧倒された。

 

長崎市に生まれ育った秋月辰一郎/1916‐2005は、

爆心地から1.4㎞にある浦上第一病院で

勤務中に被爆する。幸い無傷だったため、

廃墟となった病院で負傷者の救護・治療に奔走し、

戦後まもなく再建し名を改めた同病院/聖フランシスコ病院の

院長を永年つとめながら、長崎の平和運動を先導した人物だ。

 

「長崎原爆記」は

1945年8月9日からの一年間にわたる原爆白書で、

1966年に弘文堂から刊行されたのち、久しく絶版であったが、

1991年に日本図書センターの「日本の原爆記録」全20巻のうち第9巻に所収、

その後2010年に同社の平和文庫に収められ、読み継がれている作品だ。

「死の同心円」は

「長崎原爆記」に大幅な加筆と訂正を加え、まとめなおした作品で、

1972年に講談社から刊行され、2010年に長崎文献社から復刊されている。

 

少なからず重複し、共鳴し合うふたつの作品では、

原子爆弾による被害の実態が、医師の視点から記録され、

この世のものとは思えぬおそろしさに、気が遠くなる。

想像を絶する、71年前の夏の日の出来事だ。

また、恩師のひとりで「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」などの

著作で知られる医学博士・永井隆との因縁や、

仏教/浄土真宗キリスト教カトリックとの信仰上の煩悶が

透徹したまなざしで語られ、心に響く。

 

一方、生来の虚弱と結核体質を克服すべく、

明治の医師・石塚左玄/いしづかさげんの食養学を

桜沢如一/さくらざわゆきかずが発展・提唱した

現在のマクロビオティックの理論を学んでいた秋月医師は、

それらを独自にアレンジしたミネラル栄養論/秋月式栄養論を考案し、

放射能症・原爆症に効果的であるとして、

塩と玄米と味噌を積極的に摂り、

砂糖を避ける食養を実践していることも、興味深い。

  

終生、長崎の地に在りつづけた秋月医師は、

1992年に核戦争防止国際医師会議IPPNW終了後、

喘息の発作で倒れてから、13年間の昏睡状態を経て、

2005年/89歳で永眠した。

 

今日、地上に生きつづける私たち人類は

原子力との新しい関係を構築中だが、

よりよい未来への希望を失わず、

ミネラルの豊富な塩と玄米とお味噌汁を食べ、

かけがえのない命に感謝したい、2016年の8月だった。

建築 21世紀キリスト教会 | 安藤忠雄

渋谷区広尾に2014年に建てられた

安藤忠雄氏設計による「21世紀キリスト教会」へ見学に行った。

 

日曜日11時からの礼拝に参加する。

50名ほどだろうか、比較的若い人々を主に会場は埋まり、

前半30分は讃美歌、後半30分は講壇にあてられ、

この日は「尊敬」と「天国の文化」について、新約聖書を読み解く。

 

プロテスタントの増山牧師は、

かつてビジネスマンであったという異色の経歴からも

聖俗に通じ、広く人の心をつかむ、

明るく親しみやすいお人柄という印象だった。

時代に寄り添った教会の在り方を模索する様に

共感するところが多かった。

 

教会の建物は、コンクリートの打ちっぱなしで、

上からみると二等辺三角形に設計されていることが特徴的だ。

1Fに礼拝堂やオフィスが、

B1にカフェや祈りの部屋などが配された、牧師私設の建物だそうだ。

礼拝堂は木のぬくもりが感じられる空間で、

東を向いた二等辺三角形の先端には、

建物全体をつらぬいてガラスがはめこまれ、外光が穏やかに射し込んでいる。

ごく細い象徴的な十字架が、背面からその自然光に照らされて

宙に浮かびあがるような、現代的な美しい礼拝堂だった。

 

建物はその内部での営みに働きかけるだろうし、

内部での営みは建物に生命と輝きを与えるだろう。

 

人々の拠り所として、

建物も教会も信仰も、すばらしく機能していた。

 

 

聖書を手に、よく知られるヨハネ福音書の冒頭をめくる。

「初めに、ことばがあった。

ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

 

また、十字架にかけられたイエスが、

自分を磔刑する者たちについて言及したと伝えられる、

慈悲深くも絶望的な、ルカの福音書23章34節の言葉をひく。

「父よ。彼らをお赦しください。

彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

 

建築家とその作品を通して、 

図らずも、様々な祈りに触れた安息日だった。

大久保混声合唱団 第40回定期演奏会

大久保混声合唱団の第40回定期演奏会

勝どきの第一生命ホールで聴いた。

 

ほぼ満員の客席は、創立59年という合唱団の

厚みのある歴史を物語っているかのよう。

演奏会は4つのステージで構成されていたが、

とくに後半のふたつのステージを楽しく聴いた。

 

明るい歌声と、白を基調とした衣装が清々しい前半から

休憩をはさみ、後半の「近代日本名歌抄」は、

大正から昭和初期に親しまれた歌謡曲や童謡を

信長貴富/のぶながたかとみが編曲した作品群だ。

本ステージでは「あの町この町」「宵待草」「ゴンドラの唄」

「青い眼の人形」「カチューシャの唄」が演奏されたが、

リラックスした、のびのびとした歌唱に心が和む。

様々な実人生が集い交わるアマチュアの合唱団の、

歌うことを生業とした歌手たちには持ち難い

ある種のリアルさを演奏から感じることができ、有意義だった。

鮮やかな編曲により新しい息吹が吹き込まれた大衆歌は、

黒澤明の映画「生きる」の「いのち短し 恋せよ乙女」とは異質の

明朗な歌として印象にのこった。

 

最終ステージでは、

1983年生まれの作曲家・面川倫一/おもかわのりかずに委嘱された

組曲「サムのブルー」が初演された。

朝日新聞折々のうた」で広く知られる詩人・大岡信

若かりし頃の、宙を舞うような熱気あふれるテキストに寄り添った、

骨太でまっすぐな、衒い/てらいのないサウンドという印象だ。

作曲家が合唱団を理解し、誠意をこめて作曲していること、

合唱団が作品を愛し、大切にしていることが伝わってくる

幸福なコラボレーションだった。

 

新しいものがあちこちで、次々とうまれている。

それらが、破壊ではなく建設を、

疑いではなく肯定を、悲しみの先の喜びを希求する、

純粋で強度のある創造であると、しあわせだ。

 

そろそろ、今年も蝉が鳴きはじめた。

蝉たちの共鳴のすばらしさといったら。

たまたま見たふたつに割れた胴体は、

ほんとうに楽器のように空洞だった。

夏の名歌手たちは、なにを歌っているのだろう。

彼らの言葉が聴けたらいいのに。

旧古河庭園と洋館/大谷美術館

陽射しはつよいが風のきもちよい午後、

北区西ヶ原の旧古河庭園と洋館/大谷美術館へ行った。

 

国指定名勝として東京都が管理している庭園は

バラの見どころとして知られ

春と秋のシーズンは混雑しているようだが、

その日は休日にもかかわらず、

ゆったりとした時間が流れていた。

 

高低差のある敷地30780㎡は

台地・斜面・低地にまたがる地形を活かした

立体的で彫塑的な庭園という印象だった。

小高い丘に建つ石造りの洋館から見渡す

斜面に配された洋風庭園と、低地にひろがる日本庭園は、

それぞれが自律しつつ、ほどよく調和していた。

かつては借景として、

庭園のはるか彼方に富士が望まれたときき、

目を閉じて、イメージしてみる。

 

明治の頃には、

政治家・陸奥宗光/むつむねみつの邸宅であったそうだが、

陸奥氏のご次男が養子にでた際に、その養家である

足尾銅山などの事業を成した財閥・古河家の土地となったという。

 

建築家ジョサイア・コンドル設計による洋館/大谷美術館は、

三代目当主にあたる古河虎之助が1917年/大正6年に建てたもので、

関東大震災や戦争をくぐりぬけ、築99年になるにもかかわらず、

床が軋むことも、くたびれた雰囲気もなく、良好に保存されていた。

所有権をめぐる複雑な事情から、戦後30年ほど放置され、

現在は洋館にかぎり大谷美術館が管理・運営し、

見学を制限していることも幸いしているのかもしれない。

 

イギリス人のジョサイア・コンドル/1852‐1920は

25歳で招聘され来日して以来、生涯を日本で過ごし、

近代建築の創成期に重要な仕事をした建築家だ。

現存する旧岩崎邸や、レプリカではあるものの三菱一号館などで

その仕事に触れることができるが、

旧古河虎之助邸はコンドルの遺作として、

また洋館2Fの居住空間にユニークに和室が組み込まれている構造が

当時の文化状況を偲ばせるようで、とても興味深い。

 

同じくコンドルの設計による洋風庭園と、

京都の庭師・植治こと

七代目小川治兵衛/おがわじへいによる日本庭園を堪能し、

現在は喫茶室として開放されている

洋館1Fの応接室・小食堂・大食堂のうち、

深紅のビロードの壁紙が華やかな大食堂で、ひと息つく。

 

さわやかな風が北から南へ、丘のうえの洋館を通り抜ける。

どこかイングマール・ベルイマンの映画「叫びとささやき」の

赤の部屋を彷彿とさせる幻想的な空間のなかで、

しばしまどろむ、盛夏の昼下がりだった。

展示 フリーダ・カーロと石内都

七夕のころ、

石内都展「Frida is」を資生堂ギャラリーで観た。

 

1947年生まれの写真家・石内都/いしうちみやこは、

かつての生者たちの遺物を女性らしい繊細さで記録した仕事、

近年の「Mother's」や「ひろしま」「Frida by Ishiuchi」などで

よく知られている。

 

本展は

2012年の作品「Frida by Ishiuchi」と

その続編にあたる2016年の「Frida Love and Pain」からの

31点の作品/写真で構成されていた。

 

ギャラリーの壁面はそれぞれ、

原色の青・赤・黄、そして鮮やかなすみれ色にペイントされ、

メキシコの女性画家のヴィヴィットでカラフルな遺品たちは、

白いフレームに縁どられた写真のなかで、なまめかしく息づいていた。

 

フリーダ・カーロ/1907‐1954年は

もちまえの強く類いまれなる個性から、

幼年時に患った感染症ポリオによる足の障害や

10代後半で遭遇したバス事故による後遺症および度重なる手術に、

また画家である夫ディエゴ・リベラとの愛の確執に、負けていない。

 

ポリオのために成長が異なる左右でサイズの違う靴や、

カラフルな素描で埋め尽くされた胴体のギブスは、

まるで彼女の代名詞であるかのような圧倒的な存在感だ。

些細な身の回りの小品、

体温計・空き瓶・割れたサングラスなどからも

ただならぬ気配が漂うが、

それは表現する者と観る者の双方が

大小なり彼女の人生を共有しているからなのだろう。

 

ふと、コンセプチュアルな表現にときにみられる

非自律性という弱点あるいは美点を意識した。

不在の被写体であるフリーダ・カーロの人生を知らぬとき

人は何をどう観てよいのかと戸惑うかもしれない。

あるいはよく知っている場合、感慨は密やかでありながら、

またそのためにいっそう甘美であるかもしれない。

 

 

7月7日、

東京の夜空は、日中の晴天から一転し、

どんよりとしたあつい雲に覆われていた。

織姫と彦星は無事に再会できただろうか。

 

星のひとつとなったフリーダ・カーロ

地上の痛みから解き放たれて

幸福な愛に恵まれていますように。